未発表のオリジナル原稿
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翻訳について
これは、フランス語で書かれた未発表原稿の編集品質による全訳です。フランス語原作は未出版で、現在も出版社を探しています。この読書版は、専門読者が日本語で作品の声、リズム、物語の展開を評価できるように用意されたものです。将来、出版社の制作方針に応じた調整が加わる可能性はありますが、本版は日本語による一つの完結した文学作品として仕上げられています。
第1章
鋳鉄塊
14番作業台
鋳鉄塊が試験台から離れたとき、リーズ・ヴァレンヌが最初に疑ったのはセンサーの不具合だった。
発見とも、奇跡とも、何かの始まりとも思わなかった。締めつけの甘い配線、でたらめな数値を吐くセンサー、APAVEの検査と不適合票送りになる試験台。雨の月曜日、14番ホールでは、重大な事態も決まってみみっちい故障から始まる。
鋳鉄塊の重量は八十七・三キロ。横に溶接された取っ手、剝げかけた黄色い塗装。ロードセルの校正に使う台形の鋳鉄ブロックだ。見るからに性格が悪く、指を折ることで知られていた。二週間前、派遣作業員が下に親指の爪を挟み、技術排水溝に吐いた。それ以来、誰もが猫のような手つきで扱っていた。
リーズはそれが三センチ浮き上がるのを見た。
跳ねたのでも、弾んだのでもない。
上がったのだ。
ブロックの下に、あまりにくっきりと影の線ができ、目で追うだけの時間があった。取るに足らない影。鋳鉄と試験台のあいだに刻まれた、空気の切れ目。それから鋳鉄塊は左へ一センチ流れた。別の工場にいる誰かが、ここでは誰にも見えるはずのない糸を、そっと引いたように。
リーズは手のひらで非常停止ボタンを叩いた。
機械が唐突に沈黙した。ブロックは落下した。衝撃は鋼板から架台へ、コンクリートへ、彼女の脛へと抜けた。奥歯まで響いた。
ホールの奥でシャッターが軋んだ。フォークリフトが後退音を鳴らした。さらに向こうでグラインダーがふたたび唸りだした。世界の残りは何ひとつ気づかなかった。
リーズも三秒間、何が起きたのかわからなかった。
赤いボタンに手を置いたまま、高すぎるところで鳴る心臓を抱え、制御画面を凝視した。荷重グラフはめちゃくちゃだった。ほぼゼロまで急落し、ノイズの棘を最後に残して、汚く戻っている。いつもなら「測定値に外乱」と書いてごみ箱へ送る類いの曲線だった。
ホールを見下ろすガラス張りの通路へ目を上げた。誰もいない。
14番作業台は、四年前から彼女の縄張りだった。正式には、港湾、建設現場、そして数トンの構造物が肝心なときに調子外れの唸りを上げては困る、ありとあらゆる重量設備の振動機械調整を担当していた。非公式には、ほかの者が顔をしかめるだけで説明を済ませる仕事をしていた。構造物の声を聴く。フレーム、受台、フランジ、ダンパーに触れ、こう言うのだ。ここは嘘をついている。ここは無理な働き方をしている。ここは衝撃に耐えられない。
名門校出の技師でも、著名な研究者でも、雑誌の表紙を飾る神童でもない。四十一歳、青い社員証、誰の役にも立たない程度の給料。そして工場じゅうの笑いものになっている癖があった。一人きりになると、部品に話しかける。
だが今は何も言わなかった。
試験手順を再開した。
鋳鉄塊の真下、試験台の上には、本来そこにあってはならない組立品が置かれていた。その日の昼、廃材で組んだ小さな受台だ。ずらして重ねた三つの環、二つのセラミックリング、軽合金のケージ、そして中央には空洞。ごつごつと醜く、ありそうもない代物だった。不良品箱から拾い集めた金属くず。ハサンが作っているところを見たら、またこう言っただろう。「リーズ、今度は虫でも作ってるのか?」
もっとひどいことも言われてきた。
その組立品は、朝に描いたスケッチをもとにしていた。
それも人には隠していた。
二年前から、目を覚ますと頭の中に形が残っているようになった。記憶でも悪夢でもない。受台、ケージ、空のまま残すべき空間、説明できない配置。それでも手の中には、明確な指示のように収まっている。レシートや整備票、健康保険組合の封筒に走り書きし、たいていは捨てた。セラミックリングの夢を見る四十一歳の女が、わざわざ人生を人目にさらして話すことでもない。
頭の中だけではなかった。目覚めても、その形は手首や膝の裏、腹のくぼみに残っていた。まだ誰も名前を発明していない何かを、自分の一部が夜通し支えていたかのように。眠っているあいだ、断りもなく誰かに観察されていたような、馬鹿げた居心地の悪さとともに起き上がることも多かった。何も起きてはいない。それでも、自分抜きで何かが起きていたのなら、そちらのほうが悪い。
試験台が再始動した。
加振機が低い脈動を刻みはじめた。耳に聞こえるというより、身体で感じる振動だった。固定ボルトがかすかに震えた。画面上の荷重は八十七・一キロで安定した。
それから、滑り落ちた。
84。
67。
31。
4。
鋳鉄塊は二度目の離床を果たした。
今度はすぐに非常停止を叩けなかった。もっと正確に見えるかのように、ただ顔を前へ突き出した。ブロックはほんのわずかに浮いていた。三センチ、それ以上ではない。だが間違いなく浮いている。リーズは試験台と鋳鉄のあいだへ手を差し入れた。
空気しかなかった。
ブロックはそのまま留まりつづけた。どこか間抜けで、腹立たしいほどだった。片づけ方を間違えた器具のように、宙に吊られている。
そのとき、ホールの入退場装置が鳴った。
リーズは電源を切った。
鋳鉄塊が、判決のような音を立てて落ちた。
ハサン・ベナリが通路から顔を覗かせた。
「俺のシムセット、見なかった?」
リーズの手はまだ非常停止ボタンの上にあった。
「見てない」
ハサンは眉を寄せた。
「死人みたいな顔してるぞ」
「よく眠れなかった」
「いつだって寝てないだろ」
二歩ほど中へ入り、試験台とブロック、平常表示に戻った画面、それから廃材の小さな組立品に目をやった。
「何だ、それ?」
「私のやつ」
「ああ」
「私のやつ」が「気を利かせて放っておいて」を意味することくらい、長く一緒に働いてきたハサンにはわかっていた。
彼は肩をすくめ、右手の容器からシムを見つけると、去り際に言った。
「またセンサー飛ばしても、俺はかばわないからな」
姿が消えてから、リーズは待った。三十秒。一分。二分。
それから作業台の軟質カーテンを引き、工程監視用のローカルカメラを外して、もう一度始めた。
重さを拒んだもの
夕方までに、二つのことがわかった。
第一に、センサーの不具合ではない。第二に、それが何なのかはまるでわからない。
取り憑かれたような細かさで、手近にあるものを使ってすべてを調べた。ロードセル。インバーター。電源。基準分銅。シールド。固定具。漏れ電流。天井クレーンから回り込む振動。回線を切り離し、試験台を替え、コンセントを替え、プローブを替えた。組立品を外す。何も起きない。戻す。荷重が落ちる。セラミックリングを一つ外す。何も起きない。リングを戻す。落ちる。
六回目の試験は携帯電話で撮影した。
七回目は起動前に鋳鉄塊の下へシムを挟んだ。荷重が落ちた瞬間、シムは鋭く解放され、鋼板の上を滑った。
八回目は直尺を近づけた。隙間を通った。
九回目、加振中のブロックの横手にある取っ手へ、思い切って指を二本かけた。
質量は感じた。
だが重さは退いていた。
その違いが冷たい平手打ちのように全身を抜けた。ブロックはもうほとんど下へ引かれていない。それでも動きを変えようとすれば、相変わらず抵抗する。風船でも、軽くなった物体でもない。別の何か。地面への服従だけを捨て、鋳鉄の頑固さを残した何か。
停止が遅れた。
横へ流れつづけていたブロックに、二本の指を持っていかれた。折れも潰れもしなかったが、視界が白くなるほど捻られた。罵りながら後ずさりし、工具台車にぶつかると、ワッシャーの箱が床に落ち、雹のような音を立てた。
誰も来なかった。
ホールからは人が引きはじめていた。外では雨が窓を斜線で埋めていた。支柱のあいだから門型クレーンの高いマストが見える。洗濯水のような空に黒く浮かんでいた。一日の終わりのモントワールはいつだって、クレーンと塩と不機嫌を材料に、自力でできあがった国のように見えた。
リーズは操作用のスツールに腰を下ろし、招いてもいない動物を見るように鋳鉄塊を見つめた。
彼女を捕らえていたのは、もはや異常だけではなかった。
滑稽さだった。
このまま見せに行けば何が起きるか、よくわかっていた。まず三人の前で再現させられる。それから六人。次に、笑いたくても危険は冒したくない工場長。そのあと品質担当がバイアスだと言いだし、別の者が磁気汚染、さらに別の者が意図せぬ細工を疑う。意味も知らずに心因性と言いだす者もいる。外部鑑定を提案する者もいるだろう。そして運悪く現象が再現されれば、その小さな群れ全体が、彼女からそれを奪うための機械に変わる。
目にしたものを公表する以上に愚かなことがあるとすれば、何も記録しないことだった。
だから記録した。
方眼ノートを三ページ埋めた。時刻。周波数。環の向き。推定締付トルク。温度。聞こえた振動。牽引感の低下。横方向へのドリフト。毒々しいほど精密に組立品の図を描いた。
それから三ページを破り取った。
四つ折りにして靴下へ差し込んだ。
正式な作業票には、こう書いた。「C3セル読取り不安定。明日再作業」
それが最初の嘘になった。
この先のすべてがそこに宿るとは、まだ知らなかった。反重力でも、金融でも、軍隊でもない。むき出しの真実は、それを守る嘘がなければ長く生き延びられない――工場で働く一人の女がそう悟った、その瞬間に。
橋
夜勤との交替後、施設を出た。
駐車場から片側二車線の道路まで、ワイパーはずっと呻いていた。姉妹のマリアンヌからの着信を二度逃していた。管理組合からのメッセージ、健康保険組合からの通知、トゥインゴの車検を促す自動リマインダーもある。変わる前に決して知らせてはくれない人生の、平凡で慎み深い顔はそのままだった。
サン=ナゼール橋の料金所でマリアンヌにかけ直した。
「やっとね」
「仕事だったの」
「お母さんが捜してた」
「どうして?」
「七十歳で、ほかにすることがないから」
リーズはため息をついた。
三歳下のマリアンヌはポルニシェで歴史と地理を教えていて、世界はいつだって最後には筋の通った形に収まるべきだ、という口調で話した。仲のいい姉妹だった。たやすく互いを裁いた。
「日曜、来る?」とマリアンヌが訊いた。
「わからない」
「あなた、いつだってわからないのね」
「待機当番かもしれないし」
考えもせずに嘘をついた。言葉はひとりでに口から出た。空気より、ほんの少し重いだけだった。
「お母さん、またお父さんの部屋を売るって言いだしてるの」
リーズはハンドルを強く握りすぎた。
父のアパートは、八か月前に彼が死んでから空いたままだった。華々しい悲劇などではない。十一月の朝、靴下姿で、台所と浴室のあいだの廊下に倒れた。心筋梗塞。アンドレ・ヴァレンヌは十五年間港湾労働者として働き、そのあとフォークリフト運転手になり、名前を失って株主を増やしてゆく埠頭で膝をすり減らした。口数の少ない男だった。口に出す前に、何もかも重さを量った。リーズの質量と沈黙への執着は、たぶん彼譲りだった。
「日曜に話そう」と彼女は言った。
マリアンヌは嘘を指摘しなかった。ただ、こう言った。
「また、眠れなくなる女の子みたいな声してる」
二分後、リーズは話を切り上げた。
「河口のバルコニー」という名を頑なに掲げつづける集合住宅の十五階、自宅へ入ったとき、部屋が高すぎるという馬鹿げた感覚に襲われた。大きな窓の向こうに港の灯、遠くの製油所、マストの赤い標識灯、水面の黒い染みが見える。いつもならその眺めが寄り添ってくれた。だが今夜は、敵意を向けられているように感じた。
天井灯をつけずに鞄を置いた。コップに水を注いだまま調理台へ忘れ、靴下から紙を取り出し、続いて携帯電話を出した。
映像は残っていた。
十三回見た。
十三回、鋳鉄塊が試験台から離れた。
六回目で、実際にはほとんど見えなかった細部に気づいた。浮上の直前、廃材の組立品が中央の空洞へ向かって身を締めるように見える。物理的にではない。ありふれた計器で測れるほどではない。それでも、部品同士がどこかで一つの調子へ合ってゆくように感じられた。
台所から古いリングノートを出した。夢で見た形を描いていたノートだ。そして見比べた。
14番ホールで作った組立品は正解ではない。ただ、近い。
そのほうが悪かった。
まったくの偶然で効果を得たのではない、ということだからだ。
自分でそこへ近づいていた。
リーズは夜の大半を使って図を描き直した。零時を過ぎてから、乾きすぎたコンテチーズを一切れ立ったまま食べた。そのあと、冷めたコーヒーをノートにこぼした。さらにあとになって、一人で笑いだした。
何よりもその笑いが怖かった。
ずっと遅くなってから、ノートを腹の上に開いたままソファに横たわった。
眠りは警棒の一撃のように襲ってきた。
その夜、夢はいつもの夢の言葉を話さなかった。
顔も、場所も、物語もなかった。
まず、闇があった。それから、空洞のような広がりが現れた。部屋でも格納庫でもない。壁のない内側。その内側に線が浮かんだ。白く、細く、汚れた鋭さを帯びていた。それらが描くのは物体ではない。許可だった。これは触れていい。これはいけない。これはもっと下を通る。これは空のままにする。二つの環がわずかに開いた。リングが回った。中央のコアが爪一枚ぶんずれた。そしてその背後にある何かが、ぎりぎりのところで持ちこたえた。
リーズは上体を起こして目覚めた。首筋は汗に濡れ、口の中には馬鹿げた一語があった。
もう一度。
まだ夜だった。
夜明け
夜明け前に、社員証をかざした。
守衛室で北欧ミステリーを読んでいた元船乗りが顔を上げた。
「何を忘れた?」
「尊厳」
男は鼻を鳴らした。
「見つけたら、どこにあったか教えてくれ」
無人の14番ホールは、ほとんど美しかった。
作業員も無線も罵声もなければ、別のものが聞こえる。建屋の金属外装を叩く雨、梁が熱で立てる小さな軋み、遠い港湾設備の唸り。夜明け前に呼吸する、疲れきった巨大な獣。
リーズは組立品を作業台へ戻した。
何をすべきか、わかっていた。それがいちばん恐ろしかった。
一つの環を緩めた。八分の一回転、それ以上ではない。リングの位置を替えた。セラミックのコアを裏返した。それから余分なワッシャーを一枚抜いた。中央の空洞が数ミリずれた。全体が突然、即席の工作物らしさを失った。美しくなったのではない。
正しくなった。
その正しさに吐き気がした。
鋳鉄塊を載せた。
再起動。
曲線は前日より速く崩れた。
87。
42。
9。
0.8。
鋳鉄塊は三センチどころではなかった。
二十センチ上昇した。
リーズの腹と同じ高さで、八十七キロのブロックが地面を認めずに浮いていた。震えもせず、力んでもいない。自分の居場所について、ようやく誰かが嘘をやめるのを、生涯ずっと待っていたようだった。
手を伸ばした。
鋳鉄が淫らなほど素直に寄ってきた。
指先で押した。鋳鉄塊は空中を滑った。風船のようにではない。従順で、根に持つ質量として。急に止めようとすると、慣性が肩を貫き、身体を架台へ叩きつけた。
叫ばないよう作業着の袖を噛んだ。
ブロックは緩慢な速度で試験台の縁へ向かいつづけた。
リーズはシステムを停止した。
遅すぎた。
鋳鉄塊は二十センチの高さから鋼板へ落ちた。衝撃で固定具が二つ外れた。十ミリのスパナが床で跳ねた。右手のパネルでは、保護配管が裂けた。
そしてホールの扉が鳴った。
清掃員のナデージュが、カートを押したまま凍りついた。
「なんてこと」
リーズは振り向いた。
組立品はまだそこにあった。鋳鉄塊もある。もう何も浮いてはいない。
「大丈夫?」とナデージュが訊いた。
リーズは左手を上げた。指はすでに腫れはじめていた。
「この重りを落としたの」
ナデージュは鋳鉄塊と、裂けた配管と、床のワッシャーを見た。
「一人で?」
「ほかに誰か見える?」
ナデージュは息を吐いた。
「あんた、七時前に自分を壊すことだけは昔から天才ね」
カートを置き、リーズと一緒にブロックをパレットへ戻すと、廃材の小さな組立品を指した。
「それは?」
「災害防止装置」
「なら、動いてないわね」
リーズは笑いそうになった。代わりにうなずいた。
「そう。まだね」
ナデージュが去り、カートの音が聞こえなくなるまで待った。
それから組立品を見た。
もう一度と夢は言っていた。
家には帰らなかった。
14番作業台を閉鎖し、カーテンを引き、携帯電話を機内モードにして、複製を作った。
複製
昔からその才能だけはあった。手が理解したばかりのものを、素早く作り直せる。
朝の班が本格的に作業へ戻る前に、二つ目の受台を組み上げた。同じケージ、同じ環、同じリング、同じ中央の空洞。部品を量り、向きを確かめ、ペンの跡まで写した。フランジの傷も同じ。締付トルクも同じ。
双子はあまりに似ていて、並べて置くと二つで彼女を嘲っているようだった。
もっと小さな基準分銅を二つ用意した。それぞれ二十キロ。
一つ目の組立品。
起動。
荷重が明瞭に落ちた。ブロックは指一本ぶん浮いた。
二つ目の組立品。
起動。
何も起きない。
停止。再開。再点検。分銅を入れ替え、電源を入れ替え、ケーブルを交換して、やり直した。
何も起きない。
四十分かけて製作上の差異を探した。見つからなかった。二つの物体は同一だった。
そのうち一つだけが、世界に嘘をつかせた。
リーズは架台にもたれた。両手は黒く汚れ、口の中は乾いていた。
最初に浮かんだのは技術者としての考えだった。パラメーターが一つ足りない。
次に浮かんだものは、もっと醜かった。
生きた組立品を見た。次に死んだ組立品を見て、昨夜のことを考えた。
目にしたもの。
夜明け、無言の権威に従うように部品を置き直したこと。
扉を閉じるように、強く目を閉じた。
ふたたび開けても、死んだ組立品は死んだままだった。
朝の班員が外のゲートで社員証をかざしはじめた。足音、話し声、ロッカー、紙コップのコーヒーが、昼の訪れとともに戻ってくる。あと十分もすれば、ホールはいつもの生活を取り戻す。冗談、不具合票、作業速度、役に立つ汚れ。
リーズは複製品を灰色の容器へ収めた。
生きたほうは別の容器へ。
二つとも14番作業台の下、奥深く、誰も決して開けない平パッキンの段ボール箱の後ろへ滑り込ませた。
それから前日の作業票を二つに破り、新しいものを書いた。
「保護配管不良。基準分銅衝突。セル要点検」
ハサンの社員証が鳴った。
遮音用イヤーマフを首にかけ、あくびをしながら近づいてきた。
「いったい何時からいるんだ?」
「早すぎる時間」
彼は指を見た。
「おい。ほんとにあの鋳鉄塊を落としたのか」
「そう」
「一人で?」
リーズは14番作業台を見た。閉じたカーテン、片づいた作業台、その下に隠した二つの容器、すでに人で埋まりはじめた広大なホール。
そして答えた。
「そう。一人で」
それはもう、自分を守るための嘘ではなかった。
誓いだった。
第2章
空き家
鍵
父のアパートを選んだのは、死人なら生きた人間ほど質問をしないからだった。
日曜日、ジャンヌ・ヴァレンヌは十二枚の皿を捨て、三世代分の重さを抱えた食器棚を売り、コーヒーを飲む前に一人の人生すべての行く末を決めようとした。青いスカーフを巻き、誰に見せるでもない口紅をつけていた。悲しみに落ち込まないよう、それより速く進もうとする女の、神経の張りつめた疲労があった。
アンドレ・ヴァレンヌのアパートはパンオエにあった。何度も名を失った造船所を見てきた低層住宅だ。三部屋、狭い廊下、黄色いタイルの台所。数か月が過ぎても、冷たい埃と古い煙草の匂いが残っていた。居間の雨戸は半分閉じたままだった。残されたものを選り分ける日曜日の色をした光が差していた。
マリアンヌは先に着いていた。当然だった。すでに三つの山を作っていた。残すもの、譲るもの、捨てるもの。ほかの者が曖昧さを放置する場所に、マリアンヌは整った動詞を置いた。
「遅刻ね」
「来たでしょう」
「同じことじゃないわ」
リーズは左手を上着のポケットに隠していた。
やがてジャンヌが、テープを巻いた指に気づいた。
「今度は何をしたの?」
「重りを落とした」
「自分の上に?」
「そばに」
マリアンヌは手を見て、それから顔を見た。
「嘘が下手ね」
「だったら試験官みたいに私を調べないで」
ジャンヌは取り合わなかった。もう食堂の引き出しを開け、輪ゴム、取扱説明書、缶切り、健康保険組合の請求書二枚を取り出していた。父の死後も、この雑多なものがひとりでに繁殖したかのようだった。
「水曜に業者が来るから、それまでに進めておかないと」
リーズは顔を上げた。
「何の業者?」
「不動産屋よ、リーズ。空っぽの部屋を二年も持っておけないでしょう」
空っぽという言葉に、足が止まった。
あたりを見回した。テレビ台。暖房器の上に丸められたテーブルクロス。額縁が掛かっていた壁の、ひときわ白い跡。小さすぎる台所。父が工具を置いていた小部屋。椅子の上に畳まれた青い作業着。どうしても捨てられなかったねじの箱。部品が一つ余分にあれば、いつか壊れるものを救えると生涯信じてきた男たちが、決まって残すものだった。
その小部屋の奥には作業台があった。たいしたものではない。板が一枚、脚立が二つ、くたびれた万力。それでも扉は閉まる。誰も寝ず、誰も訪れない。何より、このアパートが数週間だけでも完全な売り物でなくなれば、当分は誰もここへ来る理由がない。
ジャンヌはまだ話していた。
「現実的に考えなくちゃ」
リーズは言った。
「水曜はだめ」
マリアンヌが振り向いた。
「何が?」
「水曜はだめ。少し時間をちょうだい。まだ工具もある。書類も。地下倉庫も」
「地下倉庫なら見たわ」とマリアンヌが言った。「干からびたペンキが三缶と、壊れたパラソルがあっただけ」
「工具もある」
ジャンヌはため息をついた。
「いったい何を残したいの?」
すぐには世界に覗かれない場所を残したい、とリーズは思った。
口に出したのは別の言葉だった。
「まだわからない」
マリアンヌはいつもより長く彼女を見つめた。それから片方の肩を上げた。
「わかった。鍵はあなたが持って。だけど、本当に片づけてよ」
ジャンヌは、もっと大きな疲労に降伏するように両手を上げた。
「一週間だけよ」
リーズは食器棚の上から鍵束を取った。玄関の鍵が二本、地下倉庫、郵便受け、それに「A3」と記された赤いプラスチックの小さなキーホルダー。父は物に自分の名前を書くことがほとんどなかった。記号で呼んだ。ありふれた姿をしているときのほうが、物を信用した。
帰る前、小部屋へ入った。
灰色の金属製工具箱を開けた。
中身はすべて、アンドレ・ヴァレンヌの論理を守っていた。ソケットは寸法順、マイナスドライバー同士、プラスドライバーは空のアイスクリーム容器、ドリルビットは布に包まれ、曲がった道具まで捨てずに残してある。底には、汚れた黄色の古いばね式吊り秤があった。五十キロまで量れる。
リーズはそれも手に取った。
工具箱を閉じると、マリアンヌが扉の枠にもたれていた。
「いったい何を隠してるの?」
リーズは顔を上げた。
「何も」
「嘘をついてるときか、馬鹿なことをしようとしてるときだけ、そんな顔になる」
「便利ね。診断の幅が狭くなる」
マリアンヌは笑わなかった。
「自分に気をつけて。それだけ」
リーズは何か正直なことを返したかった。何も見つからなかった。
鍵と吊り秤を持ち、自分の家族から場所を盗んでいるという、あまりに鮮明な感覚とともに帰った。
ささやかな証拠
臆病さと賢明さを半分ずつ使って、小さなものから始めた。
大きな質量は後回しだ。パレットも、ブロックも、実演も、未来に置いておけばいい。今は栄光などない、ささやかな証拠が欲しかった。もう自分に作り話を聞かせられない程度には確かで、消防、会社の上層部、隣人を呼び寄せない程度には目立たない何か。
月曜の夜、二つの灰色の容器をトゥインゴで運び出した。
夜勤との交替、外でのコーヒー、ロッカー室の話し声を待ってから、銅線でも盗むように保守階段を使い、一つずつ下ろした。一つ目を運んでいるところでハサンと出くわした。
「引っ越しか?」
「廃材を処分してる」
「いつからこそこそやるようになった?」
「汚れ仕事を私に押しつけるようになってからよ」
ハサンは鼻で笑った。リーズはそのまま通りすぎた。
空き家に着くと、二つの組立品を父の作業台へ並べた。
生きているものは左。死んだものは右。
言葉が浮かんだ瞬間から、その呼び方が嫌だった。
四晩かけて別の名に置き換えようとした。「A」と「B」。「1」と「2」。「正試験」と「無反応試験」。どれも定着しなかった。結局、物体のほうから本当の身分を押しつけてきた。一方は応える。もう一方は応えない。
モンキーレンチで試した。灰色の工具箱で。水のペットボトル一パックで。父が筋力トレーニングを再開すると誓っていた頃から残っている、十五キロの古いウェイトプレートで。ある夜、小部屋の補助暖房器でも試した。その発想にはすぐ罰が下った。装置全体が一気に軽くなって幅木へ流れ、壁の下部にひびを入れた。
リーズは罵りながら電源を切った。恐怖で喉が乾いていた。
黄色い吊り秤は、14番作業台の画面より多くを教えてくれた。
物体が応じると、指針はほぼ一気に落ちた。無にはならない。完全な無には、決して。それでも、中身の詰まった工具箱を片手で持ち上げられるほど低くなった。だが急に止めようとすれば、肩を持っていかれる。この矛盾はいつも変わらない。重さは減る。頑固さは少しも減らない。
火曜日、こう記した。
「運動より先に荷重が落ちる」
水曜日。
「物体は軽くならない。地面への忠誠を失う」
木曜日、新たな夢のあと、生きた組立品を寸分違わず複製した。同じ金属、同じ間隔、同じ空洞。その下に同一の荷重を二つ置いた。灰色の工具箱を二つ。一つは父のもの、もう一つはその晩ブリコ・デポで買ったばかりのもの。
古い箱は浮いた。
新しい箱は死んだままだった。
見分けのつかない二つの箱が、同じ世界には従わないと決めた。その前で、リーズは口を乾かしたまま部屋の中央に立ちつくした。
ノートを開き、初めてその言葉を書いた。
「夢で得た組立品――生」
「複製した組立品――死」
それから夢で得たを線で消した。
そしてもう一度書いた。
まだ反重力と書く勇気はなかった。
馬鹿げて見える言葉だった。映画の匂いが強すぎる。駅売りのSF小説めいている。目の前で起きていることには、もっとましな――あるいは、もっとひどい――名前が必要だった。もっと裸の何か。
毎晩アパートを出る前に、すべて元どおりにした。
擦り減ったリノリウム。まっすぐな椅子。段ボールで隠した壁のひび。小部屋の低い戸棚にしまった組立品。
いつしか、場所は二重になっていた。母と妹にとっては、死者のアパート。リーズにとっては、恥ずべき実験室。黄ばんだ吊り秤と、色褪せたカーテンと、もういない男の冷たい匂いのあいだに無理やり作った場所。
扉を閉めるとき、ときどき強く思った。
ごめんなさい。
誰に対してなのかは、わからなかった。
赤いファイル
金曜の朝、最初の外部の目は、これ以上なく物語性に欠けた姿でやってきた。
赤い厚紙のファイルだった。
14番作業台のキーボードの上に置かれていた。
上部に黒いフェルトペンでこうある。
「リーズ――9時までにコルネックのところへ」
ベランジェール・コルネックは、隙のないファイルと短い言葉、曖昧さへの個人的な憎悪をもって、施設の工程品質を統括していた。まだ四十歳にはなっていない。ガラス張りのオフィスでも汚れたホールでも同じように歩ける靴を履き、誰もがこれから隠そうとするものを、すでに読まれてしまったような不快感を与えた。
彼女の執務室からは工場の一部が見下ろせた。ガラス窓。死を宣告された鉢植えが二つ。安全旗。モニターが三台。白い電気ケトル。リーズが入っても、コルネックは座れとは言わなかった。
「先週の水曜と木曜、14番作業台。C3に未処理の荷重異常。ローカルカメラの切断。基準分銅の規定外衝突。ほとんど何も説明していない完了票」
ファイルを滑らせた。
曲線が載っていた。
映像も、目に見える奇跡もない。
だが数値には、センサーと一緒に死んでくれるほどの慎みがなかった。
「誤信号です」とリーズは言った。
「かもしれません」
「試験台の下に廃材の組立品がありました。読取りを乱したんだと思います」
「どんな組立品?」
「自作のダンパーです。外乱周波数を試すための」
コルネックが目を上げた。
「どこにあります?」
リーズは首筋が強張るのを感じた。
「衝突後、廃材箱へ入れました」
完全な嘘ではなかった。死んだ組立品の一部は、確かに廃材箱から来ていた。残りは別の場所で進行していた。
コルネックはキーボードを叩いた。
「問題は、この異常が三十七分間に六回出ていることです。翌朝の五時十七分にも、同じ系統で再発している」
リーズは動かなかった。
「十七時八分には工程カメラも外していますね」
「指を挟むところなんて撮られたくなかったので」
コルネックは笑わなかった。
「今後、14番で単独作業は認めません。事前にロックアウト手続きを行ってください」
リーズの心臓が強く跳ねた。
「少し大げさでは?」
「認証済みの作業台で、基準セルの荷重が不規則に失われるほうが、よほど大げさです」
別のページをめくった。
「それに火曜はHSE監査です。作業台を清掃し、廃材を撤去し、帳票を修正すること。私の立会いで対照試験も行います」
廃材という言葉がリーズをまともに打った。
二つの灰色の容器は、もう作業台の下にはない。幸いだった。だが14番には、足りない部品、ペンの跡、工作の痕跡がまだ十分に残っている。コルネックほどの女なら、真実そのものは無理でも、その影くらいは見つける。
「わかりました」とリーズは答えた。
コルネックは一秒長く彼女を見た。
「指は?」
「鋳鉄塊です」
「一人で?」
リーズはハサンを思った。ナデージュを。マリアンヌを。この嘘が、唯一可能な答えへ変わるまでの速さを。
「はい」
コルネックはファイルを閉じた。
「正午までに詳細をすべてメールしてください」
執務室を出ると、ハサンがコーヒーマシンのそばで待っていた。
「で?」
「何もない」
「何もないわけあるか。コルネックが上へ呼ぶのは、息の仕方が正しいって褒めるためじゃない」
リーズは紙コップを取ったが、口はつけなかった。
ハサンはこの二年、ときどきそんなふうに彼女を見た。一度近づきすぎたことを知り、廊下ですれ違うたび繰り返すわけにはいかないと承知している男の、少し茶化すような用心深さで。二晩はあった。恋ではなかった。長引いた職場の飲み会、ぬるいビール、ロータリー近くにある彼の部屋、玄関に放り出した安全靴。それから、二人は無用な優しさを交えずに互いを求めた。油汚れと疲労と馬鹿な台詞を、まだ身体じゅうに残したまま。リーズは、そこに大げさな物語がないことを好んだ。ハサンは意味を訊かなかった。彼女も訊かなかった。
それ以来、欲望は小さなほつれとなって二人のあいだを通った。部品の上へ傾けたうなじを見る目。紙コップに一秒長く残る手。ホールに焦げたコーヒーと濡れた金属の匂いしかないとき、腹と腹が触れた記憶が不意に蘇る。それは何も決めなかった。ただ、二人が機能ではないと思い出させた。
二晩目、リーズはハサンより先に目覚めた。彼は仰向けに眠り、片腕をシーツの外へ投げ出し、口をわずかに開けていた。穏やかで無防備な、ほとんど淫らな姿だった。そのとき彼女の眠りには、形も、証拠も、答えも生み出すことを求められていなかった。ほんの数秒、男のそばにいる一つの身体であり、まだ名を知らない何かの通り道ではないことに、激しいほどの安堵を感じた。
「水曜のこと、話した?」
ハサンは肩をすくめた。
「ログがあるんだ、リーズ。作業台がおかしくなったことくらい、俺が言わなくてもわかる」
それから声を落とした。
「気をつけろよ。品質部門ってのは、工場を手術室に変えるのが夢みたいな連中だからな」
私の見る夢を知ったら、施設を丸ごと閉鎖するだろう、とリーズは思った。
九時二十六分には、その案件はもう、14番ホールだけのものではなくなっていた。
死者の重さ
その晩、行きすぎだと思うべき決断をした。彼女には筋が通っているとしか思えなかった。
持ち出したのは、容器だけではない。
形に関係するものをすべてロッカーから出した。オレンジ色のノート。走り書きしたレシート。健康保険組合の封筒が三枚。八つ折りにしたA4用紙が二枚。角度と寸法で覆われた食堂のナプキン。それらをスポーツバッグへ押し込み、訓練を受けていない港湾版スパイになったような馬鹿げた気分で、トゥインゴまで運んだ。
夜、アンドレ・ヴァレンヌのアパートで、灰色の二つの容器を作業台へ戻した。
それから古い工具箱を取り出した。
部屋の中央、二つの脚立の上に置いた。
工具箱は重かった。鋳鉄塊ほどではない。人を殺すには軽すぎ、背骨の存在を思い出させるには十分だった。灰色の金属は、取っ手の近くに錆が浮いていた。蓋には、父が貼ったタグボートの色褪せたステッカーが残っていた。
リーズは生きた組立品を接続した。
吊り秤の指針が落ちた。
工具箱は脚立から二センチ離れ、そこで留まった。
目で確かめるには十分だった。
父の工具箱が、彼のレンチ、ソケット、ペンチ、鋼鉄でできた人生の断片を詰めたまま、小さなアパートの空中に留まっていた。世界が、その箱をどう扱うべきか忘れてしまったように。
あまりに早く喉が詰まり、リーズは腹を立てた。
靴下姿で廊下に死んでいたアンドレを思った。
傷んだ膝。
巨大な両手。
話す前に、ものの重さを量る癖。
彼がこの箱を百回、千回運んだことを思った。車の荷台から埠頭へ、地下倉庫から車へ、車から部屋へ。
今、その箱に嘘をつかせているのは彼女だった。
電源を切った。
衝撃音が部屋じゅうに響いた。
下の階から、誰かが一度だけ天井を叩いた。
リーズは動かずに待った。手はまだスイッチの上にある。
それきり何もなかった。
だから、もう一度始めた。
確かめるためではない。感情が読取りを乱したのか知るためだった。
同じ落下。同じ軽減。同じ不自然な浮遊。
次に複製した組立品を、同じ工具箱へ接続した。
何も起きない。
鼻から息を吸った。
ノートを開いた。
書いた。
「同じ荷重」
「同じ場所」
「同じ物体」
「応えるのは一つだけ」
父の折り畳み椅子に座った。
ばねが呻いた。
廊下では、扉の向こうで自動照明が消えた。アパートが突然、彼女を囲んで縮んだ。隣人のテレビ、水道の音、外を走るスクーター。それから何も聞こえなくなった。もはや何ひとつ平凡ではないものを囲んで密集する、小さな平凡な世界。
次の火曜日、午前九時に、ベランジェール・コルネックは対照試験を要求する。
夜も遅くなってなお、父の工具箱はリノリウムの二センチ上に浮かんでいた。
第3章
立会いの火曜日
工具箱が落ちる
その晩、父の工具箱はひとりでに落ちた。
大きな音を立てたのでも、明瞭な故障のように落ちたのでもない。最初は一呼吸ぶん沈んだ。どこかの誰かが、下から支えていた指を一本抜いたように。それから重さが一気に戻り、脚立が呻いた。
リーズはスイッチを見た。
表示灯も、生きた組立品も、まだ点灯している。何も切れてはいない。
まず電力不足を疑った。次に過熱。その次には、自分の神経が馬鹿げた揺らぎを見せたのかと思った。電源を切り、待ち、再起動した。
何も起きない。
コンセントを替えた。締付けを確認した。リングを調整し直した。同じ工具箱を載せ直した。
何も起きない。
生きたものが、死んだものと同じ振る舞いをしていた。
最悪なのは現象が止まったことではない。何の前触れもなかったことだ。何かに、存在する権利を取り上げられたかのようだった。
零時まで試しつづけた。
黄色い吊り秤は、鉄くずらしい誠実さを頑として曲げなかった。工具箱は本来の重さを示した。世界は乾いた暴力で、ものを元の場所へ戻していた。
零時を過ぎ、リーズは小部屋の畳んだ簡易ベッドに背を預け、床へ座り込んだ。
生きた組立品は目の前にあった。動かず、小さく、醜く、腹立たしい。
ほんの数秒、ほとんど幸福な考えが浮かんだ。すべてがここで終わるとしたら?
発見もない。連なる嘘もない。死者から盗んだアパートも、出し抜かなければならない職場も、救わなければならない自分の立場もない。
だが鋳鉄塊のことを思った。
曲線を。
鋳鉄の下にあった空気を。
少し前まで、空の中に留まっていた工具箱を。
自分は狂っていない。あるいは狂っているとしても、測定可能な狂い方だった。
最後にはリノリウムへ横になった。丸めたコートを首の下に敷き、デスクライトは消さなかった。
眠りは停電のように彼女を落とした。
彼女が抱えたもの
その夜、新しい形の夢は見なかった。
工具箱の夢を見た。
工具箱の記憶ではない。その箱そのものだった。
父の古い灰色の箱。錆の浮いた取っ手、タグボートのステッカー、左より少し固い右の蝶番。それが壁のない闇の中、目に見える何にも支えられずに吊られている。周囲には淡い線が浮かんでは消えた。箱の形を描くためではなく、受け入れるために。沈黙の壁が開き、閉じ、ふたたび開く。そのたびに箱は、同じものを求めているようだった。計算でも力でもない。一つの許可を。
リーズは口を乾かし、頬をリノリウムへ貼りつけて目覚めた。技術的には何の意味もない一語があった。
抱えられた。
まだ夜だった。
急に身体を起こすと、背中が抗議した。補助作業台代わりに裏返した箱の上で、生きた組立品が待っていた。
何も考えず、その上へ手を置いた。
冷たい金属。
生ぬるいセラミック。
ほかには何もない。
ためらったあと、父の工具箱を脚立へ戻した。
再起動。
吊り秤の指針が一気に落ちた。
工具箱は前日と同じように、はっきりと木から二センチ浮いた。
リーズは目を閉じた。
安堵は訪れなかった。もう、それより悪い何かが代わりを占めはじめていた。
電源を切ると、それまで禁じていたことをした。ほかには何ひとつ変えず、直後に同じ工具箱へ死んだ組立品を接続した。
何も起きない。
両手を腿に置いて待った。忍耐が睡眠の代わりになるかのように。
何も起きない。
朝、こう記した。
「生きた組立品は、生きてはいない」
続けて。
「夜のあとに、生きる」
それから二度線を引いたあと、
「どんな夜でもいいわけではない」
土曜と日曜は、一週間すべてを合わせた以上に彼女を消耗させた。
主導権を取り戻そうとした。睡眠を減らす。別の場所やテレビの前で眠る。一睡もしない。コーヒーを飲みすぎる。組立品のことを考えずに床へ就く。買い物、洗濯、トゥインゴの車検、母のこと、売却前に片づけるべきものの馬鹿げた一覧を、無理に考える。何をしても駄目だった。
役に立つ夜は、彼女の意志に従わなかった。
土曜は三時間眠り、水浸しの集合住宅の階段を夢に見た。翌日、二つの組立品はどちらも応えなかった。
日曜に目覚めたとき、頭にあったのは父の古い灰色の箱ではなかった。新しいほう、ブリコ・デポで買い、それまで死んだままだった箱だった。
ほんの小さな夢だった。広大な闇も、線もない。その箱だけが光源のない明かりの中に置かれ、四分の一回転していた。誰かが間違った側を見せているように。
リーズは組立品さえ替えなかった。
新しい箱を元の位置に戻した。
再起動。
荷重が崩れ落ちた。
箱が浮いた。
リーズは動かずに見つめた。恐怖はすぐには来なかった。
羞恥のほうが先だった。
発見した誇りではなく、自分が必要なのだという誇りが、内側にせり上がってくる。それを感じたことへの羞恥だった。
電源を切った。
書いた。
「物体だけではない」
「組立品だけではない」
「私が抱えていなければならない」
そしてバインダーのリングが一つ外れるほど激しく、ノートを閉じた。
火曜の朝、コルネックとHSE責任者の前で、対照試験をやり直さなければならない。
日曜の夕方、リーズはその試験を一つの実験に使うつもりだと悟った。
そこでやめるべきだった。
ひどい実験
月曜の夜、勤務交替のあと、スポーツバッグを持って14番作業台へ戻った。自分自身にとって危険な存在になったという感覚が、ひどく鮮明だった。
この時間になると、施設は疲労へ沈みはじめる。フォークリフトはまだ動いている。班が入れ替わる。防火扉の前では蛍光ベスト姿の作業員が煙草を吸っている。だが14番ホールは、すでに声の一部を失っていた。機械たちが低い声で考えているようだった。
持ち戻った組立品は一つだけ。新しい工具箱に使ったもの。日曜日が目覚めさせたものだ。
前の週と同じ構成で試験台の下へ滑り込ませ、ひと目ではわからない位置に隠した。後戻りできないほど嘘を重ねた正直者が、ときに身につける泥棒のような正確さだった。
考えは単純だった。だからこそ疑わしかった。
夜の中で彼女が抱えたものが、14番作業台でもふたたび応えるか知りたかった。鋳鉄塊、認証済みのセル、ホールの振動、校正された試験台、実際の産業設備。中立な場所が欲しかった。死者のアパートを離れても成立する証拠。この現象から秘密実験室という舞台を奪っても、なお残る証拠。
試験を深追いしないと自分に誓った。ただ数値を読む。一度だけ。
火曜の朝、九時少し前に、コルネックが一人の男を連れてきた。背が高く、痩せ、短く刈った頭は禿げ上がり、きれいに髭を剃っている。白いヘルメットを脇に抱えていた。
「グループHSEのリガルさん。作業台を再確認して、案件を終了します」
ハサンはすでに来ていた。腕を組み、誰の人生もよくしない会議のため、朝早く引っ張り出された者の顔をしていた。
「お祭りだな」とリーズに囁いた。
リーズは答えなかった。
リガルは帳票を求めた。
コルネックはロックアウト手続きを確認した。
14番作業台は、屈辱的なほどきれいだった。余計な部品も、ペンの跡もない。鋳鉄塊、試験台、整然と並んだ工具、そして腫れがほぼ引いた指を持つリーズだけ。
「標準手順を再実施してください」とコルネックが言った。「基準分銅、読取り、保持、停止。リガルさんは、セルの不具合と規律違反があっただけだと確認したいそうです」
だけという言葉が、紙やすりのように空気を擦った。
リーズは鋳鉄塊を置いた。
試験台の下に隠した小さな組立品の存在を、ほとんど感じていた。物理的にではない。別の仕方で。額の奥へ押し戻せなくなった思考のように。
計測系を接続した。
ゼロ。
予荷重。
安定。
背後からコルネックの声がした。
「もっとゆっくり」
リーズはやり直した。
ハサンが固定部を見るため、左側へ近づいた。
「見るくらいはいいんだろ?」と彼が言った。
「何にも触れなければ」とコルネックが答えた。
リーズはシーケンスを開始した。
画面上で、荷重曲線は正常な傾斜を描いた。
それから消えた。
一秒、あるいはそれ以下。数値が落ち、鋳鉄塊が一呼吸ぶん荷重から解放されるには十分だった。質量が突然、正しい重さを告げなくなったとき、誰もが無意識にするような手首の動きを、ハサンが見せるにも。
「待て」と彼は言った。
ブロックはすぐに荷重を取り戻した。
リガルが画面を見た。
コルネックも見た。
二秒間、誰も口を開かなかった。
それからリガルが言った。
「今のを見ましたか?」
コルネックはすぐには答えなかった。
静止した曲線を見つめていた。顎を固くし、指はすでにマウスへ載っている。
ハサンは片手で首筋を撫でた。
「妙な動きをした」と言った。
リーズはコンソールに指を置いたままにした。作業着で汗を拭わないためだった。
「接触不良です」
自分の声には聞こえなかった。
コルネックが顔を上げた。
もはや品質管理の女の顔ではなかった。説明を一つ、目の前で奪われた女の顔だった。
「違います」
試験台へ近づいた。
しゃがみ込んだ。
下を見た。
リーズは血という血が足元へ落ちるのを感じた。
組立品はそこにあった。小さく、醜悪で、否定しようもなく。
コルネックは触れずに手を伸ばした。
「これは何?」
ハサンがリーズを振り向いた。
リガルは何も言わなかった。
ほんの一瞬、広大なホール全体が、彼女の答えの上に載っているように見えた。
施設を離れたもの
リーズはすぐには答えなかった。
彼女が読まない探偵小説には、ほかよりも長い一秒があるのかもしれない。人間が自分の陣営、自分の嘘、自分の破滅を選ぶ一秒。この一秒は、生ぬるい半端な真実ではもう何も救えないと悟るのに、ちょうど足りるだけ続いた。
「私が作った組立品です」
コルネックは物体から目を離さなかった。
「何のために?」
世界を二つに割るため。重さをほどくため。私の人生も、あなたの人生も、港も、この国も、おそらくはそれ以上のものも、すべて傾けるため。
口に出したのは別の言葉だった。
「別のものを試すためです」
コルネックは立ち上がった。
「どの帳票にも記載がないもの。基準セルの信号を途切れさせ、異常な荷重低下を生じさせるもの。それをグループ監査の前日、認証済みの作業台の下へ隠した」
リガルはすでに携帯電話を取り出していた。
「写真はやめてください」とコルネックが遮った。
リガルは彼女を見た。
「工程異常ですよ」
「画面くらい読めます、リガルさん」
声は低いままだった。だから誰もが黙った。
コルネックはハサンを振り返った。
「重りに触れましたか?」
「いいえ」
「何を感じました?」
ハサンはためらった。彼女と知り合って初めて、反射的にリーズの側へつきたくないと思っている。そのことがリーズにはわかった。
「あれが……」とハサンは言いかけた。
自分の語彙に腹を立てたように首を振った。
「重さが変わった気がしました」
リガルが何かを書き留めた。
コルネックはリーズを見た。
「それを落ち着いて試験台へ戻してください。私が指示するまで、もう何にも触れないこと」
一秒置いてから続けた。
「そのあと、重要設備で未申告の機材を使い、いつから一人でこんなことをしていたのか、説明してもらいます」
「物が嘘をつきはじめてから」とリーズは心の中で答えた。
だが、その嘘そのものが、いまや性質を変えようとしていた。
これまでは、彼女を守っていた。
これからは、彼女が嘘を守らなければならない。
数分後、リーズ・ヴァレンヌの名は14番ホールを離れた。
ほぼ同時にベランジェール・コルネックは、案件資料と曲線、それに六行のメッセージをグループ技術部へ転送し、施設保安部にも同報した。
第4章
封印
第6会議室
まだ入館証を返せとは言われていない。ただ、テーブルの上に置け、と言われただけだ。
その微妙な違いだけで、体が冷えた。
第6会議室は、ふだんなら火曜日の安全ミーティングや、下請け業者への申し送り、消火器訓練に使われる。木目調の楕円テーブル。黒い椅子が六脚。いつまでたっても調整の合わない壁掛けモニター。駐車場の一角しか見えない細長い窓。ぬるいコーヒーの匂いが、古い罰のように染みついていた。
コルネックは乱暴に扱うことなく、リーズをそこへ座らせた。
「ここで待っていてください」
「小便したくなったら?」
「私に言ってください」
ドアは必要以上に二秒長く開いていた。廊下を行き交う人影を見るには充分だった。足を止め、また歩きだすハサン。手袋の箱を抱えた運搬作業員。もう電話口で声を張り上げているリガル。そのさらに向こうには、見知らぬ男がいた。ネクタイなしの暗いスーツ、短い髪、軍人の姿勢だけを残して民間へ転じたような首の据わり方。
ハサンを見たとき、リーズは馬鹿げているが切実なことを恐れた。二人が寝たと知られることではない。羞恥と純潔を取り違えるような年齢は、とうに過ぎている。恐れたのは、ある人間の身体が、別の人間をつかむ取っ手になる、その正確な仕組みを知られることだった。昔の欲望は、ささやかなものでも、約束ひとつなかったものでも、ときに握り手の輪郭を描く。人を脅すのに、その人の愛するものばかりを使うとは限らない。かつて触れたもの、自分のせいで壊されるのだけは見たくないものもまた、人を縛る。
ほどなくして、その男が入ってきた。
声を荒らげずに人を従わせることを好む者の礼儀正しさで、背後のドアを閉めた。
「フランク・ドロネー。事業所保安担当です」
手は差し出さなかった。
テーブルの向かいではなく、角に座った。それがいっそう不快だった。
「簡単な質問をします、ヴァレンヌさん」
リーズは目の前に置かれた入館証を見た。木目もどきの上に青いカード。
「やってみれば」
ドロネーはペンを取った。キーボードもモニターもない。粗末な文房具店の方眼ノートが一冊だけ。その簡素さが、コンピューターよりもリーズを不安にさせた。
「14番作業台の下で見つかった装置は、いつ作りましたか?」
「先週」
「材料は?」
「廃材」
「目的は?」
リーズは目を上げた。
「別のものを試すため」
「曖昧ですね」
「正直ではある」
ドロネーは反応しなかった。
「誰かに話しましたか?」
「いいえ」
「誰かに見せましたか?」
「いいえ」
「事業所の外へ持ち出しましたか?」
脇の下に汗が戻ってきた。
父のアパートにある二つの灰色の箱。
オレンジ色のノート。
レシート。
昨日、宙に浮いたブリコ・デポの新しい箱。
リーズは答えた。
「いいえ」
ドロネーは何かを書き留めた。
「これ以後、もし事実が異なると判明した場合、単なる手順違反では済まなくなることは承知していますね」
リーズは視線をそらさなかった。
「具体的に、どういう意味?」
「何が見つかったのか。それ次第だということです」
彼の言う「こちら」は、もうコルネックだけでも、14番ホールだけでも、事業所だけでもなかった。
ノックの音がして、コルネックが顔を覗かせた。
「本社技術部が十一時二十分に着きます。その前に一度、試験を」
ドロネーは立ち上がった。
「携帯電話を」
リーズは一瞬、ほんの一瞬だけ長くためらった。
「テーブルに置いてください」
従った。
三人が出ていったあと、第6会議室には、青い入館証と、画面を木目に伏せた携帯電話と、会議の終わりに残るコーヒーの匂いだけが残った。その匂いは、この世界に官僚的な忍耐を与えていた。
正式な試験
試験は14番作業台では行われなかった。
コルネックが拒んだのだ。
「いま見ているものが何なのか分かるまで、あの作業台には誰も触れさせません」
装置は一階の計測室へ運ばれた。ホールから離れ、いかにも病院らしい防火扉の向こうにある。埃ひとつない灰色の床。金属製の作業台。小型の荷重試験機。何ひとつ見逃さない白い照明。
作業台の中央に置かれた装置は、14番ホールで見たときより、さらに馬鹿げて見えた。小さく、不格好で、取るに足りないものにすら見えた。
リガルは、適切な規模に収まることを拒む職務上の過失でも眺めるように、その周りを歩き回った。
「これが計測値を飛ばしたんですか?」
リーズは答えなかった。
コルネックの動きは、すでに変わっていた。前より冷たく、遅い。質問も品質責任者のものではなくなっている。もう別の何かを狙っていた。
「昨日とまったく同じように組み直してください。同じ重量。同じ順序。同じ手順で」
「あなたの監督下で?」
「私の監督下で」
ドロネーはドアのそばに陣取っていた。手伝うためではない。空間を閉ざすためだ。
リーズは小さな基準分銅を元の位置に戻した。二十キロ。人を驚かせるには軽すぎる。計器だけが驚く重さだ。
一度目は何も起きなかった。
曲線は正常な荷重を示した。
そのまま動かない。
20.2。
20.1。
20.2。
現実は非の打ちどころなく行儀よく振る舞った。
リガルが鼻から息を吐いた。
「なるほど」
コルネックは何も言わなかった。
リーズは、獣じみた屈辱が皮膚の下を走るのを感じた。嘘つきだと思われるからではない。ほんの一分前、第6会議室で、自分もほとんど同じ結果を望んでいたからだ。
答えが必要になった途端に見放す奇跡ほど、腐った臭いのするものはない。
「もう一度」とコルネックが言った。
やり直した。
同じ結果。
三度目。
やはり何もない。
リガルは腕を組んだ。
「つまり、無許可の装置、途切れた監視映像、ロードセルのドリフト、それに認証済みの作業台で一人きりで実験するオペレーター。今のところ、私に見えているのはそれだけです」
リーズは小さな受け台を見つめた。
もう庇う気にはなれなかった。
殴りつけたかった。
コルネックが近づいた。
「前回までの試験と今日とで、何を変えました?」
「何も」
「よく考えて」
「役に立つことは何も」
「どういう意味です?」
「これを組んで、反応した。でも今は、もう反応しないってこと」
リガルが笑いともつかない乾いた息を漏らした。
「それは技術的な回答ではありませんね」
ドアが開いた。
入ってきた女は、少なくとも世間一般の意味では、救世主にも上司にも見えなかった。
灰色のコート、濃い色のパンツ、細い眼鏡。見せ方など気にせず束ねた髪。速い足取り。四十五歳くらいだろうか。部屋に入ってきたときには印象に残らないのに、誰かがでたらめを口にしはじめると、いつのまにか皆が目で探すようになる、そんな女だった。
コルネックが背筋を伸ばした。
「クレール・タルデュー。本社技術部です」
タルデューは誰にも挨拶をしなかった。
作業台を見た。
装置。
分銅。
それからモニター。
「どこまで?」
リガルが先回りした。
「今のところ、再現できていません」
タルデューは片手を上げた。
「結論を訊いたのではありません。どこまで進んだかと訊いたんです」
続く沈黙には、正しく置かれた工具のような切れ味があった。
コルネックが答えた。
「今朝、認証済み作業台で異常を確認。少なくとも一部を目撃者が視認。テーブル下から未申告の装置を発見。ここでは安定した再現に至っていません」
タルデューは初めてリーズを見た。
「これを組んだのはあなた?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「何のために?」
肩の少し後ろ、わずかに右側にいるドロネーを、リーズは礼儀正しい脅しのように感じた。
「寄生周波数を調べるためです」
タルデューは瞬きもしなかった。
「その答えなら、もう誰かに話したでしょう。今さら大して役には立ちません」
リガルは目を伏せた。
コルネックは伏せなかった。
リーズは動かなかった。
タルデューは装置に近づいた。
触れずに。
「もう一度」
声には上司の命令らしさがなかった。それより悪かった。精度を求める声だった。
リーズは分銅を戻した。
シーケンスを開始した。
何もない。
曲線は変わらない。
20.1。
20.2。
20.1。
タルデューは最後までモニターを見届けてから、訊いた。
「戻ってこないのは、何?」
問いは不意に部屋を貫いた。
何が起きたのかとも、どこに誤りがあるのかとも、誰が間違えたのかとも訊かなかった。狙っていたのは別のものだった。実際に起きていることに、もっと近い何か。
身を守る暇もなく、リーズは答えていた。
「分からない」
そして一秒後。
「何かが、持たない」
タルデューは、その考えが少しも馬鹿げていないかのようにうなずいた。
「結構。話ではなく、装置から始めましょう」
リガルが口を挟んだ。
「失礼ですが、現時点で何より問題なのは規律違反で――」
「規律上の問題はあるかもしれません」とタルデューが遮った。「そして、別の問題もあるかもしれない。二つは互いを帳消しにはしません」
正しい問い
正午を少し回ったころ、彼らはこの件を、もっと狭く、もっと不格好で、しかしはるかに危険な部屋へ移していた。人がA4用紙と箇条書きでものを考えはじめる部屋だ。
タルデューはテーブルの奥に座った。
左にコルネック。
ドアのそばにドロネー。
離れたところにリガル。自分がまだ存在することを証明するために、すでに自分のメモを読み返している。
リーズの前には、水の入ったグラスと青い入館証が置かれていた。顎の中に座らされているような気がした。
タルデューは前置きなしに始めた。
「技術的な質問をします。分からなければ、分からないと言ってください。でたらめを話せば、私には分かります」
リーズは水を一口飲んだ。
「分かりました」
「こういう形を描くようになったのは、いつから?」
グラスに添えたリーズの手が止まった。
コルネックが目を上げた。
ドロネーも。
タルデューは「この装置をいつから勝手にいじっていたのか」とは訊かなかった。
その少し先を正確に射抜いていた。
「分からない」
「悪い答えです」
「二年くらい前かも」
「何に?」
「紙」
「その図はどこに?」
リーズは早口で答えすぎた。
「ほとんど捨てました」
タルデューは一秒待った。
「ほとんど、は、全部ではありません」
この女は自白させようとしているのではなかった。ただ、曖昧な答えを一つずつ崩していく。
「残ってます」とリーズは言った。
「どこに?」
父のアパートが浮かんだ。
小さな部屋。
オレンジ色のノート。
四つ折りのレシート。
それから、外へ持ち出したかと訊いたドロネー、ここに置かれた入館証、没収された携帯電話を思った。
半分だけ真実を選んだ。
「家に」
タルデューは書き留めた。
「分かりました。明朝、持ってきてください。全部」
リーズは答えなかった。
コルネックが言った。
「未申告の装置に使った部品の完全な一覧も必要です」
装置「たち」とリーズは思った。
複数形が痛かった。
タルデューは続けた。
「初めて反応したとき、一人でしたか?」
「はい」
「今朝、目撃者の前で反応したときも?」
「はい」
「その二度の間に、別の場所で現象を再現しましたか?」
水のグラスが、無意味に重くなった。
リーズは二つのことを同時に悟った。タルデューは、自分が幻を見たとは考えていない。ここで真実を話せば、父のアパートはその瞬間、避難所ではなくなる。
「いいえ」
コルネックがわずかに顔を向けた。
ほかの者には気づかれないほど小さく。
だが、その嘘を記憶したと分かるには充分だった。
タルデューは何も表情に出さなかった。
「結構」
その「結構」に、優しさは微塵もなかった。
「今後、作業台へ一人で近づくことは禁止します。手順外でこの装置に触れることも禁止。本日は事業所内で待機してください。明日は七時三十分、C棟、第4技術室」
リガルが訊いた。
「拡大インシデント票を起票しますか?」
「ええ」
「レベルは?」
タルデューは、透明な帯電防止袋に封じられた装置を見た。
「『まだ分からない』レベル」
リガルは、その先の言葉を待った。
何も続かなかった。
少しして、ドロネーは携帯電話を返した。入館証は返さなかった。
「今夜までは、付き添いなしで移動できません」
「勾留されてるわけじゃない」
「ええ」
冷静でいることを訓練されすぎた者の、かすかな笑みを浮かべた。
「だからまだ、こうして普通に話していられるんです」
持ってこなかったもの
夕方遅く、リーズはオレンジ色の来客証と空の鞄を手に事業所を出た。自分がもう、別の主権のもとで暮らしはじめているような気がした。
風向きが変わっていた。
駐車場の空気には、軽油と、近づく雨と、熱せられたあと急に冷えた鉄板の匂いがした。遠くからハサンが片手を上げた。リーズはかすかに応じただけだった。彼を守るべきか、警戒すべきか、謝るべきか、もう分からない。
トゥインゴに乗り込んでも、すぐにはエンジンをかけなかった。
返された携帯電話には、もうマリアンヌからのメッセージが二通、ジャンヌからの不在着信、銀行からの催促、01で始まる知らない番号からの着信が並んでいた。
日常の世界は、見事な残酷さで存在を主張していた。
父のアパートに入ると、小さな秘密の実験室が、いきなりちっぽけで巨大なものに見えた。
オレンジ色のノート、書き込みだらけのレシート、二つの装置、古い灰色の箱と新しい箱、その段ボールの背後に走る壁の亀裂。彼女が話さなかったすべて。
コートも脱がず、折り畳み椅子に座った。
明朝七時三十分、C棟、第4技術室。
図面、メモ、部品一覧、それに、まだ誰も口にしてはいないが、吸収されるのに充分なほど潔白に整えた自分自身を持っていかなければならない。
リーズはオレンジ色のノートを開いた。
一ページ目。胸郭のように開いた受け台。
二ページ目。中心をずらした三つの環。
三ページ目。まだ何の結果も出していない、長く節のある形。
四ページ目。見覚えのない幾何形状。
急いでめくった。
五ページ目。
六ページ目。
七ページ目。
十八か月前の日付があるページもあった。
日付のないページも。
明らかに夢に見て、そのまま忘れたものもあった。
手で修正を重ね、描き直し、吟味したものもあった。
もはや、不眠症の素人工員がつけたノートではなかった。
汚染の正確な履歴だった。
全部燃やしたくなった。文字どおりに。ボウルを探し、燃料用アルコールと、台所の引き出しのライターを持ってきて、この言語がようやく誰にも見られず黒く焦げていくのを眺めたかった。
そうはしなかった。
ブリキのビスケット缶に入っていた紙片を、三つの山に分けた。
山1。見せられる。
山2。危険。
山3。不可能。
「見せられる」には、技術的な妄執で通せる程度に曖昧な図を入れた。
「危険」には、実際に反応した装置に似すぎているものを。
「不可能」には、もはや単なる物体ではなく、形そのものが物質以外の何かを要求しているように見えるページを入れた。目にするだけで、あの汚れた正しさの感覚が戻ってくる。あまりによく知る感覚だった。
山3は、八枚しかなかった。
その八枚がいちばん恐ろしかった。
「見せられる」はクラフト紙のフォルダーに収めた。
「危険」は、ラジエーター近くの剥がれたリノリウムの下へ。
「不可能」は、何か月も台所の戸棚の上段に残されていた母の裁縫箱へ入れた。
それから二つの装置を見た。
生きているもの。
死んでいるもの。
言葉は嫌でも戻ってきた。
片方ずつ手に取った。
重さはほとんど同じ。
同じ粗さ。
同じ沈黙。
それでも、害を及ぼす力はまるで違っていた。
携帯電話がまた震えた。
マリアンヌ。
リーズは電話に出た。
「何?」
「まず、こんばんはって言えば?」
「こんばんは」
沈黙。
それからマリアンヌが声を落とした。
「日曜のあんた、変だったってママが言ってる。いつも以上に」
「ご親切にどうも」
「リーズ」
口調が変わった。
「何があったの?」
リーズは周囲を見回した。小さなアパート。作業台の上の装置。切り取られたノート。いまは見えなくなった三つの山。アンドレ・ヴァレンヌの人生は、隠し場所に、工房に、証拠に変わっていた。
本当のことを言えば、信じてもらえないか、続きを止められる。
そう思った。
「仕事で問題が起きた」
「クビになりそうってこと?」
「まだ、そこまでは」
マリアンヌは黙った。
「そっち行こうか?」
リーズは目を閉じた。
うん、と言いたかった。
ただ、うんと。来て。ここに座って。一緒に見て。これに私が呑まれかけてるんじゃないって言って。
代わりに答えた。
「来なくていい」
そして姉が食い下がる前に続けた。
「明日、ママがまたアパートのことを言いだしたら、相手して引き止めておいて」
「どうして?」
「まだ終わってないから」
マリアンヌは、ひどくゆっくり息を吐いた。
「具体的に、何を隠す手伝いをしろって言ってるの?」
リーズは二つの装置を見た。
生きているもの。
死んでいるもの。
嘘は、いまや職を変えていた。
発見を守るだけのものではなくなった。
リーズの周囲に、ひとつの領土を作りはじめていた。
「何も」とリーズは言った。「まだ」
その夜、役に立つ夢を見ようとはしなかった。
ただ、持っていかないものを隠した。
第5章
クレール・タルデュー
クラフト紙のフォルダー
翌朝、リーズはクラフト紙のフォルダーを小脇に抱えてC棟に入った。これから自分は別の秤で量られるのだという、はっきりとした感覚があった。
C棟は、ホールとは別の世界に属していた。完全なオフィスでも、まだ工場でもない。清潔で、静かで、空調の効いた中間地帯。靴音は小さくなり、言葉の値段は高くなる。そこですれ違うのは、重量物を運びはしないが、どの重さに価値があるかを決める人々だった。
第4技術室は、窓のない廊下の突き当たり、入退室管理のドアの向こうにあった。オレンジ色の来客証は、最初そこを通してくれなかった。警備員が、リーズをろくに見もせず通した。プレートには「ST4」とだけある。
クレール・タルデューは、すでに待っていた。
ノートを開いたコルネックもいた。
それに、リーズが初めて見る男が一人。五十を過ぎ、短い顎髭を生やし、堅苦しさのない青いスーツを着ていた。二十年来ろくに眠っていないような顔だが、それを自分の個性として売り物にする気はなさそうだった。
タルデューが紹介した。
「オリヴィエ・マッソン。産業法務担当です」
マッソンは軽く頭を下げた。
「おはようございます、ヴァレンヌさん」
笑顔はなかったが、少なくとも声には人を辱めないという美点があった。
テーブルには、黒い録音機、三つの水のグラス、白紙のメモ帳、昨日押収された装置の入った帯電防止袋、そして少し離して、空の袋がもう一枚用意されていた。
その空袋だけで分かった。一つの物だけで終わらせる気はない。
タルデューがクラフト紙のフォルダーを示した。
「あなたの図面?」
「一部です」
マッソンが目を上げた。
「何の一部ですか?」
この男を相手にすれば、曖昧な言い回しは法的なブーメランになって戻ってくる。リーズにはすぐ分かった。
「残してあるものの一部です」
コルネックが言った。
「『家にある』とは言いましたね。『一部が家にある』とは言わなかった」
「ほかの場所にも下書きを残してあります」
まだ嘘ではない。だが口に金属の味を残す程度には、嘘に近づいていた。
コルネックなら反応するところで、タルデューは反応しなかった。
フォルダーを手に取り、紙を一枚ずつ取り出した。上役としてではなく、素材を読む女として。
一枚目。開いた受け台。
二枚目。中心をずらした環。
三枚目。急いで注釈をつけた角度差の連なり。
四枚目。未試験の変形案。
タルデューは三分間、何も言わなかった。
マッソンはリーズを見ていた。
コルネックはタルデューを。
リーズは、自分のフォルダーから紙が一枚ずつ離れていくのを見つめていた。胸骨に触れもせず、胸を開かれているような不快感があった。
やがてタルデューが、一枚を脇へよけた。
「これは試した?」
リーズは見た。
古い灰色の箱の変形案。
最も危険でも、最も無難でもない。
「いいえ」
「なぜ?」
「時間がなかった」
タルデューの片眉が、ごくわずかに上がった。
続く沈黙に耐えられなくなった。
リーズは奥歯を噛みしめた。
「怖かったから」
誰もすぐには書き留めなかった。
マッソンでさえ。
タルデューはただ訊いた。
「何が?」
うまく働きすぎること。別の何かを踏みつけて働くこと。もう無視する権利のない何かを、私に認めさせること。
リーズは思った。
「反応するのが怖かった」
タルデューは紙を戻した。
「そのほうが、まだましな答えね」
繰り返す線
彼らは違反から始めなかった。
形から始めた。
タルデューは八枚の紙をテーブルに広げ、まず何の説明もなく、いくつかのまとまりに分けた。日付のあるもの。ないもの。寸法で埋め尽くされたもの。描いたあとで別の呼吸をさせるために、リーズが清書したかのように、ほとんど汚れのないもの。
「見て」とタルデューは言った。
リーズは見た。
「何が見える?」
「私の図」
タルデューは片手を上げ、その答えを遮った。
「もっとよく見て」
マッソンは、笑いに近い何かを隠すように目を伏せた。
コルネックは紙から目を離さなかった。
タルデューは二枚を動かし、三枚目を近づけ、四枚目を四分の一回転させた。
突然、線と線が語り合いはじめた。
美しくなったのではない。執拗になった。
中心をずらした三つの環が、何度も現れる。中央の空白も。制御された非対称。いつも同じ側にあるごく小さな開口。二つの素材を接触させまいとする意志。わずかすぎて、漫然と見れば不器用さとしか思えない間隔。
リーズはうなじが冷えるのを感じた。
「繰り返してる」
「ええ」とタルデューは言った。「不眠の夜の落書きで片づけるには、あまりに何度も出てくる」
コルネックは腕を組んだ。
「これを二年前から描いていると言いましたね。計画もなく? 体系的な試験記録もなく? 依頼もなく?」
「はい」
「なぜ?」
リーズは口を開いた。言葉は出なかった。
描かなければならなかったから。向こうからやってきたから。目覚めたときにはもうそこにあり、疲れた身体は、理解するより先に従うことがあるから。
そのどの答えも、第4技術室にはうまく収まらなかった。
タルデューは長いあいだリーズを見つめた。優しさではなく、精密さをもって。
「その形は、試験の前に浮かぶの? それとも後?」
コルネックが顔を上げる気配がした。
ようやく、問いが正しい場所に届いた。
「前です」
「いつも?」
「いつもじゃない。でも反応するときは、その前にあれを通ってることが多い」
マッソンが、数分ぶりに口を開いた。
「『あれ』とは?」
リーズはテーブルを見た。
八枚の紙。
タルデューの手。
帯電防止袋。
二枚目の空袋。
ある種の言葉は、ひとたび空気の中へ放たれただけで、案件そのものの性質を変えてしまう。リーズは、その瞬間に理解した。
「夜です」
誰も動かなかった。
空調の音さえ小さくなったようだった。
停止を最初に破ったのはコルネックだった。
「いったい何を言おうとしているんです?」
リーズは言い直そうとした。
角を丸める。
翻訳する。
合理化する。
タルデューが短い仕草でそれを止めた。
「だめ。浮かんだ言葉をそのまま使って」
リーズは、隠れた仕組みにいま名前をつけた人を見るように、タルデューを見た。
「ときどき、形を夢に見ます。具体的な物のこともある。それを描いて、組み立てる。すると、ときどき応える」
マッソンが、ごく静かに訊いた。
「睡眠障害で治療を受けた経験は?」
残酷さは、言葉にあるのではなかった。口調にあった。専門的で、偏見がなく、ほとんど親身ですらある。それだけに、なお悪かった。
「ありません」
「幻覚は?」
「ありません」
「薬物や酒類の摂取は?」
「コーヒーなら。飲みすぎるくらい」
コルネックは気に入らなかった。
タルデューは気に入った。
面白がったからではない。それによって、誰もが必要としていたものが、ひとつ部屋に戻ったからだ。生きた答えだった。
タルデューは続けた。
「『応える』というのは、何が?」
リーズはゆっくり息を吸った。
「荷重が落ちる。軽くなる。慣性は失わないまま、見かけの重量だけが減る」
コルネックがノートを閉じた。
その仕草は、どんな説明より雄弁だった。
もう手順違反の話ではない。
とうにそうではなくなっていた。
重いテーブル
午前も半ばになるころ、タルデューはもっと重いものを持ってこさせた。
巨大でも、派手でもない。ただ玩具の域を出るには充分なもの。
八十キロの鋼塊が、短い台車に載せられ、保守技術者二人の手で運ばれてきた。二人とも、自分たちが正確には何を運んでいるのか分からず、それが気に入らない様子だった。
空の袋に入れるはずだった二つ目の装置を出せと言われた。
リーズは喉が閉まるのを感じた。
「持ってません」
タルデューが目を上げた。
マッソンは、先ほどより厳しい声を出した。
「存在するか、存在しないか。そのどちらかです」
「存在します」
「どこに?」
リーズは彼らではなく、テーブルを見た。
「家に」
その言葉は、小さすぎる響きを立てた。
コルネックが、剥き出しの怒りを吐息に漏らした。
「いったいいつから、私たちに嘘をついているんです?」
リーズは答えなかった。
マッソンが何かを書いた。
タルデューはただ訊いた。
「二つ目は、一つ目と違う?」
「はい」
「作動する?」
「しません」
「確か?」
新しい箱。日曜日。短い浮遊。羞恥。ノート。
「いつもではない」
コルネックがタルデューに向き直った。
「もう、彼女が私たちを馬鹿にしているか、それとも――」
最後まで言わなかった。
その次に来る言葉は、まだ誰も持っていなかった。
タルデューは八十キロの鋼塊を近くへ運ばせた。
「分かりました。あるものでやりましょう」
その間に、オレンジ色のHSEフォルダーを抱えて戻ってきたリガルが異議を唱えた。
「重量を増やす手順が承認されていない以上、これには触れられません」
タルデューは彼を見た。
「その手順を、これから定めます」
それからリーズに向き直った。
「何が要る?」
不意を突かれた。
「何をするのに?」
「反応する見込みを、まともに得るために」
リーズは押収された装置を見た。
鋼塊。
小型の試験台。
白すぎる蛍光灯。
水のグラス。
コルネックの手。
ドア際に立つドロネーの、汚れた静けさ。
そして、できれば一人で気づきたかったことを悟った。
場所が重要なのだ。物体と夜だけではなかった。
「ここじゃ駄目」
リガルが苛立たしげに息を吐いた。
「素晴らしい」
タルデューは反応しなかった。
「なぜ、ここでは駄目なの?」
「きれいすぎるから」
続く沈黙は、ほとんど滑稽だった。
コルネックが言った。
「何ですって?」
羞恥が込み上げたが、一度出た言葉は戻ることを拒んだ。
「14番作業台では、振動の仕方が違った。ホールがあった。周りの重量物。構造体。騒音。ここは全部が……閉じてる」
リガルが短く笑った。
「今度は保全の詩でも聞かせるつもりですか?」
クレール・タルデューは両手をテーブルに置いた。
「いいえ。彼女は試験環境の話をしている」
そしてリーズへ。
「物理的な文脈が作用すると思うのね」
「重要だと思う」
「仕組みは分からないまま」
「はい」
タルデューはうなずいた。
「結構」
その「結構」は、議論を終える声ではなく、内側の扉を開く声だった。
「上へ戻りましょう」
禁じられた言葉
少しして、必要以上の人数を引き連れた一行は、14番ホールへ戻った。
群衆というほどではない。ただ、空気を変えるには充分な人数だった。
技術者が二人。
リガル。
コルネック。
ドロネー。
タルデュー。
そして奥には、どうやら姿を消しきれなかったハサン。
14番作業台は、再び作業台らしい面構えを取り戻していた。以前より無垢ではなく、厳しく監視されている。
テーブルはいまだに光りすぎていた。
八十キロの鋼塊が、台車の上で待っていた。
タルデューが訊いた。
「どこに置く?」
リーズはテーブルの下を示した。
「そこ」
「それから?」
「それから、見る」
リガルが天を仰いだ。
「何を見るんです?」
きれいな手順書を作ってやれるほど分かっているなら、もう私たちはこの部屋にはいない。
そう返してやりたかった。
代わりに言った。
「かかるかどうか」
意図せず、その言葉が出た。
かかる。 作動するでも、起動するでも、応えるでもない。
コルネックがすぐに拾った。
「かかる?」
リーズは鋼塊を見た。
それから装置。
そして自分の手。
「ええ」
いつの間にか音もなくホールの奥に来ていたマッソンが、その言葉を書き留めた。
タルデューも。紙にではなく、頭の中に。
見れば分かった。
リーズは装置を接続した。
ホールは彼らを包み、かすかに震えていた。遠くの天井クレーン、動かされる鉄材、外壁を打つ風、車両の後退警告音、仕切りの向こうでくぐもる誰かの声。
建物を通じて、港全体が、自分は清潔ではないと訴えていた。
リーズは一秒だけ目を閉じた。
夢を見るためではない。新しい箱が浮いた、あの内なる場所を取り戻すために。
八十キロの鋼塊は動かなかった。
だがモニターの数値は、ずれはじめた。
79.8。
74。
61。
リガルが一歩動いた。
「誰も触らないで」とコルネックが言った。
46。
32。
荷重の変化に、台車が呻いた。
鋼塊は跳ね上がらなかった。
ただ、吐息ひとつぶんだけ浮いた。その下を光が通り抜け、ホールにいた誰も、もう見間違いのふりをできなくなるには充分だった。
ハサンが小声で悪態をついた。
リガルは凍りついた。
ドロネーは一ミリも動かなかった。それは、自分がいま別の任務に入ったと知らせる、これ以上なく明瞭なやり方だった。
クレール・タルデューは、鋼塊を見なかった。
リーズを見ていた。
そしてリーズは、この話の中にようやく、感嘆するより先に理解できるほど危険な人間が現れたのだと悟った。
鋼塊の重さが一気に戻った。
台車が車輪の上で激しく鳴った。
音がホールを貫いた。
それきりだった。
三秒間、誰も口を開かなかった。
やがてリガルが、ごく低く言った。
「なんてことだ」
タルデューは彼を見もしなかった。
リーズを見つめたまま訊いた。
「これが存在すると知ってから、どれくらい?」
真実の答えが喉まで上がり、いくつもの破片に砕けた。
水曜日から。二年前から。最初の夢から。物が、別のやり方で持ちこたえる許可をリーズに求めはじめた瞬間から。
残された答えの中で、最も嘘の少ないものを選んだ。
「まだ、知ってから充分には経ってない」
タルデューは一秒置いた。
それから言った。
「ここで中止します」
コルネックが振り向いた。
「中止?」
「これがもう、HSE監査や通常の品質処理で扱う案件ではない、という意味での中止です」
リガルが抗議した。
「失礼ですが、重大な産業保安上の問題であることに変わりは――」
「ええ」とタルデューは言った。「そして、別の何かでもある」
それからドロネーに。
「作業台を封鎖して」
コルネックに。
「ログ、映像、入退室記録、帳票、すべて一元管理。広範囲への共有は禁止」
マッソンに。
「正午までに、強化機密体制の法的枠組みを」
最後にリーズへ。
「すぐには帰宅させません」
14番ホールは、台車と鋼塊を囲み、再び静まり返っていた。
だが、その沈黙はもう、工場のものではなかった。
試験用の鋼塊に始まって以来、現象は初めて、何をしてはならないかを正確に知る目撃者を得た。
早まって口を開いてはならない。
第6章
案件ファイル
持っていかれたもの
午前中、リーズは第6会議室に座っていた。携帯電話も入館証もない。所有者が変わったのは、もはや物だけではない。その感覚が刻々と鮮明になっていた。
ドロネーは何も言わず、両方を持っていった。
まず入館証。
次に携帯電話。
透明な封筒へ入れ、リーズの前に簡単な預かり証を置いた。リーズは読まなかった。ドアの近くに立つコルネックは、もはや隠そうともしない。理解するためにそこにいるのではない。漏洩を防ぐためにいる。
マッソンは速くも遅くもない手つきで書いていた。一つの文言を生み出すたび、その背後にはすでに三度の査読と、二通りの訴訟の可能性と、行政機関の影が控えている。そんな書き方だった。
タルデューは、テーブルとドアと、廊下に面した室内窓とのあいだを行き来していた。
「事業所外にある物はいくつです?」とマッソンが訊いた。
リーズは水のグラスを見た。
「二つ」
コルネックが顔を上げた。
「一つと言いましたよね」
「思い出したことを言っただけ」
「そういう言い方はしないでください」とマッソンが言った。
一語を線で消し、書き直した。
「質問を変えます。会社にとって利害の対象となりうる物が、事業所外にいくつありますか?」
会社。私たちでも、この部署でも、工場でもない。会社。
リーズはうなじが冷えるのを感じた。
「装置が一つ。紙が何枚か」
「どういう紙です?」とマッソン。
「図面」
「体系化されている?」
「ものによっては」
「日付は?」
「あるものも」
コルネックが鋭く息を吐いた。
「分かるでしょう、クレール? もう作業台での素人工作なんて話ではまったくない」
タルデューは振り向きもしなかった。
「私に見えるのは、これを工程のドリフトと呼びたがったせいで、四十八時間を無駄にしたということです」
マッソンは二枚目の書類をリーズの前へ滑らせた。
「事業所外の物品を回収します。あなたにも同行してもらう。鍵が必要です」
リーズは動かなかった。
「断ったら?」
「拒否として記録します」とマッソンが言った。「その後は、ずっと厳しい措置になる」
タルデューが立ち止まり、椅子の背に両手を置いた。
「これで時間を無駄にしないで。ホールであなたが見せたものは、正午までグループの壁の内側に留まりはしません」
言葉はすぐに噛みついてきた。
グループの壁の内側。
ならば、外へ。
上へ。
リーズは父のアパートの鍵束をポケットから出した。真鍮の鍵が二本。地下室用の小さな青い鍵。もうその名では存在しない、昔の造船所の広告入りキーホルダー。
マッソンが受け取った。
そしてまた書いた。
リーズはとうとう、書面の上部へ目をやった。
「振動励起下における揚力異常」
リーズはもう一度読み返した。
彼らにはまだ、それを言い表す言葉がなかった。
だが、主導権はすでに彼らの手にあった。
アンドレ・ヴァレンヌの家
彼らは灰色の車に乗った。冷えたプラスチックと、こぼれたコーヒーの匂いがした。
運転席にドロネー、助手席にコルネック。リーズは後部座席に一人きりで、携帯電話もなく、まだ指は腫れていた。火事のあとの自分の暮らしを見せられにいくような、馬鹿げた気分だった。
橋まで来ると、空が少し開けた。ロワール川は、汚れた鉄の色を保っている。クレーンが、それより大きな何かに突き立てられた工具のように、水平線を切り刻んでいた。
十分間、誰も口を開かなかった。
やがてコルネックが訊いた。
「ほかにもノートが?」
「はい」
「たくさん?」
「それなりに」
「いつ渡すつもりだったんです?」
リーズは窓を見た。
「自分が何を渡すのか、理解できたとき」
コルネックは、リーズに顔を見せられるだけ振り返った。
「もう、あなただけで決められることではありません」
それでも、私を通ってきたものなのに。
そう返したかった。
何も言わなかった。
パンオエの集合住宅は、階段の埃と、昔のスープと、熱すぎる湯で回した洗濯物の匂いで三人を迎えた。二階で近所の女がドアを細く開け、ドロネーを見て、コルネックを見て、二人の間にいるリーズを見た。それから音も立てずに閉めた。こういう場所の人間は、自分たちの関知しない何かに占拠された踊り場を見分ける術を知っている。
アンドレ・ヴァレンヌのアパートは、三日前にリーズが離れたままの姿で残っていた。半分下ろされた鎧戸。家具のような沈黙。狭い台所。仮設の工房に変わった奥の寝室。
コルネックは、まずあちこちを見て回った。警官のようにではない。嘘を重ねられすぎて、もうどの引き出しも信用しない女の目で。
ドロネーは玄関のそばに留まった。
「手短に」
リーズは小さな寝室へまっすぐ向かった。
二つ目の装置は灰色の箱に入れ、古い作業服の布で包んであった。その隣には、台所で使っていた螺旋綴じのノート、ばら紙の束が二つ、そしてネジの箱の下に黒い手帳。
本当に問題の汚れた核心にあるのは、黒い手帳だった。何もかも説明しているからではない。それがどこから来たのかを語っているからだ。整然とでも、科学的にでもない。しかし、案件の重心を、フランジやリングや管理表から一挙に遠ざけるには充分だった。
コルネックはもう戸口に立っていた。
「それですか?」
リーズは灰色の箱を持ち上げた。
「これは、そう」
最初の紙束を取った。
次に二つ目。
黒い手帳は、ネジの箱の下に一秒長く残った。
たった一秒。
それだけで、もっとましな策を考える時間がないと悟った。
ネジ箱を手前へ引き、ワッシャーの小袋をわざと落とした。腰をかがめ、ほかの物と一緒に手帳を拾い、そのまま上着の下へ、背中側からズボンのウエストゴムに差し込んだ。
まずい動きだった。大きすぎ、現に監視している者を欺くには、あまりに素人くさい。
立ち上がると、ドロネーがリーズを見ていた。
コルネックではない。ドロネーだ。
一秒。
二秒。
やがて彼は言った。
「一日中ここにいるわけにはいかない」
そして目をそらした。
見られたのだ、とリーズは悟った。
すべてではない。だが充分に。
箱をコルネックへ渡した。
コルネックは布を開き、死んだ装置を調べ、それから紙束を見た。
「全部?」
リーズは早口で答えすぎた。
「いいえ」
コルネックが目を上げた。
「何ですって?」
「今日、あなたたちに必要なものは全部。あとは家族の書類や帳簿、関係のないメモです」
コルネックがまた追及しようとしたとき、居間の固定電話が鳴った。マリアンヌからだった。
古い灰色の電話は、死んだアパートの中で、完璧なまでに無遠慮な音を立てた。
一度。
二度。
三度。
誰も動かなかった。
四度目に、コルネックがドロネーを見た。
「出ます?」
「まさか」
やがて呼出音は止んだ。
そのあとの沈黙は、さらに悪かった。
リーズは箱と、持ち出しを許した紙束を抱えた。
「行きましょう」
案件ファイル
C棟へ戻ると、職員用入口の前に県庁の車が停まっていた。
回転灯もなければ、派手なところもない。行政車両のナンバープレートをつけた暗色のセダンが一台。そして入口には紺色のコートを着た女が立ち、あまりに薄く、この先降りかかるものなど入りきりそうもない厚紙のファイルを見ながら、マッソンと話していた。
タルデューは第4技術室で待っていた。
生きた装置は、すでにテーブルの上にあった。
その隣に、死んだ装置が置かれた。
二つが並ぶのを見て、リーズは、両者を近づけるたびに湧き上がる、あの古い嫌悪を覚えた。同じ素材、同じ幾何形状、同じ閉ざされた佇まい。それなのに、片方だけが、ときおり世界を軽くすることを受け入れる。
県庁の女が入ってきた。
「ソフィー・ルセルフ。知事官房、防衛・安全保障担当です」
声に攻撃的なところはなかった。それだけに、なお悪かった。最も深刻な問題は、薄いファイルに入ってやって来ると、もう理解している者の話し方だった。
テーブルには、黒い暗号化電話機が置かれ、スピーカーが入っていた。
すでに男の声がつながっている。声高でも芝居がかってもいない。従わせるために力む必要のない、パリの声だった。
「聞こえますか?」
マッソンが、はいと答えた。
タルデューも。
ルセルフは何も言わなかった。
声が続けた。
「何より先に、事実だけを聞きたい。仮説は要りません」
部屋の空気が即座に変わった。
コルネックが経緯を要約し、タルデューが形状について補足し、マッソンが現時点で判明している範囲を述べた。オペレーター一名、反応する装置一基、ほぼ反応しない双子の装置一基、それらに先立つ複数の図面。今のところ、広範囲への情報共有はない。
声が訊いた。
「比較試験は、いま実施できますか?」
タルデューがリーズを見た。
「できる?」
リーズは答えた。
「死んだほうから」
死んだほうは、何もしなかった。
荷重はまっすぐ、乱れなく、侮辱的なまでに正常な値を保った。
パリの声は何も言わなかった。
タルデューが告げた。
「生きたほうを」
リーズは二つ目の装置を置き、励起装置を接続し、誰に言われるまでもなくシーケンスを呼び戻した。
試験用に選ばれた鋼塊は、巨大ではなかった。四十キロ。笑う者を黙らせるには充分に重く、まだ誰にも「実演」と呼ばせない程度には控えめな質量。
モニターの数値がずれた。
39.9。
31。
18。
6。
鋼塊が四センチ浮いた。
わずかな高さだった。しかし、ソフィー・ルセルフがメモを取る手を止め、コルネックが一秒呼吸を忘れ、電話の声が沈黙を丸ごとひとつ置いてから、すでに唯一重要となった問いを発するには充分だった。
「ヴァレンヌさん以外で、反応を得た者は?」
誰も口を開かなかった。
もはや技術的な問いではない。物体そのものより、誰に依存しているかを問うていた。
やがてタルデューが言った。
「現時点では、誰も」
声が訊き直した。
「言い換えます。ほかに誰が、それをかけられる?」
その言葉がリーズを貫いた。
かける。
ホールで口にしたのと同じ言葉。
言ってはならなかった言葉。
「分かりません」
声は失望した様子を見せなかった。
ただ、さらに注意深くなった。
「分かりました。これ以後、本件は通常の産業法規の枠外に移行します」
誰も動かなかった。
命令は静かに下された。だからこそ、怒鳴られた指示より大きな傷を残した。
声は続けた。
「ルセルフさん、県との連絡経路を封鎖。タルデューさん、記録はすべて保全、共有は最小限、許可のないデジタル送信は一切禁止。マッソンさん、機密保持体制を強化し、必要な媒体すべてを即時差し押さえできる態勢を整えてください。ヴァレンヌさんは追って指示があるまで待機、常時付き添い下に置きます」
短い間があった。
それから。
「午後早くに車を出します。場所については一時間後に改めて話します」
回線が切れた。
挨拶も礼もなかった。ただ、空になったスピーカーからの息づかいだけが残った。
マッソンは、朝のものより厚い灰色のファイルを引き寄せた。
最初の報告書、押収品受領書、二枚の概要書、ログの最初の写し、二つの装置を並べた写真のプリントを挟んだ。
そして表紙に、黒いマーカーで書いた。
「ヴァレンヌ・リーズ」
「異常揚力」
「配布制限」
リーズは、その三行を見つめた。
もう事故ではなかった。
案件ファイルになっていた。
第7章
当面、ブレスト
痕跡のない移送
午後の早い時間になって、リーズはようやく悟った。ほかより少し秘密めいた部屋へ連れていかれるだけではない。
一度も使ったことのない出口から敷地を出て、フェンス沿いに進み、物流区域を抜け、それからナントへ向かった。そのあいだ、彼女にかけられた言葉は十語にも満たなかった。
マッソンとコルネックは、ずっと同行していた。
ドロネーが運転する車には、所属を示すものが何ひとつなかった。権力が自らの車体から姿を消したがる世界へ入るのだと告げる、じつに洗練されたやり方だった。
後部座席のリーズには、携帯電話も社員証も返されていなかった。渡されたのは抗炎症薬と水のボトル、それにプラスチック包装の三角サンドイッチだけだった。サンドイッチには手をつけなかった。
ひっそりした小さなターミナルで車が止まっても、身分証の提示を求める者はいなかった。
暗い色のブルゾンを着た男がリーズを見て、マッソンを見て、それから扉を開けた。
駐機場には灰色の双発機が待っていた。プロペラを止め、低く腹を伏せ、会話の糸口になりそうなロゴはどこにもない。
リーズはぴたりと足を止めた。
「冗談でしょう?」
マッソンは気を悪くしなかった。
「いいえ」
「どこへ行くの?」
答える権限はあるが、答え方を間違えたくはない――そんな行政官特有のためらいが、ほんの半秒、彼の顔をよぎった。
「ブレストです」
コルネックがつけ加えた。
「当面は」
リーズは飛行機を見てから、三人を見た。
「当面って、どういう意味?」
ドロネーは彼女を見ずに答えた。
「たいていの場合、あまり早くから嘘をつかずに済ませる、という意味です」
飛行時間は一時間にも満たなかったが、リーズは夜通し移動したときよりも疲れた。
双発機は、風情もなく硬く震えつづけた。窓の向こうで海岸線の形が変わっていった。大地はしだいに険しく、細かく刻まれ、河口よりもむき出しの大西洋へ顔を向けていった。リーズは一睡もしなかった。コルネックは眠った。背筋を伸ばし、口を閉じ、自分の夢さえ疑ってかかる女の表情を、一秒たりとも失わずに。
機体がランヴェオックの滑走路に接地したとき、リーズはもうひとつのことを理解した。
フランスは、本当の意味では即興などしていない。少なくとも、普通にいう即興ではない。
古い行政大国の流儀で即興するのだ。すでに整えられた経路、すでに建てられた施設、想定外を受け入れる訓練を積みながら、決してそれを「想定外」と呼んでやらない人々を使って。
飛行機のすぐ下に車が待っていた。
その先、低い遮断機の向こう、風に叩かれる半島の道路には、もう一台が待っていた。
二つ目の施設には、目を引くものなど何もなかった。
白っぽい建物が二棟。厚い窓ガラス。旗のないポール。ほとんど空の駐車場。低く刈られた土手。遠く、二重フェンスの向こうには、鋼色の停泊地の一角と、軍港のさらに暗い塊が見えた。
特別なものになったすべてを呑み込みやすくするため、自分は何ひとつ特別ではないと装う場所だった。
真面目な人々
通された部屋は、ホテルの客室でも病室でもなかった。その両方から最良のものだけを取り出し、磨き上げた檻に仕立てたような部屋だった。
シングルベッド。明るい色の机。隅々まで清潔なシャワー室。停泊地を望む大きな窓は、十五センチまでしか開かない。
机には、誰かが新品の方眼ノートと黒いペンを三本、「睡眠――自発的所見」と題された用紙、それに「VARENNE」とだけ記された白いカードを置いていた。
「夫人」も、「来訪者」も、「施設名」もない。名前だけだった。
午後も遅くなってから、技術室4よりも柔らかな印象の会議室へ連れていかれた。
明るい木目。
水差し。
黒い画面。
窓はない。
五人が彼女を待っていた。
当然ながら、マッソン。
どうやって移動したのか、その間にもう戻っていたタルデュー。それだけで、彼女が実際にはどの位置にいる人間なのかがわかった。
紺のコートを灰色のジャケットに着替えたソフィー・ルセルフ。
短く切りすぎた白髪の痩せた男。暗い色のスーツ。黙ったまま部屋の全容を掌握する立ち方さえ除けば、ほとんど平凡な顔。
そして四十五歳ほどの女。無造作に束ねた髪。何もつけていない手。謎よりも比喩に煩わされることに疲れた、物理学者の目。
マッソンが紹介した。
「ピエール=アラン・セギュール。国防・国家安全保障事務総局です」
男は軽く頭を下げた。
「アリアーヌ・ソレル。物理学者で、構造と複雑結合の専門家です」
女はわずかに笑った。
「響きほど立派なものではありません。でも、奇跡と呼ぶよりは嘘が少ない」
リーズは椅子に座った。
最初に口を開いたのはセギュールだった。
「ヴァレンヌさん、単純なことを二つ申し上げます。第一に、ここにはあなたを罪人として扱うことで得をする者はいません。第二に、もう誰にもあなたを普通の従業員として扱う権利はありません」
親しげに見せようとはしていなかった。
その必要がないのだ。
「では、何なんです?」
「速やかに、適切に、できるかぎり愚かなことをせず、作業を進めます」
アリアーヌ・ソレルが間を置かず引き取った。
「ひとつ、大事なお願いがあります。今からは、いくつかの言葉を使わないでください」
リーズは目をしばたたいた。
「どの言葉?」
「まず、反重力。それから、疲れた技術者の宗教みたいに聞こえる言葉は全部」
タルデューがかすかに笑いかけた。
ソレルは続けた。
「現時点であなたが示したのは、ごく特殊な条件下で生じる、見かけ上の支持力の局所的変化です。しかも慣性は知覚できる形で保たれている。これだけでも途方もない。民間伝承をつけ足す必要はありません」
リーズは言った。
「民間伝承なんて、一度も口にしてない」
「結構です」とソレルは答えた。「では、全員で慎みましょう」
セギュールは両手を組んだ。
「急ぐべきことは三つあります。現象に再現性があるか。どこまであなたに依存しているのか。今夜、この範囲から情報が漏れた場合、誰が何を知ることになるのか」
リーズは一人ずつ顔を見た。
彼らは彼女を圧倒するためにいるのでも、恐怖に陥れるためにいるのでもなかった。それより危険だった。彼女を分別ある人間に仕立てるために、ここにいるのだ。
国家が「保護」と呼ぶもの
会議は尋問の口調にはならなかった。
もっと悪かった。
保護措置の口調になった。
睡眠時間、服用薬、片頭痛、最初の図を描いた正確な日付、形を見た可能性のある全員の名前、物体の反応がよく乗る瞬間、場所や騒音や周囲の質量による影響、酒を飲むと何かが変わるかどうか。
リーズは答えた。正確に答えることもあれば、そうでないこともあった。
曖昧な点があるたび、マッソンが記録した。 身体に関する細部が出るたび、ソレルが顔を上げた。 安全保障上の帰結が出るたび、ルセルフが書類の何かに印をつけた。 そしてセギュールは、有能な国家の下僕がよい仕事をするときにすることをした。一国が、いつからひとつの身体に依存しはじめるのかを見定めるために、耳を傾けていた。
やがて彼は尋ねた。
「今日より前に、夢のことを誰かに話しましたか?」
リーズはマリアンヌを思った。 ほのめかしたこと。 自分の、疲れた冗談。
「いいえ」
完全な真実ではなかった。 機械のなかへ入るには、充分に真実だった。
セギュールはうなずいた。
「結構です」
その「結構」は褒め言葉ではなかった。 対処すべき漏洩がひとつ減った、それだけを意味していた。
ルセルフが薄いファイルを開いた。
「今後、あなたは保護および機密保持を強化した措置の対象となります」
リーズは目を上げた。
「誰から保護するんです?」
ルセルフはすぐには答えなかった。決まり文句を返すより、そのほうが正直だった。
「外部からです。それに、あなたの存在があまりに早く流通することから」
リーズは笑いかけた。
「どういう意味?」
代わりにセギュールが答えた。
「このまま四十八時間、成り行きに任せれば、あなたが相手にするのは雇用主や県庁だけではなくなります。大臣官房、産業界、大使館、友好国の情報機関、さほど友好的でない機関。あなたを説得しようとする人、買おうとする人、守ろうとする人、診断しようとする人、隔離しようとする人、あるいはより大きな組織のなかに溶かそうとする人。そういう幕開けだけは、あなたに味わわせたくありません」
その言葉は、きれいな鉄の味を空気に残した。
リーズはそれまでとは違う目でセギュールを見た。
彼は嘘をついていない。少なくとも、すべてが嘘ではない。
ただ、すでに国家の言葉へ整理された真実を告げているだけだった。
「では、あなたたちは?」と彼女は尋ねた。「何が違うんです?」
初めて、セギュールが人間らしい動きを見せた。笑みではない。もっと疲れた何かだった。
「われわれは、それをフランス語でやります」
マッソンがペンを閉じた。
向かいのタルデューが、一瞬だけ目を伏せた。
滑稽な光景にもなりえた。
だが、そうはならなかった。
この清潔な部屋で、壁の向こうに軍港を抱え、言葉を爆薬のように秤にかけながら口にされたからこそ、それは正確な意味を持った。
手続き、機密、国益、礼節、捕獲。そして、彼女が役に立ち、おおむねまっすぐ立っているかぎり、すぐには粉々にしないという暗黙の約束。
アリアーヌ・ソレルが沈黙を破った。
「今夜はここで眠ってください」
リーズは彼女を見た。
「何ですって?」
「ここで。睡眠薬も、酒も、画面もなし。何か浮かんだら、すべて記録してください。図、言葉、順序、感覚。日付を入れ、署名し、電話する」
彼女は人差し指の先で、新しいノートを示した。
「部屋にあるものです」
リーズの怒りが、丸ごと一段せり上がった。
「私の夢を監視したいのね」
ソレルは厳しさを交えずに答えた。
「いいえ。夢が残すものを測りたい」
だからといって、安心できるわけではなかった。
18号室
夜、リーズは靴下のまま、清潔すぎる18号室のベッドに横たわり、開きを制限された窓の黒い輪郭を見つめていた。
服は返された。携帯電話は返されなかった。
運ばれてきたのは、悪くないスープ、新しいパン、あとで回収されるトレー、それに通行範囲を二本の廊下と洗面室だけに制限されたカードだった。それ以上は何もない。
扉の前に見張りはいない。必要がなかった。
ドアノブは回る。
だが建物は、外へ開かない。
机の上で方眼ノートが待っていた。
見ないようにしていた。
だが結局、椅子に座り、開いた。
最初のページには、すでに項目が印刷されていた。
「推定入眠時刻」
「覚醒時刻」
「自覚的睡眠の質」
「構造化された映像の有無」
「覚醒直後のスケッチ」
リーズは音を立ててノートを閉じた。
最も暴力的だったのは、移送されたことでも、持ち物を奪われたことでも、ましてや彼女の人生が国家の言葉で分類されはじめたことでもない。最も暴力的なのは、これだった。
彼らはわずか数時間で、彼女の眠りの縁に陣取らなければならないと見抜いたのだ。
大きな天井灯をつけずに、洗面室へ行った。洗面台の上の鏡が返したのは、髪をぺしゃんこにし、指にまだ跡を残し、正午より老けた顔の女だった。リーズはゆっくりとシャツのボタンを外した。彼らに先んじて、自分を医療記録のように眺めるためではない。センサーと項目に囲まれる前に、ただ役に立つだけではない身体を、もう一度、自分のものにするためだった。
欲望は、柔らかさより反抗から、不器用に訪れた。ハサンの姿がよぎり、消えた。唇の記憶。鎖骨に触れる笑い声。作業用Tシャツの下に滑り込んだ、熱すぎる手。リーズは目を閉じ、冷たい扉に立ったまま身体に快楽を与えた。ほとんど腹を立てながら。夢を生み出そうともせず、現象に答えを求めもせず、美しくも深くもあろうとせず。ただ、生きているために。
終わると、口元に手のひらを当てたまま、数秒じっとしていた。笑いも泣きもしないように。
国家が彼女に期待するものは、夜を通って来るのかもしれない。
だが、これは違う。
外で、風より重い息が夜を横切った。
嵐ではない。停泊地にいる艦船だ。
黒い水のなかで、巨大な質量がゆっくりと位置を変えていた。
リーズは父を、14番持ち場を、鉄塊を、上着の下に隠した黒い手帳を思った。今では手元を離れた鞄の二重底に丸めて押し込んである。
ドロネーは見ていた。
何も言わなかった。
その借りも、今や存在していた。
しばらくして、誰かが短く二度、扉を叩いた。
入るためではない。そこにいると知らせるためだった。
セギュールが扉越しに呼びかけた。
「ヴァレンヌさん?」
「はい」
「最後に、もうひとつ」
リーズは扉を開けず、上体を起こした。
「今夜、何か浮かんだら、朝まで待たないでください」
声は穏やかだった。ほとんど事務的だった。だがその下には別のものがあった。何の望みも口にしなかった女の眠りを何かが横切るかどうかに、これから一国が丸ごと依存するかもしれない。その事実を、芝居がかることなく認める響き。
リーズはノートを見た。
それから扉を。
そして自分の両手を。
鉄塊が動いて以来、初めて彼女は悟った。これから大急ぎで、新しい技術を身につけなければならない。
国家が礼儀正しくなったその瞬間に、知っていることをすべて差し出さない技術を。
第8章
目撃者なき証明
夜が残したもの
ほとんど眠れなかった。一度としてまとまった眠りにはならず、切れ切れだった。
18号室は、彼女を新しい疲労で包んだ。第14ホールでの疲れより清潔で、そのぶん屈辱的でもある。監視された疲労。シーツは業務用洗剤の匂いがした。換気装置は、医療従事者のような辛抱強さで風を送りつづけた。ときおり遠くから、停泊地か隣の建物で立った金属音が届き、国家にはいつだって予備の質量があるのだと思い出させた。
二時十六分、リーズは天井を見上げ、目を開けたまま目覚めた。
鉄塊の夢でも、父の箱の夢でも、鋼鉄のブロックの夢でもなかった。
夜が残したのは、別のものだった。作業台には収まりきらないほど大きな形。暗い直方体を取り囲む、口を開いた架台のようなもの。空けたままにすべき空隙が三つ。そして、そうだと確信していることを恥じる以外には、説明のしようもない向き。
リーズは身じろぎもせず横たわっていた。
片手をシーツの下に滑り込ませ、手のひらを腹に当てた。いたわるためではない。言葉になる前に、身体がまだそこにあると確かめるためだった。夜は工具の精度で彼女を貫いていた。それを夢と呼ぶべきか、直感か、侵入か、わからなかった。ただ、身体のほうが先に理解していた。その先回りは、すでに何かを奪われることに似ていた。
ノートが机の上で待っていた。
扉の向こうのセギュールを、清潔な言葉を使うソレルを、奇跡そのものより、それが沈黙する場所を見ているタルデューを思った。そして、没収された鞄の二重底に丸めて入れた黒い手帳と、それが上着の下へ消えるのを見ながら何も言わなかったドロネーのことも。
借りは、装置を構成する部品のひとつになっていた。
二時二十四分、彼女は起き上がった。
方眼ノートを、印刷された項目の下、最初に使えるページまで開いた。黒いペンの芯は細すぎた。リーズは形を描いた。すべてではない。三つの支点。中央の空隙。右へ開く二本の線。ブロックのおおよその位置。
第四のずれは描かなかった。それは物体のなかにはなく、ほかの指示よりも汚れた命令のように夢を貫いていた。開いている側を、水へ向けなければならない。
扉でも、北でもない。水。
ペンを置いた。
馬鹿げた指示だった。それでも全身が、それを書き記すことを拒んでいるのがわかった。
三時十分、ベッドへ戻った。四時にふたたび眠りへ落ちた。乱暴なほど深く、映像のない眠りだった。六時十一分、誰かがノックするより先に、廊下の光が扉の下から差し込んだ。
朝、やって来たのは見知らぬ女だった。
「朝食です、ヴァレンヌさん」
トレーにはコーヒー、トースト二枚、ヨーグルト、林檎、それに折り畳まれた紙が載っていた。
リーズはコーヒーより先に紙を取った。
「ご家族には、予定外の業務出張である旨を連絡済み。技術上の詳細は伝達せず」
署名どころか、部署名さえなかった。
二度読み返した。嘘ではなかった。だからこそ、もっと悪かった。真実でいられる時間を、必要最低限だけ引き延ばすために作られた文章だった。
七時半、アリアーヌ・ソレルがクレール・タルデューと一緒に入ってきた。
ソレルは、季節には薄すぎるジャケットの下に黒いセーターを着ていた。目が赤かった。寝不足ではなく、読みすぎた目だった。タルデューは電源の切れたタブレットと、無地の厚紙ファイルを持っていた。
「眠れましたか?」とソレルが尋ねた。
リーズは乱れたベッドを示した。
「見たところ、そのようね」
ソレルは笑わなかった。
「何か記録しましたか?」
リーズはノートを指した。
タルデューが手に取ったが、すぐには開かなかった。
「その前に」と彼女は言った。「正直に答えてください。ここには、わざと書かなかったことがありますか?」
遠回しなところのない質問だった。
リーズは自分の手を見た。
「何かは、いつも抜け落ちます」
「そういう質問ではありません」
ソレルは腕を組んだ。
「不完全な記録を頼りに今朝、質量を危険にさらすなら、今のうちに知っておいたほうがいい」
リーズは顔を上げた。
「何を危険にさらすつもり?」
タルデューがようやくノートを開いた。
「パリが望むものよりは軽いものです」
「つまり?」
「重すぎるもの」
ソレルは図に触れず、じっと見た。
「まずは六百キロの係留用バラストです。計測機器を取りつけ、低い位置に吊り、機械的な拘束をかけ、閉鎖された格納庫内で試します。何も起きなければ、有用な失敗。何か起きれば、有用な証明。どちらにせよ、誰かが自分を預言者だと思いはじめる前に中止します」
リーズは数字を聞いた。
六百キロ。
軍港にとっては、大した重さではない。
ひとつの身体には、充分すぎる重さだった。
彼女は言った。
「格納庫はどこ?」
ソレルが先ほどより注意深く彼女を見た。
「なぜです?」
リーズはためらった。
第四のずれが、目の奥のどこかで動いた。
「それが関係するかもしれない」
試験手順
格納庫の外側には、番号がひとつも見当たらなかった。
雨空の色をした二棟の建物のあいだを、低い空の下、歩いて向かった。ドロネーは彼女の三メートル後ろを歩いた。押して進ませるほど近くはない。だが、その沈黙を道程の一部にするには充分な距離だった。
リーズがコーヒーを飲んでいるあいだに、彼女の鞄は18号室の入口にあるプラスチック箱へ入れられていた。返されたのはハンカチ、髪留め、何の役にも立たない車の鍵。それだけだった。
黒い手帳はなかった。リーズは尋ねなかった。
格納庫のなかは寒かった。
その匂いに、不本意ながら安堵した。湿った金属、埃、油脂、塩。技術室4の白い匂いではない。働いてきた物の匂いだった。黄色い天井クレーンが梁の下で眠っていた。奥には埠頭側へ通じる大きな扉が閉ざされていた。向こうの水は、音としてではなく、コンクリートを相手にゆっくりと考えを変える質量として聞こえていた。
標識で囲まれた区画の中央に、バラストが待っていた。
鋼帯を巻かれた鉄筋コンクリートの塊。上部のリング。削れた側面。スプレーで吹きつけた数字。計測台に留めた仕様書によれば、六百二十キロ。荷重センサーが四つ。安全帯が二本。移動式の門型架台。キャスターつきの台に置かれたデータ収録装置。
見映えのするものは何ひとつなかった。だからこそ恐ろしかった。
セギュールはすでにいた。ルセルフもいた。マッソンは収録装置のそばで何かを書いていた。灰色の作業服を着た技術者が二人、なかなか下されない指示を待っていた。タルデューはノートをソレルに渡し、リーズのそばへ来た。
「求められるまで、何にも触らないでください」
「もう慣れたわ」
「いいえ」とタルデューは答えた。「あなたのひとつひとつの動作が、データか、証拠か、過失になる。そのことを、ようやく理解しはじめたにすぎません。まだ会話のように見える人数のうちに、言っておきます」
ソレルは、透明な仮設ケースに収められた作動部の前へしゃがみ込んだ。保持板に固定され、環状部品は見えるようになっていた。リングには目印がつけられ、締結部には一本ずつ赤線が引かれている。装置はもう、廃材じみた醜さを失っていた。それがかえって不安を誘った。早くも清潔なものになりはじめている。
「気に入らない」とソレルが言った。
ここにいないリガルが聞けば、喜んだだろう。
タルデューが尋ねた。
「何が?」
「理解していない物に、立派な箱を与えるこの速さが」
標識の向こう側からセギュールが答えた。
「標識を設けるのは、そのためです」
「違います」とソレルは言った。「標識は、私たちが馬鹿な死に方をしないためのもの。証拠以上に高いところから考えるためのものではありません」
リーズは彼女を見た。
ソレルの声に軽蔑はなかった。
手元にあるものでやる。だから慎重に――そう言うような口調だった。
セギュールは顎を動かし、訂正を受け入れた。
「では、証拠から考えましょう」
最初の試験はリーズ抜きで行われた。
ソレルがそう求めたのだ。
「装置があなたの手の下でしか作動しないなら、それを知る必要があります。あなたがいなくても、あなたの図があれば作動するのなら、それも知る必要がある。そのどちらでも作動しなければ、少なくとも、あなたの存在を法則と取り違えずに済みます」
リーズはバラストから四メートル離れた黄色い線の後ろに立たされた。
技術者がノートの図に従って装置の向きを変えた。ソレルは二度やり直させた。タルデューが目印を確認した。マッソンが正確な時刻を尋ねた。ルセルフが立会人を書き留めた。セギュールはそのすべてを、細心の注意を払って見ていた。行政上の細部こそが、ときに神話へ沈まないための唯一の手段だと知る者の目だった。
起動。
センサーが荷重を拾った。
619。
620。
619.8。
何も起きない。
収録装置には、ほぼ直線が描かれた。
三十秒待った。
さらに一分。
やはり何もない。
ソレルは落胆した様子を見せなかった。むしろ、少しほっとしているようだった。
「結構です」
リーズは笑いそうになった。
「あなたも?」
「私も、何です?」
「うまくいかなかったときに、そう言うのね」
ソレルは疲れた顔を彼女へ向けた。
「きちんとうまくいかなかったときには。仕事の始まりは、たいていそこです」
タルデューが二度目の試験を求めた。
結果は同じだった。
三度目にはセンサーが一キロだけ動き、すぐに、誠実な重さへ戻った。
セギュールが尋ねた。
「測定ノイズですか?」
ソレルは答えた。
「ありえます」
それからリーズを見て、つけ加えた。
「あるいは、足りない」
その言葉が二人のあいだに残った。
足りない。誤りでも、不可能でもない。ただ、足りない。
リーズは、自分が書かなかった部分の前まで来てしまったと悟った。
質量と水
「何が足りないんです?」とタルデューが尋ねた。
その問いはもう、試験手順だけに向けられたものではなかった。
リーズはバラストを、装置を、埠頭へ通じる扉を、安全帯を、センサーを見た。壁の外で、水が身体のない巨獣のような緩慢さでコンクリートを押していた。まともな言い方を探した。
そんな言い方はなかった。
「開いている側の向きが違う」
ソレルはノートへ目を落とした。
「あなたの図では、開口部は右向きです」
「そう書いたから」
「何に対して右なんです?」
リーズの返答は、わずかに遅れた。
ほかの誰より早く、タルデューが悟った。
「基準を省いたんですね」
「確信がなかった」
「昨夜、私が求めたのはそういうことではありません」
その言葉は音を立てて打ちつけられはしなかった。
ただ、締めつけた。
振り返らなくても、背後にドロネーがいるのを感じた。
セギュールが二歩近づいた。
「ヴァレンヌさん」
声を荒らげはしなかった。
「はっきり申し上げます。わからないことは受け入れられます。怖いことさえ受け入れられる。ですが、不安定な質量の周囲に六人がいる試験中に、有用な情報を伏せていたと事後に知ることは、受け入れられません」
不安定な質量を囲む六人。それこそ今の自分の存在を正確に言い表している、と言い返したかった。
だが、口にしたのは別のことだった。
「開いている側を、水へ向けなければならない」
沈黙。
軽蔑の沈黙ではない。内側で変換するための沈黙だった。それぞれが自分の職業のなかに、今聞いたことを収める欄を探していた。
最初に動いたのはソレルだった。
「なぜ、水なんです?」
「わからない」
「夢で見た?」
「ええ」
「それを記録しなかった」
「しなかった」
ソレルは一瞬、目を閉じた。
開いたとき、表情はさらに硬くなっていた。
「では、単純なことをしましょう。装置には触れず、あなた自身で基準を決める。向きを指示し、私たちが実行する。何も起きなければ失敗を記録します。何か起きれば、何が細部で何が細部でないかを、もう一人で決める権利はありません」
「もう、権利なんてほとんど残っていない」とリーズは言った。
セギュールが答えた。
「そうかもしれません。ですが、責任はまだ残っています。無用な秘密に費やさないでください」
その言葉は彼女に届いた。
国家の人間が言ったからではない。
父が口にしてもおかしくない言葉だったからだ。
リーズは黄色い区画へ入った。
誰も彼女に触れなかった。
バラストのそばまで行き、ズボン越しにも鉱物の冷たさを感じるほど近くに立った。ブロックは膝より高かった。醜く、表面は剥がれ、何にも関心を示さない。六百二十キロ分の、古い従順。
閉ざされた埠頭の扉を見た。
「あっち」
技術者が保持板を十二度ほど回した。
「違う」
技術者は止めた。
「もう少し浅く」
ソレルが尋ねた。
「何度です?」
リーズは二つのリングの隙間を見て、扉の縁を見て、床を走る錆の筋を見た。
「わからない。きれいに見えなくなるまで」
技術者は、ほんのわずかに回した。
組み上げられた装置の何かが変わった。形ではない。そこに在る感じが。
「そこ」とリーズは言った。
彼女は区画の外へ出た。
試験手順を最初からやり直した。
時刻。
立会人。
初期状態。
荷重。
安全確認。
起動。
四秒間、何も起きなかった。
収録装置の表示は620.1。
やがて、617。
ソレルが片手を上げた。
誰も口をきかなかった。
611。
594。
頭上の天井クレーンが、短く軋んだ。
「クレーンじゃありません」と技術者の一人が、あまりに早口で言った。
ソレルは彼を見なかった。
542。
バラストはすぐには床を離れなかった。まず、その権威を失いはじめた。
安全帯が一ミリだけ緩んだ。コンクリートから、ごく小さな、ひどく親密な音がした。長すぎる思念から石を解き放ったような音だった。削れた側面から埃が少し落ちた。
388。
ルセルフのペンが止まった。
セギュールの表情だけは変わらなかった。それが、誰より先に理解したことを露呈する、彼なりの仕草だった。
213。
ブロックが浮いた。
高くはない。二センチ、せいぜい三センチ。
だが、六百二十キロのコンクリートと鋼鉄と慣習が、床とのあいだに汚れた光の刃を通した。閉鎖された海軍格納庫で、寓話など信じても何の得にもならない七人の目の前で。
誰も悪態をつかなかった。
その沈黙のほうが、はるかに重かった。
バラストは六秒間、宙にとどまった。
それから、重さを取り戻した。
一気にではない。
制御された、ほとんど礼儀正しい緩慢さで。自らの裏切りを目撃した者たちをこれ以上辱めぬよう、平常へ戻ることを受け入れたかのように。
センサーの値が上がった。
301。
477。
620。
床が鈍い衝撃とともに質量を受け止めた。
局所警報が一度だけ鳴った。
ソレルが自分で止めた。
それからようやく、彼女は後ずさった。
顔は青ざめていた。感動ではない。ただ、青ざめていた。
「中止します」
タルデューは画面を見た。
「一連の記録はすべて取れています」
「だからこそです」
ソレルは眼鏡を外し、セーターの裾で拭いて、かけ直した。
「今からは、繰り返すたびに誘惑が生まれる。きれいな証拠と、生きた人間を残すほうを選びます」
生きた人間とは自分のことだと、リーズは遅れて理解した。
内輪
窓のない部屋へ戻った。
リーズの服には、格納庫の塩と湿ったコンクリートの匂いが染みついていた。曲線よりも正直な証拠のように、その匂いへすがった。だが室内はふたたび明るく、整頓され、管理できるものへ戻っていた。水差しは交換されている。画面には電源が入っている。ルセルフのファイルは、もう薄くなかった。
画面に男が映っていた。
五十歳くらい。暗いスーツ、暗いネクタイ。飛行機で眠り、エレベーターから次のエレベーターへ移るあいだに決断する人間の顔。背後には白い壁とランプ。窓はない。
セギュールは回りくどいことを言わずに紹介した。
「アドリアン・ヴォークレール。エリゼ宮の産業主権・防衛担当顧問です」
その一語は、格納庫より大きな音を立てた。
エリゼ宮。
母は、漠然とした業務上の任務だと思っているはずだ。マリアンヌは信じないだろう。今ごろコルネックとドロネーの足音が行き来している、パンウエットのアパルトマン。鉄塊。施設のほかの者が何ひとつ知らないうちから、大統領府まで届いてしまった回路の、取るに足らない起点。
ヴォークレールは、体調を尋ねなかった。
リーズは、そのことに少し感謝しかけた。
「映像は確認しました」と彼は言った。
セギュールより先に、ソレルが答えた。
「ご覧になったのは一連の記録です。ドクトリンではありません」
ヴォークレールはカメラ越しに彼女を見た。
「ソレルさん、ここではまだ誰もドクトリンの話などしていません」
「なら、利用の話もまだ誰もすべきではありません」
短い沈黙。
セギュールは口を挟まなかった。
やがてヴォークレールが軽く頭を下げた。
「結構。依存について話しましょう」
その言葉が部屋を締めつけた。
「現在わかっているのは、異常な支持力効果が、異なる場所で、異なる質量に対し、複数回得られたことです。その条件には、物理的装置、周囲環境の構成、そしてヴァレンヌさんによる直接または時間差を伴う介入が含まれるらしい。わかっていないのは、その介入が技術的なものか、認知的、心理的、生理的なものか、あるいはまったく別の何かなのかです。われわれが阻止しなければならないのは、ほかの誰かがわれわれより先に、その問いを定式化することです」
リーズは尋ねた。
「そのわれわれって、誰?」
ヴォークレールは間を置いた。
答えを知らないからではない。
答えが多すぎるからだった。
「今のところは、ごく限られた内輪です」
「そのあとは?」
「そのあとは、あなたがわれわれと何をする覚悟があるかによります」
ソレルが彼のほうを向いた。
「今ので、彼女を失いましたよ」
リーズは思わずソレルを見た。
ヴォークレールも見た。
ソレルは低い声のまま続けた。
「彼女は今、自分の当面の利益に反して、伏せていた情報が結果を変えうることを証明したばかりです。協力を求められる手段のように扱えば、彼女はまた、何を渡すか選別しはじめるでしょう。そうするのが正しい」
ヴォークレールの顔が一段だけ閉じた。
部屋の空気が硬直する前に、セギュールが引き取った。
「現段階で、ヴァレンヌさんは請負人でも、被拘禁者でも、患者でもありません。まさにそこが問題なのです。既存の言葉が損害を与える前に、枠組みを作らなければならない」
格納庫から戻ってほとんど口を開いていなかったマッソンが、ファイルを開いた。
「現状、既存の言葉はどれも不適切です。知的財産、営業秘密、国防機密、施設の安全、身体の保護、技能の強制徴用の可能性。どれも全体を適切に包含できません」
「労働法は?」とリーズが尋ねた。
誰も笑わなかった。
マッソンが答えた。
「まだ存在しています」
「それはどうも」
「充分だとは言っていません」
少なくとも、その返答は裸だった。
タルデューが格納庫の曲線を印刷した紙を、リーズの前に置いた。
質量を示す線が下降し、ほとんど消え、また戻っている。単純な一本の線。その単純さゆえに、怪物じみた線。
「よく見てください」とタルデューが言った。
リーズは見たくなかった。
それでも見た。
「今日から、誰もがあなた抜きでこの線を欲しがります。科学者、産業界、軍、国家。あなたを守る者たちでさえ。何よりも、あなたを守る者たちこそ。今、それを理解してください」
「あなたも?」
タルデューは目をそらさなかった。
「私もです」
その正直さは、脅しよりも痛かった。
ヴォークレールが話を戻した。
「大統領には特別措置を提案します」
リーズは一秒置いた。
「正確には何を提案するの? 私の夜を機密指定すること?」
荒唐無稽な問いにもなりえた。
だが、そうはならなかった。
セギュールは、彼女の前に置かれた新しいノートを見た。
「時間を稼ぐことです」
「私をここに留めて」
「今夜については、そうです」
「そのあとは?」
ヴォークレールが答えた。
「共和国が、それを超えうるものを保護できるかどうか見極めます」
リーズは、途方もない疲労とともに「保護」という言葉を聞いた。
もう、どこにでもあった。扉の上、ファイルのなか、セギュールの言葉、ドロネーの沈黙、自分の代わりに家族へ連絡したそのやり方。
リーズは印刷された曲線を手に取った。
紙は指のあいだで、ほとんど震えていなかった。
「共和国を超えるものが、そんなふうに保護されたくないとしたら?」
すぐには誰も答えなかった。
壁の向こうでは、停泊地がまだ働いていた。質量が動いている。船体が擦れる。どこかで機械が回っている。古い世界に、重さに、命令に、鎖に、軽くする方法を誰も見つけていないからこそ保たれているすべてに、忠実な機械。
やがてソレルが言った。
「なら、別のものを発明しなければなりません」
リーズは彼女を見た。
「本当に、私に発明させてくれると思う?」
ソレルは「はい」と答えなかった。
嘘はつかなかった。
「あなたがやろうとしなければ、彼らがあなた抜きで発明すると思います」
「彼ら」という言葉がテーブルを渡り、セギュール、ヴォークレール、ルセルフ、マッソン、タルデュー、ドロネー、そしてリーズのあいだに降りた。
誰も拾い上げなかった。
十時五十六分、アドリアン・ヴォークレールは、誰も名を口にしない会議へ出席するため画面から消えた。
十一時四分、セギュールは格納庫の記録を暗号化記憶媒体二つに複製し、いかなるネットワークにも接続しないよう命じた。
十一時十分、ソレルは睡眠医を要請した。ただし精神科医ではない。
十一時十二分、リーズは自分がごく小さな勝利を得たと悟った。まだ、狂人と決めつけられてはいない。
十一時十五分、ドロネーがノックもせずに入ってきた。
透明な袋をテーブルに置いた。
なかには黒い手帳が入っていた。
「鞄のなかで発見しました」
リーズは彼を見た。
彼もリーズを見た。
借りの所有者が、今、入れ替わった。
セギュールが尋ねた。
「これは何です?」
リーズは「何でもない」と答えることもできた。
だがもう、その言葉が役に立たないと知るには充分なほど嘘をついていた。
黒い手帳を見て、格納庫の曲線を見て、閉ざされた扉を見た。
「まだ渡していないものです」
第9章
道義の契約
開かれた手帳
誰も袋に触れなかった。
数秒のあいだ、黒い手帳はテーブルの中央に置かれたままだった。擦り切れた布張りの表紙、伸びたゴム、擦れて白くなった角。ほとんど重さがないからこそ、六百二十キロのバラストより不穏な、小さな物体。
リーズは三年前、新聞雑誌店でそれを買った。パッキンの番号、点検日、いつも忘れてしまう部品番号を書き留めるためだった。だが、別のものを書くようになった。角度。朝の言葉。正午には何の意味もなさず、ときに二日後になって物質を動かす文。
ドロネーは扉のそばに立っていた。
発見された武器のように手帳を置いたが、それが武器ではないことを、彼の顔はよく承知していた。まだ今は。
セギュールが尋ねた。
「いつからあるのです?」
リーズは袋を見た。
「ずっと前から」
マッソンがペンを取った。
「もう少し正確に答えてください」
「二年半くらい。たぶん」
「なぜ隠したのです?」
リーズは笑いたくなった。大きな声ではなく、この部屋の礼儀正しさを少し傷つける程度に。
「私のものだから」
その言葉は、不躾なほど単純に落ちた。
私のもの。格納庫で目にしたものには、その言葉は小さすぎた。学校の校庭、ポケットの鍵、手から奪い取られるノート。そんな匂いのする言葉だった。それでも、その場の全員に息をつき直させた。
ヴォークレールはもう画面にいなかった。残念だった。携帯電話も、身分証も、弁護士もない女が、それでもなお所有を表す言葉を使った瞬間、彼がどんな顔をするか見たかった。
セギュールは両手を組んだ。
「わかります」
「いいえ」
もっと用心深い言葉を選ぶ暇もなく、声が出ていた。
「わかるのは、この手帳が役に立つということだけ。それ以外は、わかっていない」
ソレルは動かなかった。タルデューも。ルセルフがごく短く何かを記した。マッソンのペンが止まった。
「それ以外とは?」とセギュールが尋ねた。
リーズは透明な袋を指した。
「なかにあるのは形だけじゃない。眠れなかった夜、馬鹿げた言葉、日付、痛み、そのときの私には読めなかったもの。父の名前が、何の関係もない場所に出てくる。成功しなかった試験もある。私の間違いを、あなたたちは手がかりだと思うでしょう。押収品として開けば、手に入るのは紙です。中身を理解したいなら、私を読み解く側に残してもらう」
沈黙の密度が変わった。
評価されているのは、もう彼女だけではない。
どう捕獲するのか、その形そのものだった。
ソレルが袋へ手を伸ばした。
「開けても?」
リーズはためらった。
「一人では駄目」
「わかりました」
その返答を快く思わない者もいた。
マッソンが顔を上げた。
「この手帳は今や、国家安全保障上の重要資料です」
「では、私は何?」
彼はすぐには答えなかった。
そのことに、リーズは少し感謝しかけた。即答されていたら侮辱だった。
セギュールが彼に代わって攻撃を引き受けた。
「現時点では、何を早合点してはならないかを指摘できる唯一の人です」
「それは、どこかに書いてある?」
「まだです」
「なら、それから書いて」
マッソンはペンを紙の上へ置いた。
「保証が欲しいのですか?」
「欲しいものはいくつもある。保証なんて、きれいすぎる」
タルデューがセギュールを見た。笑ってはいなかったが、顔の何かが動いた。賛同ではない。抵抗すべきところで抵抗した人間を認めた表情だった。
ソレルが、ひどくゆっくりした手つきで袋を開いた。
黒い手帳が、部屋の空気を吸った。
リーズは奇妙な羞恥が顔へ昇るのを感じた。物を奪われ、どこかへ移され、尋問され、本来なら物理学に属するはずの曲線をエリゼ宮に見せられる。それでも、この手帳を彼らの前で開くことには、もっと裸の暴力があった。自分の精神が役に立ちはじめた、まさにその混沌へ踏み込まれるのだ。
ソレルが最初のページをめくった。
開いた檻の図。
打ち消された二本の線。
日付。
そして、斜めに書かれた一文。
「空虚は中心にあるのではない。中心を受け入れるものだ」
マッソンが眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「何の意味もない」とリーズは言った。「あるいは、何かの意味がある。いつもではないけれど」
ソレルは先へ進んだ。
次のページには三つのスケッチ。片頭痛の記録。目覚めた時刻。余白の真ん中に、何の理由もなく書かれた父の名前。
タルデューが近づいた。
「失敗には日付をつけているんですね」
「いつもじゃない」
「成功より多い」
リーズは一度も気づいていなかった。
おそらくそのとおりなのが、腹立たしかった。
ソレルはさらに二ページめくり、もっと暗く、ほとんど読み取れない図のところで止まった。何本もの線が重なっている。下に、リーズはこう書いていた。
「誰が支えるのかわからないなら、渡してはならない」
それが何を意味するのか、誰も尋ねなかった。
そのほうがよかった。
最初の条項
最初の条項を書いたのはマッソンではない。
電話だった。
手帳に番号や区分や整理記号や分類を与えられる前に、リーズが譲らなかった。個人的な願いとしては口にしなかった。この部屋では、個人的なものはろくに守られない弱点になると、もう理解していた。
彼女は言った。
「全部を読む前に、姉へ電話します」
ルセルフがファイルから目を上げた。
「ご家族には連絡済みです」
「ひとつの文で眠らせただけでしょう」
「私なら、そういう言葉は使いません」
「だから私が使うの」
セギュールが時刻を見た。
「五分です」
「一人で」
「それは認められません」
乱暴さのない返答だった。そのぶん、頑丈だった。
リーズは鼻から息を吸った。
「なら、スピーカーにはしない。誰も口を挟まない」
セギュールが尋ねた。
「ルセルフさん?」
ルセルフはほとんど迷わなかった。
「通話は可能です。無言で立ち会います。技術的な詳細、正確な所在地は伝えないでください」
「台本なら、もう知ってる」とリーズは言った。
ドロネーが、彼女のものではない電話を返した。
ケースのない灰色の端末で、目に見える記録領域もなかった。マリアンヌの番号がすでに入力されている。リーズは画面を見た。この動作まで準備されていた。
電話を受け取った。
二度目の呼出音で、マリアンヌが出た。
「もしもし?」
たった一音で、パンウエットのアパルトマンが丸ごと戻ってきた。仕分けを待つ皿、喪の口紅を引いたジャンヌ、きれいに重ねた山、重すぎる食器棚、コルネックが引き出しを調べているあいだに鳴った古い灰色の電話。
「私」
「リーズ?」
マリアンヌの声が、たちまち変わった。
「どこにいるの?」
リーズは、その場にいる全員の視線が、重さなどないふりをしてのしかかるのを感じた。
「出張先」
沈黙。
「お母さんに話すみたいな口をきかないで」
リーズは目を閉じた。
「説明できないの」
「誰と一緒?」
セギュール、ルセルフ、マッソン、タルデュー、ソレル、ドロネーを見た。どの名前も、この約束のなかへ入れるには大きすぎた。
「真面目な人たち」
「安心できない」
「私も」
部屋では誰一人動かなかった。
マリアンヌが声を落とした。
「拘束されてるの?」
その問いのなかに、姉がすでに知っているリーズのすべてが聞こえた。嘘のつき方。話を切り上げる癖。怖くなると、仕事の陰へ消えてしまうこと。
「そういう形じゃない」
「つまり、されてるのね」
「複雑なの」
「リーズ」
その名前には、愛と長年の習慣で立っている怒りがあった。
「せめて、危険なのかどうか教えて」
リーズはソレルを見た。
ソレルは、合図も指示も出さなかった。
不思議なことに、それが助けになった。
「一人じゃない」
「同じことじゃないでしょう」
「わかってる」
マリアンヌの息が、マイクのすぐそばで聞こえた。
「お母さん、憲兵隊に電話するって」
リーズは笑いそうになった。
「やめさせて」
「自分が何を頼んでるかわかってる?」
「わかってる」
「わかってない。あなたは昔から、自力で切り抜けることと、誰にも怖い思いをさせないことを、同じだと思ってる。だからわかってるつもりなのよ」
予想した以上に痛かった。
リーズはテーブルに背を向けた。
窓はなかった。明るい色の壁、非の打ち所のない幅木、わずかに違う白で塗り直された隅だけ。
「今日はお母さんをお願い。アパルトマンも。誰も売らない。捨てない。工具は誰にも渡さない」
「どうして?」
「必要だから」
「何をするのに?」
リーズは電話を強く握った。
「私のままでいるために」
マリアンヌは何も言わなかった。
もう一度話したとき、教師らしい声の切れ味は消えていた。ただ、彼女の姉の声だった。
「今夜、電話して」
リーズはセギュールを見た。
彼は一度だけうなずいた。
「かけてみる」
「違う。かけて」
「わかった」
「それから、誰かが聞いてるなら、ひとつ覚えておいてもらって」
部屋が緊張するのをリーズは感じた。
「マリアンヌ」
「いいえ。嘘をつくときのあなたの顔も、怖がってるときの声も、自分一人で全部背負うほうが他人より立派だと思い込んでるときの沈黙も、私は知ってる。だから迎えに行かなきゃならなくなったら、ろくなやり方では行けないでしょうけど、それでも行くから」
リーズの目が熱くなった。
「みんな、怖がるでしょうね」
「上等よ」
そう言って、マリアンヌは電話を切った。
リーズはさらに二秒、電話を耳に当てたままにした。
振り返ると、誰も面白がってはいなかった。
セギュールが言った。
「お姉さんは、なかなか芯の強い方ですね」
「中学二年生を教えてるの」
「今の発言は撤回します。鍛えられているんですね」
冗談になりかけた。
かろうじて。
リーズは電話を返した。
「第二の条項」
限界
とうとうマッソンがホワイトボードに書きはじめた。
自分のメモ帳ではない。
壁にかかったホワイトボードに、少しきしむ青いマーカーで。条項を見えるようにしてほしいと、リーズが求めたのだ。ファイルのなかへ消える記録も、別の場所で重さを量られる言葉も、遠くで汚されてから清潔な顔で届く決定も、もう欲しくなかった。
マッソンは上部に書いた。
「ヴァレンヌさんが提案する保全上の要点」
リーズは言った。
「違う」
彼の手が止まった。
「なぜです?」
「私が快適さを要求しているみたいに聞こえる」
ソレルが目を上げた。
セギュールは何も言わなかった。
マッソンは消した。
そして書いた。
「暫定的協力条件」
「それも違う」とリーズは言った。
「協力という言葉が嫌ですか?」
「暫定的が嫌なの」
ルセルフがファイルを閉じた。
「現段階では、すべてが暫定的です」
「だからよ。昨日から、暫定的というのは、あまり早くから嘘をつかずに済ませるという意味でしょう」
扉のそばのドロネーが、ほんのかすかに動いた。ブレストへ着く前、車のなかでそう定義したことを知っているのは、彼だけだった。
マッソンがセギュールを見た。
セギュールは言った。
「『即時条件』と書いてください」
マッソンは従った。
何の保証にもならない。
それでも、自分が拒んだ言葉を法務の人間が消すところを見て、リーズは初めて足場を得た。
最初は身体についてだった。
「私の書面による同意なしに、侵襲的な医療手順は行わない」
マッソンが書いた。
「侵襲的の定義を」
リーズより先に、ソレルが答えた。
「鎮静、意図的な睡眠剥奪、強制的な画像診断、通常の範囲を超える検体採取、同意をそのつど更新しない夜間監視、単純かつ正当な計測を超える身体センサー」
リーズは彼女を見た。
「用意してあったの、そのリスト?」
「役に立つ身体を前にして、非常に頭のいい人間が愚かになるところを、何度も見てきました」
セギュールは異議を唱えなかった。
「原則として受け入れます。ただし、医療上の緊急事態は除きます」
「でっち上げた緊急事態は駄目」とリーズが言った。
「どんな緊急事態も、でっち上げだと名乗っては現れません」
「なら、独立した医師に裁定させる。ソレルも同席して」
ソレルが顔を上げた。
「何ですって?」
「独立した医師が彼女の前で説明するなら、私は聞く。パリが苛立っているからと別の誰かが言うなら、拒否する」
その場にいないヴォークレールの存在が、急に濃くなった。
セギュールは時間をかけて答えた。
「ソレルさんが示すのは科学的見解です。医学的見解は医師が示さなければなりません」
「結構。なら、彼女もその見解に署名する」
ソレルはリーズの視線を受け止めた。
「自分が考えていることにしか署名しません」
「それだけでいい」
二つ目の限界は、用途に関するものだった。
その言葉自体を選ぶのにも苦労した。軍、戦争、死、何を壊すか理解もしないうちに、あらゆるものを優位性へ変える男たち。そう言いたかった。だが、美しさを抑え、役に立つ言い方を選んだ。
「どんな野外試験も、軍事利用も、機密性の高い荷の輸送も、何を、どこで、なぜ行い、周囲に誰がいるのかを私が正確に知らないかぎり、認めない」
ルセルフが即座に尋ねた。
「機密性の高い荷とは?」
「よくわかっているでしょう」
「あなたの口から聞きたいのです」
リーズは指を折って数えた。
「武器。弾薬。装甲車両。海軍システム。監視機材。その存在を知らない人たちに対して、優位に立つためのものすべて」
セギュールは腕を組んだ。
「この性質の技術的断絶を防衛分野で評価することを、国家があらかじめ放棄するわけにはいかない。その点は理解していますね」
「国家が何を放棄できるかなんて訊いていない。私が眠っているあいだに、一人では何をしないかを言っているの」
その拒絶は、倒れずに立っていた。
リーズ自身が驚くほどに。
タルデューが、もっと穏やかな声で補った。
「技術的には、そこが問題の核心です。現時点では、彼女なしに効果は得られない。少なくとも、利用可能な形では」
セギュールは格納庫の曲線を見た。
「現時点では」
「そうです」とタルデューは言った。「現時点では。それだけでも重大です」
マッソンが書いた。
「防衛目的の利用は、管理された試験を除き、ヴァレンヌさんへの事前通知および限定科学班の見解なしには行わない」
リーズは読んだ。
「駄目」
マッソンは待った。
「私の同意を、私への通知に置き換えた」
彼は笑いかけた。
「学習が早い」
「敵に恵まれてるから」
「私は敵ではありません」
「なら、もっと正確に書いて」
青いマーカーがまた動いた。
「軍事用途の荷または防衛目的を伴うすべての試験には、ヴァレンヌさんの事前同意を要する」
ルセルフが言った。
「ヴォークレールは、この文言を拒否します」
セギュールが答えた。
「ヴォークレールは、この文言を読みます」
勝利ではなかった。
だが、ホワイトボードに一本の線が引かれた。
リーズは続けた。ただし、検査を受ける女のように、ポケットの中身を何もかも並べ立てないよう自制した。
自分の弁護士。毎晩マリアンヌと話すこと。父のアパルトマンを完全に閉鎖し、研究所の別棟にしないこと。黒い手帳は彼女とともに読み、彼女に対抗する材料として読まないこと。外へ出す理由が見つかるまで、不可能な図は留めておくこと。
要求を口にするたび、テーブルを囲む誰かが動いた。
マッソンの書く速度は遅くなった。
ルセルフが異議を唱えるまでの間は長くなった。
技術用語があまりにきれいになりすぎると、タルデューが言い直した。
言葉がリーズを人間ではなく現象へ変えそうになるたび、ソレルが遮った。
ドロネーだけは、何も言わなかった。
その沈黙は少しずつ、脅威だけではなくなっていった。分類しようのない、暗い証人のようなものになった。
最後には、ホワイトボードが文字で埋まっていた。契約でも、合意ですらない。書いたばかりのマーカーの文字で築かれ、このあと起きるすべてにすでに脅かされている、言葉の堰。
リーズはそれを見た。
数秒だけ、これで足りるかもしれないと思った。
まだ存在しない会社
最初に「組織」について話したのはタルデューだった。
醜い言葉だが、機能を偽らない点だけはよかった。組織とは、荷が出鱈目に落ちないよう、周囲に組み上げるものだ。家でも、約束でもない。まだ牢獄でもない。
「この案件を現在の会社に残せば、まず企業グループに呑まれ、次に国家に呑まれ、そのあと両者の対立に呑まれます。あまり早く切り離せば、現場を持たない行政機密になる。どちらにしても、物質か人間のどちらかを失うでしょう」
ほかの者より先に、マッソンが彼女の意図を理解した。
「専用会社です」
リーズは顔を向けた。
「何ですって?」
「フランス法に基づく独立した法人。統治機構を厳格に固定する。国、現在の雇用主、あなた自身、場合によっては公的技術研究機関が出資する。目的を限定し、アクセスを管理する。発明、記録、試験、産業化の成果に関する権利を分離する」
彼はもう、早口になっていた。
彼女を煙に巻きたいからではない。
すべてが浮遊している部屋に、ようやく法律で作られた家具が見えたからだった。
「駄目」とリーズは言った。
彼の口が止まった。
「何が駄目なのです?」
「『場合によっては』が」
「何ですって?」
「公的研究機関にだけ、『場合によっては』と言ったでしょう。国が入るなら、売ることも、機密指定することも、命令することも目的にしない誰かが必要。原子力・代替エネルギー庁でも、国立科学研究センターでも、何でもいい。使う前に理解するのが仕事の人たち」
ソレルはテーブルへ目を落とした。
「公的研究機関を、あまり信頼しすぎないでください」
「私は、どこに対しても疑ってる。それとは違う」
セギュールがわずかに賛意を示す動きを見せた。本人なら、認めなかったかもしれない。
タルデューがつけ加えた。
「特定の試験区分については、彼女に拒否権を与える必要があります」
ルセルフが反応した。
「そのままでは不可能です」
「なら、そのまま可能にする方法を探して」とリーズが言った。
声は大きくなかった。
ただ、慎重でいられないほど疲れていた。
「昨日まで、私は工場の従業員だった。今朝になったら、私の線も、夜も、手帳も、間違いも、ひょっとすると身体まで、みんなが欲しがると聞かされた。あなたたちには、ロゴのない飛行機、黒い電話、エリゼ宮の顧問、閉鎖された格納庫、あらゆるものに与える言葉がある。私には何があるの?」
彼女はホワイトボードを指した。
「マーカーで書いた言葉だけ」
誰も答えなかった。
リーズは続けた。
「なら、何かを作るというなら、少なくともひとつだけは止められるようにして。私にも理解できないものを、あまりに早く、ほかの人を怖がらせる道具に変えること」
セギュールが言った。
「世界は、あなたを待ってから危険になるわけではありません」
「よくわかる。あなたたちに会ったから」
タルデューが今度こそ、本当に笑いかけた。
セギュールは笑わなかった。
有用な情報を受け止めるように、その言葉を受け止めた。
「専用会社を作っても、あなたが主権者になるわけではありません、ヴァレンヌさん」
「主権者になりたいなんて言ってない」
「いいえ。完全にも明確にもではありませんが、あなたはもう少しだけ、それを求めています」
その言葉は奇妙な遅さで部屋を巡った。
主権者。
彼女には大きすぎる言葉だった。ほとんど滑稽なほどに。それでも恐怖より深い何かに触れた。支配したいのではない。ほかの者たちが旗を立てに来る領土にすぎない自分には、なりたくなかった。
「没収されたくないだけ」と彼女は言った。
セギュールはうなずいた。
「そのほうが、いい表現です」
頼まれもしないのに、マッソンがそれを別に書いた。
「現象を保護することで、人間を没収してはならない」
リーズは読んだ。
言葉の美しさを警戒した。
この部屋では、美しい文句が三色旗のリボンを結んだ首輪になりかねない。
支えられるもの
午後遅くには、四ページの文書がテーブルに置かれていた。
本当の契約ではない、とマッソンは念を押した。
即時の約束を記録したもの。協議の土台。保全のための文書。呼び名はすでに重くなりすぎていた。その言葉をめぐり、彼らがドアノブを奪い合うように争うのをリーズは見た。
文書は、いくつかの堤防だけで成り立っていた。ブレストに滞在するのは四十八時間。それ以上は、書面による再検討なしには延長しない。毎晩マリアンヌと話す。彼女自身の弁護士をつける。ただし、その弁護士を機密の内側へ入れる必要がある。黒い手帳の複製は、彼女の立ち会いのもとで行う。睡眠を強制しない。技術的好奇心を装った防衛試験は行わない。アンドレ・ヴァレンヌのアパルトマンは閉鎖し、資料の名のもとに一片ずつ呑み込まない。
リーズは一行ずつ読んだ。
何度も。
三つの言葉を直した。
マッソンが、そのうちひとつを拒んだ。
リーズは、彼の拒絶を拒んだ。
セギュールが裁定した。
タルデューが技術上の表現をひとつ変更させた。ソレルは「被験者」という言葉を消し、「人間」と書き換えた。ルセルフは、県庁めいた匂いのする情報拡散制限を二つ加えた。だが同時にそれは、性急な好奇心から案件を守るものでもあった。
ドロネーは、手帳引き渡しの立会人として署名した。
短い署名だった。
ほとんど無愛想なほどに。
彼が文書をリーズのほうへ押したとき、右手の親指に小さな切り傷があるのが見えた。袋で切ったのか、扉で切ったのか、何でもないことで切ったのか、わからなかった。その細部のせいで、彼は突然、人間の側へ引き戻された。リーズはそのことを恨んだ。
「なぜ昨日、取り上げなかったの?」と彼女は尋ねた。
部屋の時間が遅くなった。
ドロネーはすぐに理解した。
手帳。
上着の下へ入れた動作。
彼が見た、あの一秒。
セギュールを見ずに答えた。
「まだ、誰に渡せばいいのかわからなかったからです」
言い訳でも忠誠でもなかった。安全確保のための常套句かもしれない。だが、それだけでもなかった。
リーズは、その言葉を取っておいた。
どこへしまえばいいかは、まだわからなかった。
マッソンがペンを差し出した。
「留保事項を付記して署名できます」
「何と書けば?」
「読める字なら、何でも」
リーズは短く笑った。
「本当に?」
「いいえ」
彼女は自分の名前を書いた。
その下に、こう添えた。
「全面的には信頼せずに読了。より悪い事態を防ぐため受諾」
マッソンは付記を見た。
「通常の書き方ではありません」
「私も通常じゃない」
セギュールが文書を取った。
付記も含め、最後まで読んだ。
「結構です」
その言葉に苛立つべきか、安心すべきか、リーズにはわからなかった。
黒い手帳は返された。だが自由にでも、本当の意味ででもなかった。
封筒に封印され、さらにポーチに収められた。翌日の立会い複製まで、ソレルとドロネーの共同管理下で、リーズが携行する。行政の不条理。小さな堤防。
それでもリーズは、胸にしっかり抱いた。
18号室へ連れ戻された。
廊下は前日と同じだった。だがリーズの歩き方は、もうまったく同じではなかった。自由でも、保護されても、まして新しい言葉がいうような共同者でもない。
ただ、檻がさらに閉じる前に、自分の名前を刻ませただけだった。
部屋の扉の前で、ソレルが足を止めた。
「時間を稼ぎましたね」
「昨日あなたが言ったでしょう。彼らも、時間を稼ぎたがっているって」
「違います。彼らが欲しかったのは、あなたに対して時間を稼ぐこと。今回は、あなたが自分のための時間を少し稼いだ」
リーズは扉を開けた。
ベッドは整え直されていた。
机も片づいていた。
公式のノートは新品に交換されていた。同じものだが、さらに厚い。
最初のページには、誰かがすでにラベルを貼っていた。
「夜間所見――ヴァレンヌ――2」
その隣に、黒い手帳の入ったポーチを置いた。
二冊のノート。
一冊は彼らのもの。
もう一冊も、完全に自分のものではない。
携帯電話は、まだ戻っていなかった。
だが机には、署名済み文書の写し、水差し、それに白紙が一枚あった。マッソンの筆跡で、三語だけ書かれていた。
「専用組織――仮説」
リーズは長いあいだ立ったままでいた。
署名したとき、何かを封じ込められたと思っていた。現象でも、国家でも、この言葉に意味があるなら歴史でもない。おそらく、その速度を。
わずかなものだった。
それでも、すでに分不相応な望みだった。
開きを制限された窓の向こうで、停泊地が夕暮れへ沈んでいた。水上に灯火がともる。暗い巨体が、二つの埠頭のあいだをゆっくりと進んでいた。周囲を曳船に囲まれ、どれも古い法則に忠実だった。
リーズは宙に浮いたバラストを思った。
曲線を。
ホワイトボードを。
不器用なやり方であろうと迎えに来るマリアンヌを。
それから、紙のそばに置かれた黒いマーカーを取り、「仮説」に線を引いた。
その上に書いた。
「限界」
その言葉は、ほとんど何も支えていなかった。
だがその夜、それだけがまだ、土台に似ていた。
第10章 最初の逸脱
夜を打ったもの
夜は、リーズの覚悟が決まるのを待ってはくれなかった。
夜も更けてなお、彼女は十八号室の机に靴下のまま座っていた。左に署名済みの文書、右に公式のノート、そのあいだには、置き場所を間違えて正しい場所に置かれてしまった罪のように、黒い手帳があった。
マリアンヌに電話をかけた。
三分二十秒。それ以上は一秒もなかった。
マリアンヌは、どこにいるのかとは訊かなかった。ジャンヌがこんなことは断じて許せないと言っていること、憲兵隊の番号を調べ、それから家庭内の脅しのように電話のそばへ置いたこと、不動産屋など当分くそくらえだということだけを話した。
「アパルトマンは逃げないから」
リーズは、ありがとう、と答えた。
ひどく小さな言葉に聞こえた。
いま、部屋は静まり返っていた。
公式ノートの新しいページに、彼女はこう書いていた。
「限界を設定。」
そのあとには、何もない。
一日を順に書き留めようとはした。重し。黒い手帳。マリアンヌの指摘。ホワイトボード。専用法人。留保つきの署名。だがどの一行も、この世に存在する前に行政の許可を求めているように見えた。
そこで彼女は黒い手帳を開いた。
たったいま署名した文書を裏切るためではない。
自分のなかに、まだ誰にも表の一列にされていない部分が残っているか、確かめるためだった。
朝の言葉を読み返した。
「誰が担うのかわからないなら、渡さない。」
その二ページ先には、彼女が見せていない古い図があった。横たわる細長い形を、三本の赤い線が横切っている。いつ描いたのか、もう覚えていなかった。一か月前かもしれない。あの鋳鉄塊より前だったかもしれない。ページの隅にはこう記してあった。
「持ち上げるんじゃない。殺させない。」
寒気がした。
意味のせいではない。日付のせいだった。
二月の、なんでもない火曜日。朝、コーヒーより前、第十四作業台より前、何もかもが始まる前の日付が記されていた。片頭痛を抱え、灰色のどこかに金属部品が挟まっている夢を見たような気がしながら、仕事へ出たはずの日だった。
午前零時を回ってから、手帳を閉じた。
眠りは不意に訪れた。落下のようにではなく、スイッチに置かれた手のように。
気づくと格納庫にいた。だが朝の格納庫ではなかった。床はもっと暗く、岸壁側の扉が開いていた。冷えた焦げ臭さと、削り落とされた塗料の匂いがした。中央にあるのは重しではなく、斜めに横たわる長い塊だった。自分自身をもはや信じていないケーブルに、辛うじて支えられていた。
誰かが金属を叩く音がした。
強くはない。
三回。
それから沈黙。
夢のなかで、持ち上げてはいけないのだとわかっていた。
本当に持ち上げてしまえば、塊はすべてを巻き添えにする。
そのままなら、下にいる誰かの空気が尽きる。
重さから、仕事を終わらせようとする意志だけを奪わなければならなかった。
左側に一本の線が開いた。
水のほうではない。
赤い扉へ向かって。
理解するより早く、目が覚めた。
扉を短く叩く音が二回。
そして三回目。
同じ間隔だった。
リーズは、廊下からソレルの声がしたときにはもう立ち上がっていた。
「ヴァレンヌさん?」
返事をせずに扉を開けた。
ソレルは昨夜と同じ上着を、掛け違えて着ていた。その後ろにはドロネーがいた。暗い色のセーター姿で、イヤホンを手にし、いつも以上に表情を閉ざしている。
「事故が起きました」
部屋が狭くなった。
「どこで?」
「軍港の技術区域です」
「負傷者は?」
ソレルは、メモを確かめるふりさえしなかった。
「男性二名が挟まれています。三人目は搬送されました。通常の救助手段では、圧壊を悪化させる危険があるため近づけません」
リーズは机の上の黒い手帳を見た。
それから、公式ノートのページを。
限界。
「どんな質量ですか?」
ドロネーが答えた。
「運搬用架台です。海軍設備。機密性の高いものです」
その言葉は何も語らないからこそ、すべてを語っていた。
リーズは即座に、ほとんど健全なほどの怒りを覚えた。
「嫌です」
ソレルは退かなかった。
「まだ誰も、承諾してくださいとは言っていません」
「真夜中にドロネーを連れて私の部屋まで来て、『機密性が高い』なんて言っておいて。儀礼で時間を無駄にしないでください」
ドロネーが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
ソレルはゆっくり息をした。
「装置が役に立つか、問い合わせがあったんです」
「誰から?」
「現場の救難系統から。そのあとセギュール。次にヴォークレール」
「その順番で?」
「いいえ」
その正直さは、何の救いにもならなかった。
リーズは机の上の署名済み文書を手に取った。
「これは防衛試験です」
「防衛施設内での救助です」とドロネーが言った。
隙のない言い回しだった。隙がなさすぎた。
どこかの誰かが、こじ開けたように見せずに扉を開くため、すでに使ったことのある言葉だった。
リーズは彼を見た。
「違いが聞こえますか?」
「はい」
「自分でも信じてる?」
彼は視線を外さなかった。
「二人の男が塊の下にいます。その違いが私たちほど彼らの関心を引くとは思えません」
もっと嘘くさい答えならよかった。そうすれば、ひと息に拒めたのに。
ソレルは、急ごしらえで印刷された資料を机に置いた。ぼやけた写真。図面。推定荷重。重機進入禁止区域。側方変形。転倒の危険。本文の下には、一行だけ手書きで加えられていた。
「ヴァレンヌの承認が必要?」
その疑問符は、ほかの何よりも大きな権力を持っていた。
リーズは訊いた。
「二人は呼吸してる?」
「いまのところは」
「どれくらい経った?」
「二十六分です」
「危険な状態になるまで、あとどれくらい?」
ソレルは目を伏せた。
「わかりません」
リーズは笑った。喜びなどなかった。
「わからないときにかぎって、見事な文章が書けるんですね」
黒い手帳を取り、二月のページを開いて、ソレルに向けた。
ソレルは読んだ。
表情は変わらなかった。
ほかの者にわかるほどには。
だがリーズには見えた。
「これを夢に?」
「前に」
「何より前です?」
「あなたたちにとって、これが存在する前」
ドロネーが一歩近づいた。
「このページは照合用の複製に入っていますか?」
「いいえ」
「なぜ?」
「まだ起きていないから」
一秒間、誰も何も言わなかった。
やがてソレルが訊いた。
「何をすればいいですか?」
リーズはぼやけた写真を見た。
金属の下にいる二人のこと、息のこと、断ったなら明日どんな言葉が口にされるか、承諾したなら明日どんな言葉が口にされるかを考えた。
自分が署名した内容を思った。
「ヴァレンヌ氏の事前承認を要する。」
承認。
つまり承認とは、真夜中、二人の命をその構文の下に挟んだまま、部屋まで取りに来られると、こんな姿になるのだ。
「行きます」
ねじ曲げられた条項
すぐには岸壁へ連れていかれなかった。
まず、窓のない部屋へ案内された。
セギュールはすでにいた。ルセルフもいた。髪を昨夜よりきつく結んでいる。マッソンは上着を閉じながら入ってきた。小脇にノートを抱え、出来の悪い文章に短すぎる眠りから引きずり出された男の顔をしていた。壁面画面にヴォークレールの姿はない。電話でつながっていた。声だけになると、顔がないぶん硬く聞こえた。
「議論を尽くしている時間はありません」
リーズは立ったままだった。
「便利ですね」
セギュールが電話に向かって片手を上げた。
リーズを黙らせるためではない。
ヴォークレールが性急に答えるのを制するためだった。
「条件を整理しましょう」
マッソンがノートを開いた。
「零時四十一分、運搬事故発生。基地職員二名が重量二十二トンの技術架台の下敷き。荷重の一部は二次構造物にかかっている。通常の揚重手段には剪断の危険あり。見かけの支持力を変化させることによる例外的支援を要請。目的は緊急救助に限定する」
「よくできましたね」とリーズは言った。
マッソンの手が止まった。
「何がです?」
「軍事という言葉を一度も書かずに済ませた」
ルセルフが答えた。
「現場は軍事施設です。機材も軍用です。目下の目的は救助です」
「明日は?」
「明日のことは議題になっていません」
「だからですよ」
ソレルも入ってきた。架台の写真と、柔らかな封筒に入れた黒い手帳を持っている。ヴォークレールには目を向けず、リーズに話しかけた。
「技術的には何も保証できません。格納庫の装置は二十二トン用に設計されていない。この手帳のページがあの架台を指すのかもわからない。場所に意味があるのか、赤い扉に意味があるのか、夢だけで足りるのか、準備なしで質量が応答するのかもわからない。効果が強く出すぎた場合に何が起きるかも不明です」
「そう。それが誠実な頼み方です」
電話からヴォークレールの声がした。
「ヴァレンヌさん、存在しない法的純潔を私たちが探しているあいだにも、二人の男が死ぬおそれがあるのです」
言葉が狙いどおりの場所へ届くのを感じた。
理屈ではない。腹へ。
彼も巧みだった。
危険なほどに。
「あの人たちを、そんなふうに使わないで」
「現にそこにいるから使うのです」
「違う。二人の切迫を利用して、最初の事例を据えようとしてる」
研ぎ澄まされた沈黙が落ちた。
正しいことを早すぎるほど正確に言われたかのように、セギュールが一瞬目を閉じた。
ヴォークレールが答えた。
「両方とも真実でしょう」
リーズには返す言葉が見つからなかった。
それこそが最悪だった。
単純な怪物なら、この部屋で二分ともたなかっただろう。ここにいる者たちは、自分たちの権力に役立つ瞬間を選んで、真実を語る術を知っていた。
マッソンが一枚の紙を差し出した。
「同意の記載が必要です」
「小切手みたいに署名はしません」
「では、口述を」
リーズは彼を見た。
もうペンを構えていた。
リーズはゆっくりと言った。
「『一時十八分までに伝達された情報に基づき、緊急救助のみを目的とする例外的介入を承認する。本承認は、軍事利用の容認、反復への同意、前日に署名した条件の放棄のいずれをも意味しない』」
マッソンが書いた。
それから付け加えた。
「『介入後、記録を当事者双方で検証することを条件とする』」
「ええ」
ソレルが言った。
「こう加えてください。『現象が人員救出に必要な閾値を超えた場合、直ちに停止する』」
マッソンは書き留めた。
ルセルフが訊いた。
「閾値は誰が判断するのです?」
ソレルが答えた。
「物理面は私。被災者への接近は救助隊。現象をどう感じるかはヴァレンヌさん」
スピーカーから、ヴォークレールの短い吐息が聞こえた。
「それは閾値ではない。合議体です」
セギュールが言った。
「いまは、それしかありません」
リーズはペンを取った。
思ったほど手は震えていなかった。
署名した。
そして自分の名の下に書いた。
「下にいる人たちのために署名する。機材のためではない。」
マッソンは読んだ。
何も言わなかった。
セギュールが紙を取り、ルセルフに渡した。
「行きましょう」
この言葉だけは、ほかの言葉と違って自分を守ろうとしなかった。
赤い架台
岸壁は、ほかの夜よりも濃い夜から切り出されたようだった。
白い投光器。濡れた地面。反射ベスト。斜めに停められた車両。規制テープ。低い声が高まり、すぐにまた落ちる。その先の泊地は黒く、灯りもほとんどなかった。風が運んでくるのは、熱い金属と泥と、焼けた絶縁材の匂いだった。
リーズは塊より先に、赤い扉を見た。
岸壁に開いた格納庫の奥にある、大きな防火扉。塩気に褪せた赤で塗られている。夢のなかでも、これ以上鮮明ではなかった。赤く、閉じられ、命令のようにそこにある。
それから架台を見た。
二十二トン、とマッソンは言った。
数字だけでは足りなかった。
塊は潰れた台車の上に斜めに横たわっていた。名を明かされない海軍設備を支えるための、細長く補強された構造体だった。一部はまだ支持部に載っている。もう一方は技術区画の隔壁へ倒れかかり、保守用通路を床に押しつけていた。ケーブルが掛けられ、掛け直され、見捨てられている。移動式クレーンは外で待っていた。役に立たない。高すぎ、遅すぎ、危険すぎた。
叩く音が聞こえた。
三回。
それから何もない。
濃色の作業服を着た士官が近づいてきた。
セギュールには敬礼したが、リーズにはしなかった。
セギュールは最後までさせてから言った。
「ヴァレンヌさんに関わる部分は、本人が指揮します」
士官はリーズを見た。
納得のゆく説明を彼にする時間が誰にもなかったのだと、理解するには充分な視線だった。
「マレスコ大尉です。職員二名が通路の下に挟まれています。一名は意識あり。もう一名は断続的。状態が悪化すると見込まれるまで三十分。もっと短いかもしれません」
リーズは訊いた。
「何を持ち上げたいんです?」
彼は架台を指した。
「左舷側の荷重を八から十センチ受け直せれば、これ以上潰さずに通路を切断できます」
ソレルが訂正した。
「持ち上げるのではありません。支持部の一部を軽くできるか試します」
大尉は塊へちらりと目をやった。
「呼び方は好きにしてください。私に必要なのは、世界が八センチ減ることです」
リーズは名前を訊きかけた。
訊かなかった。
知れば、その二人のことしか考えられなくなる。知らないままでいるなら、自分は卑怯だ。やはり両方とも真実だった。
タルデューはすでに装置のプレートのそばにいた。装置は透明なケースに入れて運び込まれ、より重い支持台に固定されている。二系統の電源と、ソレルが手の届く場所に置いた停止ボックスがついていた。こんな用途のためのものではない。実験室の証拠を救助器具として使おうとしているのだと、設営されたすべてのものが叫んでいた。
黒い手帳は、リーズの脇に押しつけたポーチの中にあった。
二月のページを開いた。
横たわる形、三本の赤い線。「持ち上げるんじゃない。殺させない。」
架台を見た。
三本の線があった。
塗料ではない。構造のなかに。金属の外板の下を縦に走る三本のリブ、三本の補強材が、斜めから光を浴びているためにだけ見えていた。
リーズの喉が締まった。
「動くおそれのある部分の下には、誰も入れないで」
マレスコが答えた。
「救出したい二人は、もうそこにいます」
「ほかの人たちのことです」
彼は振り返った。
「全員、黄色線の後ろへ退避」
救助隊員が後退した。ソレルには遅すぎたらしく、さらに下がらせた。タルデューは側方支持部にセンサーを二個追加するよう求めた。技術員が異議を唱えた。彼女が一秒見つめると、従った。
リーズは架台に向かって立った。
赤い扉の正面ではない。
そこから左へ三メートル。
「装置はここに」
ソレルが確かめた。
「ここでは転倒点に近すぎます」
「見ました」
「だから置く理由にはなりません」
「ええ。ろくでもない理由です。でも、ほかにはない」
ソレルは奥歯を噛み締めた。
反対はしなかった。
プレートが据えられた。支持台に楔が打たれた。ケーブルが延ばされた。間に合わせの机の上で、収録装置のケースが開かれた。数字が列をなして動きはじめた。
主支持部荷重。
二次支持部荷重。
隔壁変形。
角度。
振動。
セギュールはルセルフと後方にいた。ヴォークレールの姿はない。だがリーズにはわかっていた。どこかの通信回線に、執務室に、待ち構える文言のなかに、彼はいる。
ドロネーは黄色線のそばに立っていた。
塊よりも、その周囲にいる人間を見ていた。
それが彼の仕事だった。
リーズはありがたく思った。
「ヴァレンヌさん?」とソレルが促した。
リーズは手を上げた。
「待って」
目を閉じた。
夢は映像のようには戻らなかった。ある形の圧力と、拒絶だけがあった。持ち上げるな。重さに勝とうとするな。下にいる男たちが、運び出せる身体へ戻る時間を得る、そのぶんだけ確信を奪え。
目を開けた。
「本格的に効く前に切らないと」
タルデューが青ざめた。
「どういう意味です?」
「上がりはじめたら止める。もっと良くしようとしない」
マレスコが言った。
「八センチ必要です」
「三センチしか得られないかもしれません」
「三センチでは足りない」
「保てる三センチなら、足りるかも」
ソレルはマレスコを見た。
「低空間救出を準備してください」
「その手順ではなかった」
「いまから、この手順です」
彼はごく低く悪態をついた。
それから命令を出した。
リーズは停止ボックスに手を置いた。
指揮するためではない。
まだ何かを阻めるのだと、思い出すために。
「起動」とソレルが言った。
数字は変わらなかった。
22.4。
22.3。
何もない。
風が、格納庫の縁の下から細い雨を吹き込んだ。
救助隊員が無線で何かを言った。
22.1。
21.8。
リーズは画面より先に変化を感じた。
塊ではなく、人間に。
沈黙が固く絞られた。肩の動きが止まった。岸壁を包む夜そのものが、自らの機械仕掛けを止めたようだった。
20.6。
隔壁がきしんだ。
「停止?」とタルデューが訊いた。
「まだ」とリーズは答えた。
18.9。
たるんでいたケーブルの一本が、床の上を一センチ滑った。
「救出準備は?」とソレル。
「完了」とマレスコ。
17.2。
架台は浮かなかった。
支え方が変わった。
押し潰された通路が、細い音を返した。下で誰かが叫んだ。痛みだけの声ではない。戻ってきた空気の叫びだった。
「いま」とソレルが言った。
二人の救助隊員が床すれすれに潜り込んだ。
リーズは目を逸らしたかった。
できなかった。
16.8。
16.7。
現象は、張りつめすぎた糸のように保たれていた。
安定はしていない。
だが、足りていた。
四十秒後、一人目が引き出された。割れたヘルメット、灰色の顔、開いた目。区域の外へ引き出された途端、咳をした。その音は理不尽なほどの激しさで、リーズを貫いた。咳をする身体。それがつまり、条項と過ちを分けるものなのだ。
「二人目」とマレスコが言った。
塊が震えた。
ソレルが停止ボックスへ手を上げた。
「崩れます」
「まだ」とリーズは言った。
その確信がどこから来るのか、わからなかった。
持たずに済めばよかった。
15.9。
それから21。
一気に。
「戻ってる」とタルデュー。
「見えてます」
二人目が出てこない。
救助隊員が叫んだ。
「ブーツが挟まってる!」
マレスコが黄色線を越えようと一歩出た。
ドロネーが腕をつかんで止めた。
手荒ではない。
だが充分に。
全員が、声にせず、もう少し保てと自分に求めているのをリーズは感じた。
思った。これだ。
これが本当の罠なのだ。強制されることではない。求める側が正しいこと。
脇に開いたままの黒い手帳へ目を落とした。
三本の赤い線。
持ち上げるな。
殺させるな。
その動作が自分の恐怖以外の何かを変えられるかのように、停止ボックスを指一本ぶんずらした。
「開口部を赤い扉へ向けて」
ソレルは真っ青になった。
「起動中に?」
「そう」
「駄目です」
「じゃあ止めて。そうしたら、あの人は死ぬかもしれない」
おぞましい答えだった。
そして真実だった。
ソレルは丸一秒、リーズを憎んだ。
それから叫んだ。
「微小回転、扉側へ二度。ゆっくり!」
震えるはずのない手を、それでも震わせながら、技術員が従った。
21。
19。
14。
架台は戻るのをやめた。
それ以上でも、それ以下でもない。ただ、足りた。
通路の下の救助隊員が引いた。別の隊員が何かを切った。ブーツだけが残った。身体が出た。
二人目は咳をしなかった。
あまりに急いで運ばれていった。
ソレルが言うより早く、リーズは停止を押した。
架台に荷重が戻った。
衝撃は、何よりも重かった。
二次構造物が、終わりの音を立てて潰れた。
あの下では、誰ひとり生き残れなかっただろう。
誰も口にはしなかった。
聞こえるのは、無線、雨、医療班の指示、そして何度も繰り返すマレスコの声だけだった。
「区域退避完了。区域退避完了」
リーズは停止ボックスから手を離した。
手のひらに、プラスチックの角の跡がついていた。
ソレルは止まった数字を見つめた。
タルデューはリーズを見ていた。
セギュールだけは、すでに別のものを見ていた。
冷酷だからではない。
職務ゆえに。
彼が見ていたのは、先例が生まれる瞬間だった。
成功
一人目の男はル・ビアンといった。
二人目はケルブラ。
介入から二十分後、基地医療部の廊下で、看護師から名前を聞いた。その看護師は、リーズが担うものをこれ以上増やさないほうがよかったとは知らなかった。
ル・ビアンは自発呼吸をしていた。
ケルブラは挿管されていた。
生きている。
その言葉は何度か行き来してから、ようやく居場所を得た。
生きている。無傷でも、厳密な意味で助かったのでもない。それでも生きている。
リーズは廊下の椅子に座った。
脚が折れたわけではない。彼女と話し合うことを、ただ諦めただけだった。靴にはコンクリートの粉と黒い水、扉かケーブルから剥がれたらしい赤い繊維がついていた。
ソレルは壁にもたれて立っていた。
タルデューは技術員二人と小声で話している。ドロネーはそうと気づかせずに、廊下の入口を塞いでいた。ルセルフはもう介入記録を回収している。マッソンはタブレットに書き込んでいた。急いで送られ、整えられて戻ってこなければならない文章があった。
セギュールがリーズの隣に座った。近すぎない。適切な距離を空けて。
二時間前より老けて見えた。
「あなたは二人の命を救いました」
リーズは自分の手を見た。
「違います」
「違う?」
「運び出す手助けをしただけ。救ったのは、ほかの人たちです」
彼は訂正を受け入れた。
「わかりました」
沈黙。
それから彼は言った。
「私たちが、もっと大きな過ちを犯すのも防いだ」
リーズは彼を振り向いた。
「どんな?」
「持ち上げようとすることです」
架台を、最後の音を、二人目の身体が出たあと閉じた通路を思い返した。
「やったと思います?」
セギュールは答えるまでに時間をかけすぎた。
「誰かが提案したでしょう」
「ヴォークレール?」
「そうとは限らない」
「優しい答えですね」
「正確な答えです」
リーズは目を閉じた。
扉の向こうで、誰かが神経質に笑った。短すぎる笑いは、ほとんど即座に真面目さへ回収された。世界はもう、たったいま目にしたものから自分を守り直していた。
ソレルが二人の前に来た。
「ここで止めるべきです」
セギュールは彼女を見上げた。
「今夜もう一度やろうという者はいません」
「問題は今夜ではありません」
「まさに、それが怖い」
「いいえ、そうは思いません。一時間後には、『例外的介入により救助に成功』と書かれた報告書ができる。二時間後には、同じ手順で車両を撤去できないかと誰かが訊く。三時間後には、海上の構造物を安定させられないかと。明日には、もっと強くできないか。もっと確実に。ヴァレンヌさんからもっと離れて。そして、その全員に正当な理由がある」
セギュールは立ち上がった。
「ずいぶん無責任な人間だと思われているようだ」
「あなたではなく、行政を信用しているんです」
言葉は急所に当たった。
ドロネーさえ、わずかに顔を向けた。
セギュールはすぐには答えなかった。
「あなたの言うとおりです」
ようやくそう言った。
勝ちを得たときよりも、その言葉を聞いたときのほうが、ソレルは不安そうに見えた。
マッソンが文面を持ってきた。
「送付前に、統一された表現が必要です」
リーズは笑いそうになった。
「もう?」
「もう、だからです」
彼は読み上げた。
「『救助を目的とする部分的荷重軽減の例外的介入。ヴァレンヌ氏の明示的同意のもとで実施。先に署名された当面の条件に影響を及ぼさない』」
「駄目」とリーズは言った。
マッソンは驮かなかった。
「どこがです?」
「『部分的荷重軽減』だときれいすぎる。上司向けには好きなように書けばいい。でも私の控えには、『最初の逸脱』と書いて」
入ってきたばかりのルセルフが足を止めた。
「行政上の分類にはなりません」
「だから役に立つんです」
セギュールはマッソンを見た。
「二つ作ってください」
「公式版とヴァレンヌ版を?」
「送付可能な版と、完全版です」
リーズは、完全という言葉が気に入らなかった。
だがセギュールが、記録のなかに彼女の言葉のための小さな場所を作ったのだとはわかった。
ほんのわずかだ。
国家がやがて壁にも落とし戸にも変えられる種類の、ほんのわずかな場所。
廊下の端にマレスコが現れた。
ヘルメットを脱いでいる。雨に濡れた髪が貼りついていた。リーズの前で止まり、握手すべきかわからずにいた。
手は出さなかった。
「ありがとう」
短い一言。
演説もない。
リーズは答えた。
「二人は生きてる?」
「はい」
「なら、その言葉は二人のために取っておいて」
マレスコはうなずいた。
それからためらって、付け加えた。
「あなたがあそこでやったこと……これが、ある作戦地域にあったなら……」
ソレルが目を閉じた。
タルデューは動きを止めた。
セギュールは微動だにしなかった。
濡れた靴を履いた軍事教義が、廊下へ入ってくるのをリーズは感じた。
マレスコは言葉を切った。
ほかの者たちがもっと巧みに、もっと早く、もっと危険に口にすることを、自分はいま声に出したのだと理解した。
「すみません」
その謝罪は、リーズだけに向けられたものではなかった。
未来に向けられていた。
先例
夜が明ける前に、リーズは十八号室へ戻っていた。
電話を返された。自由にではない。十分間だけ。
予定どおり、声のない監視つきだった。ドロネーは半開きの扉の向こう、廊下にいる。リーズは気にしなかった。完璧なプライバシーを守る力はもうほとんど残っておらず、与えられたぶんを受け取る程度の明晰さは残っていた。
マリアンヌは、血の気のない声で電話に出た。
「今夜かけるって言ってたでしょう」
「手が離せなかった」
「もうすぐ四時よ」
「うん」
沈黙。
「泣いてる?」
リーズは自分の顔に触れた。乾いていた。
「泣いてない」
「じゃあ、あなたの『あと』の声だ」
「何のあと?」
「わからない。それが怖いの」
リーズはベッドの端に座った。
机では公式ノートが開かれていた。夜のページには、誰かがもうラベルを貼っていた。
「例外的介入――技術岸壁。」
文字が目に入らないよう、裏返した。
「二人の男が生きてる」
マリアンヌはすぐには答えなかった。
次に聞こえた声は低くなっていた。
「あなたのおかげで?」
リーズは目を閉じた。
「じきに、私のせいにもなる」
「どういう意味?」
「またやりたがるってこと」
「誰が?」
リーズは半開きの扉を見た。
ドロネーは動かなかった。
「正当な理由を持つ人、全員」
マリアンヌがゆっくり息を吐いた。
「いつ帰れる?」
「わからない」
「なら、これが何を意味するか、ほかの人に決めさせないで」
その言葉の明晰さに、小さな笑いがこぼれた。本当の笑いに近かった。
「偉そうになったね」
「遅すぎたくらい」
マリアンヌは続けた。
「母さんはうちで寝てる。アパルトマンは戸締まりした。鍵も私が持ってる。不動産屋は最低だったから、私のほうがさらに最低になってやった」
「ありがとう」
「礼はいらない。帰ってきて」
リーズは裏返した紙を見た。
「努力してる」
「違う。いまのあなたは交渉してる。同じじゃない」
ドロネーが、そっと戸口の枠を叩いた。
時間だ。
「切らなきゃ」
「リーズ?」
「うん」
「あの人たちの緊急事態にならないで」
何も答えられなかった。
マリアンヌはリーズより先に電話を切った。二人の会話の最後の音を、国家に渡すまいとするかのように。
リーズは電話をドロネーに返した。
彼は何も言わずに受け取った。
それから言った。
「彼女が正しい」
「聞いてたの?」
「そこにいました」
「答えになってない」
「ええ」
電話をポーチにしまった。
「きれいな答えには向かない夜です」
リーズは彼を見た。
親指には、まだ小さな切り傷があった。
「今夜のこと、どう思ってる?」
ドロネーは答えるまで時間を置いた。
「二人の男が出てきたと思っています」
「ほかは?」
「ほかのことは、もう組織されはじめている」
彼は扉を閉めた。
完全には閉めなかった。
部屋には、柔らかすぎる照明、整え直されたベッド、片づいた机が戻ってきた。何も変わっていない。行政施設が好む嘘だった。どれほどの暴力のあとでも、同じ姿へ戻る。
リーズは机の紙を手に取った。
「例外的介入――技術岸壁。」
黒いペンを取った。
例外的に線を引いた。
その上に書いた。
「最初の。」
言葉は、それだけで立っていた。
しばらくすると、誰かが扉の下から封筒を滑り込ませた。
リーズは拾った。
完全版報告書の写し。三ページ。上には配布制限の表示。下には、セギュール、マッソン、ソレル、マレスコ、リーズの署名。彼女の署名はすでにスキャンされていた。
そして二ページ目に、署名したときには見ていない一文があった。
「介入条件は、死活的利益の保全状況における例外的運用枠組みの策定基盤として利用しうる。」
読み返した。
一度。
二度。
運用が救助に取って代わっていた。
枠組みが逸脱に取って代わっていた。
死活的という言葉は、一国まるごと通せるほど大きな扉を開いた。
リーズは部屋の中央に立ち尽くした。
驚いてはいなかった。
それが何よりも恐ろしかった。
報告書を黒い手帳の横に置き、公式ノートを裏返したページで開いた。
「最初の。」の下に書き加えた。
「もう私から学びはじめている。」
それから、私からを消した。
こう書き直した。
「私に抗うために。」
廊下は静かだった。
外の泊地には、まだ朝が来ていなかった。
基地のどこかで、限界がひとつ折れたおかげで、二人の男が呼吸している。
また別のどこかでは、なぜ彼女がもう一度折れるべきなのかを説明する文書が、すでに動きはじめていた。
第11章 死んだ複製
汚れのない手
翌朝、彼らはリーズ抜きでやろうとした。
そう口にしないだけの配慮はあった。
マッソンが部屋に置いていった印刷済みの日程表には、こう書かれていた。
「物質的再現の比較試験。」
リーズは二度読んでから、ようやく意味を理解した。つまり、あなたのすることを複製してみる。あなたの存在など、費用のかかる迷信にすぎないことを願いながら。
すぐには抗議しなかった。
赤い架台の夜が残した疲労は、身体の底へ沈もうとしなかった。一時間半は眠っただろうか。残りの時間は、換気装置の音、廊下の足音、事故のあと平常のリズムを取り戻してゆく基地の物音を聞いていた。朝にはコーヒーと、アセトアミノフェンの錠剤が二つ運ばれてきた。看護師が目と血圧と応答を確認しに来た。ソレルもついてきた。
「私はあなたの医師ではありません」と彼女は言った。
「じゃあ、何なんです?」
ソレルは夜間記録を見た。
「今日は、歯止めでいたいと思っています」
リーズは、その言葉を気に入った。
安心するほどではなかった。
まだ見たことのない建物へ連れていかれた。ほかより低く、泊地は見えない。灰色の廊下、番号のついた扉、早すぎる時間に洗われた床の匂い。部屋のプレートには、コードだけがあった。B2-17。
中では、世界が映画ではない本物の研究室の顔をしていた。高価で、冷たく、人を感心させるつもりのない機械で込み合った仕事場。光学台、測定ボックス、背の低い恒温槽、秤、施錠された保管棚、外部から隔離されたコンピューター、白い照明。中央では透明な覆いの下に、三つの装置が並んでいた。
名を告げられる前に、リーズにはわかった。
生きているもの。
死んだもの。
そして三つ目。
三つ目は新品だった。
新品すぎた。
同じ形、同じ環、同じ籠、同じ中央の空隙。だがその稜線の鮮明さは、第十四工場棟の廃材には属さない。傷も、埃も、古い油もない。清潔な手で、清潔な機械を使って作られた複製。きちんと作り直した物はいずれ従うと、ずっと昔から信じてきた国で。
タルデューはもう来ていた。
セギュールも。
マッソン、ルセルフ、ソレル、紹介されたものの名前を覚えられなかった技術員二人。それに初めて見る若い男。短い髭に白衣。中立に聞かせようと努めているパリ地方の訛り。
「サミュエル・ブレッソン。計測と精密製造の担当です」とタルデューが紹介した。
ブレッソンはリーズにうなずいた。
「ヴァレンヌさん」
その目にあるのは気遣わしげな礼儀だった。彼女に対してというより、自分が作った物に対する。
画面には三つのモデルが開かれていた。表面曲線。寸法測定値。点群。リーズの形は技術画像になり、鮮明に、拡大可能になり、それを夢に見たことのない指で空間のなかを回されていた。
ほとんど身体的な苛立ちを覚えた。
嫉妬ではない。もっと低い場所にある感情だった。
彼女の夜には決してなかった明瞭さを、彼らは与えていた。
タルデューが説明を始めた。
「反応装置と不活性装置をスキャンしました。複製C1は、ここで利用可能な設備によって達成できる最小公差で、反応装置の寸法を再現しています。材質を特定し、質量と方向も管理しました。目的は単純です。物質的な再現だけで充分かを確かめる」
「充分じゃない」とリーズは言った。
全員が彼女を見た。
こんなに早く答えるつもりではなかった。
慎重さより先に、言葉が出た。
ブレッソンの顔からわずかに血の気が引いた。
「まだ試験を見てもいないでしょう」
「見ればわかる」
「そんな言葉に意味はありません」
「まだ、ね」
同意されたことが、彼には気に入らなかった。
ソレルが訊いた。
「何が見えるんです?」
リーズは複製を見た。
中央の空隙、リング、ごく小さな非対称性。すべて正確だった。
まさにその正確さのなかで、何かが欠けていた。
「これは、間違っていない」
ブレッソンは目を瞬いた。
「何です?」
「正しすぎるんです。生きてるほうは、間違いをひとつ受け入れたように見える」
技術員は口を開き、また閉じた。
タルデューがその言葉を書き留めた。
ソレルも。
セギュールが訊いた。
「始めますか?」
すでにどこかで終わっている、とリーズは答えかけた。複製が、新しい物に特有の密かな自負をまとって機械から出てきたときに、失敗はもう起きていたのだと。
何も言わなかった。
試験が始まった。
何も応じない
最初の試験は、リーズを部屋から出して行われた。
彼女が望んだことだった。
挑発ではない。疲れていた。
複製が死んだままなら、自分の視線のせいにはされたくなかった。もし応じるなら、心の準備をする暇もなく、皆の前でその瞬間を見るのは嫌だった。
隣室のガラス越しに座らされた。ソレルも一緒だった。
セギュールでもドロネーでもない。リーズの希望で、ソレルだけ。
「私を信用しているんですか?」と物理学者が訊いた。
「いいえ」
「では、なぜ私を?」
「いい知らせを怖がる人だから」
ソレルは、受け取ってもよい褒め言葉として受け取った。
ガラスの向こうで、ブレッソンは複製C1を五十キロの標準分銅の下に置いた。重しでも、架台でもない。清潔な部屋の、清潔な台の上に置かれた、丸く清潔な質量。
うまくいかない、と言うのをリーズはこらえた。
手順が始まった。
初期荷重。
励起。
測定。
曲線は変わらなかった。
50.1。
50。
50.1。
一直線。
無傷の世界。
ブレッソンは二回目を求めた。
同じ結果。
三回目、曲線が少し震え、また平静に戻った。測定ノイズ。それだけだった。
ガラス越しにも、ブレッソンの失望が伝わった。自分を不要にしようとした男に、これほど早く同情できるとは思わなかった。
タルデューが、死んだ装置を求めた。
古いほう。
アパルトマンにあったもの。
何もない。
それから、生きている装置。
本物。
リーズはまともに息ができなくなった。
質量は四十二キロへ、三十キロへ、十七キロへ落ちた。浮遊するまでではない。この部屋では、そこまでいかない。それでも対照を残酷なまでに際立たせるには充分だった。
生きているものは応じた。
ほかの二つは、ありふれた世界にとどまった。
ブレッソンは眼鏡を外した。
ひどく静かに、机へ置いた。
数字以上に、その動作がすべてを語った。
彼は腹を立ててはいなかった。
名をつけることもできない信仰を傷つけられていた。
「材質をやり直します。純度の低い合金で再製作する。表面状態も合わせる。欠陥を組み込むこともできます」
タルデューが答えた。
「ええ。ただし、あなたに都合のいい仮説を救うためではなく」
「私に都合のいい仮説ではありません。検証できる仮説です」
「では、検証しましょう」
一日は、死んだ複製の連なりになった。
C2、表面を劣化。
何もない。
C3、熱処理でリングを老化。
何もない。
C4、締付条件を変更。
何もない。一度だけ偽の跳ね上がりがあり、三人が顔を上げたが、電気ノイズへ落ちていった。
C5、別の技術員が、異なる順序で組み立て。
何もない。
失敗するたび、人々はますます精密になった。
安心できることではなかった。
精密さとは、ときに、絶望が姿を見せまいとする丁寧な作法だ。
昼食時にはサンドイッチが運ばれてきたが、まともに食べる者はいなかった。リーズは味のしない林檎を噛んだ。ソレルは冷えたコーヒーを飲んだ。ブレッソンは最初の三装置の前に、白衣のポケットへ両手を入れたまま立ち尽くしていた。
タルデューがリーズのそばへ来た。
「もちますか?」
「どうしてみんな、答えが何かの役に立つみたいに訊くんです?」
「もっとましな問い方が、まだ見つかっていないからです」
リーズは並んだ複製を見た。
「いくつ作るまで続けるつもり?」
「何を知らないのかがわかるまで、必要なだけ」
「きれいな言い方」
「研究室の言い回しです。きれいとは限りません」
セギュールもやってきた。
午前中ずっと、廊下で電話をしていた。声を荒らげることはなかった。省庁を動かしながら、空き部屋を尋ねる人間のように話せること。それが権力なのかもしれなかった。
「ほかのチームにも依頼します」
リーズは一瞬目を閉じた。
「もう?」
「案件の核心は渡しません」
「もちろん」
「幾何形状の一部、材質に関する問い、文脈のない測定値だけです。経路を増やす必要がある」
「どこへ至る経路?」
彼ははぐらかさなかった。
「可能であれば、あなたなしで再現するための経路です」
リーズはうなずいた。
「私を守るためだなんて言わないでくれて、ありがとう」
「あなたを守ることにもなります」
「そして、あなたたちは私から自由になれる」
「ええ」
傷つくはずの答えだった。
だが、むしろ少し安堵した。
裸の真実は、どれほど冷たくても、上手に着飾った保護より受け止める力が少なくて済む。
切り離された研究室
夕方、外部からの最初の回答が、匿名のメッセージとして届いた。
研究室名も、都市名も、ロゴもない。ルセルフがセギュールの前に置いた概要書の数行だけだった。セギュールは少し長すぎる沈黙のあと、リーズにも読ませた。その沈黙で、彼が選んだのだとわかった。
「チームA:荷重異常は検出されず。」
「チームB:再現不能な計器不安定性。」
「チームC:組立文脈を欠くため、幾何学的再現の解釈は不能。」
「チームD:追加情報を要請。」
四行目を見て、タルデューが笑った。
乾いた笑いだった。
「少なくとも一チームは正直ね」
リーズは訊いた。
「あの人たちは何を知ってる?」
セギュールが答えた。
「用途を明かされないまま、異常な支持力の問題に取り組んでいます」
「用途が明かされていない」とソレルが訂正した。
セギュールは受け入れた。
「用途は明かされていない」
「私がここにいることも知らない」
「はい」
「誰かが必要なのかもしれないことも」
「知りません」
「じゃあ、式に開いた穴だけを複製してる」
誰も答えなかった。
わかりにくい言い方だった。
それでも正確だった。
切り離された各チームに渡されるのは、幾何形状の断片、材質、周波数、拘束条件だった。夜は渡されない。羞恥も渡されない。物が単なる形であることをやめ、自ら担うことを受け入れた荷重となる瞬間も。
これはまだ科学ではなかった。
身体を欠いた解剖だった。
宵の初め、ブレッソンはリーズ自身に、皆の前で複製を組み立ててほしいと求めた。
ソレルは反対した。
タルデューは賛成した。
セギュールは理由を訊いた。
リーズはすぐには何も言わなかった。
その提案は、思いがけない場所を傷つけた。
これまで彼らは、物が彼女抜きで生きられるかを確かめようとしていた。今度は、彼女の手だけで足りるかを知りたがっている。夢でも、心の底の承諾でもない。動作だけ。
一部の自分は拒みたがった。
別の一部は、知りたがった。
リーズは訊いた。
「どの部品で?」
ブレッソンは灰色のフォームを敷いた引出しを開けた。機械加工された部品が、識別され、整列している。まだ美しすぎたが、C1ほど傲慢ではない。生きている装置の欠点も、痕も、凹凸も、フランジの傷ひとつに至るまで再現されていた。
傷の複製。
リーズは顔をしかめた。
「汚れまで写したんですね」
ブレッソンが静かに答えた。
「どうやら、まだ足りないようですが」
朝から彼は何かを失っていた。
知性ではない。
自信だ。
そのぶん、付き合いやすくなっていた。
リーズは手を洗った。
求められたからではない。
一日の埃をつけたまま部品に触れるのが、猥雑なことに思えたから。
撮影された。
当然だった。
ゆっくりと組み立てた。環。リング。籠。空隙。締付け。ずれ。何も訪れなかった。熱も、嫌悪も、汚れた正しさもない。あるのは指先の技だけだった。頭が確認を終える前に、物を支える術を知っている古い知性。
三十分後、複製L1が完成した。
ほかより正しく見えた。
全員に期待させるには、それで充分だった。
残酷なことだった。
試験。
何もない。
二回目。
何もない。
三回目は格納庫の試験台で行った。部屋が白すぎると、リーズが言ったから。
何もない。
震えさえしなかった。
リーズは自分の手を見た。
安心すると思っていた。
そうはならなかった。
手だけで足りないのなら、ほかの何かが必要なのだ。
もっと守りにくい、彼女自身の何かが。
欠けているもの
夜の会議は、画面なしで行われた。
ヴォークレールはいなかった。
誰も理由を説明しなかった。
リーズには、その不在が在席より不穏に思えた。その場にいない男は、居残った者たちが準備するものを使って、より多くをなしうる。
テーブルには八つの装置があった。
生きているもの。
死んだもの。
C1からC5。
L1。
普通の目にはほとんど同じに見える八つの小さな物。そのうち、応じることを受け入れたのは一つだけ。
タルデューがホワイトボードに三つの欄を引いた。
「物質」
「形状」
「文脈」
それから、ためらった。
四つ目の欄を加えた。
「ヴァレンヌ」
リーズはボード上の自分の名を見た。
もはやバッジの上ではない。
書類の上でもない。
変数になっていた。
「駄目です」とソレルが言った。
タルデューが振り向いた。
「何が?」
「そんなふうに書いては」
「要因には名前が必要でしょう」
「だからこそです。物質と文脈のあいだに、裸の姓を置くべきではない」
タルデューは数秒、ペンを握ったままでいた。
それから消した。
代わりにこう書いた。
「夜/担うこと」
完璧ではなかった。
それでも暴力は少なかった。
リーズは少し呼吸が楽になった。
ブレッソンが結果を報告した。
声には新しい精密さがあった。ほとんど謙虚ともいえた。複製は寸法どおりだった。材質では差を説明しきれない。表面状態も同様。組立順序も同様。リーズが組立時に立ち会うことも同様。場所によって生きた装置の応答が変化する場合はあるが、どの複製も目覚めさせることはない。
「つまり、パラメーターがひとつ欠けている」とルセルフが言った。
ブレッソンが答えた。
「原因そのものが欠けているのかもしれません」
小さな沈黙が落ちた。
タルデューがうなずいた。
「ええ」
セギュールは訊いた。
「作業仮説は?」
誰も先を争わなかった。
やがてソレルが口を開いた。
「装置は、物質的な構成だけで起動するのではない。最初に反応状態へ入る前、あるいはその最中に、私たちには生成も記録もできない何かを受け取っているように見えます。『夢』とは、それが起きる場所にヴァレンヌさんが暫定的につけた名です。説明ではありません。私たちの無知がある場所です」
マッソンが、その発言をほとんど一字一句書き留めた。
リーズには、やめてほしかった。
セギュールが訊いた。
「検証できますか?」
「はい」とソレル。
「どうやって?」
彼女はリーズを見た。
「複製の近くで眠ってもらいます」
世界の手触りが変わった。
目に見えるものは何ひとつ変わらない。テーブルも、装置も、照明も、椅子も、そのままだった。それでもリーズは、足の下に扉が開いたのを感じた。
昨日、求められたのは介入への同意だった。
いま求められたのは、一夜だった。
同じではない。
まるで違う。
「嫌です」
答えが早すぎた。
ソレルは目を伏せた。
「わかりました」
セギュールは、わかりましたとは言わなかった。
何も言わなかった。
そのほうが悪かった。
リーズにはわかった。彼はたったいま彼女の拒否を、暫定区域に分類したのだ。
今日ただちに強制することはできない。だが明日、もっと良い角度からもう一度提示すべきものを、国家がしまっておく区域へ。
リーズは立ち上がった。
「妹に電話します」
誰も止めなかった。
複製できないもの
マリアンヌは電話に出るなり言った。
「聞いてる」
こんばんはでも、*元気?*でもない。聞いてる。
リーズは、危うくすべてを話すところだった。
あの部屋。
複製。
死んだ装置。
ホワイトボードに書かれた自分の名。
ソレルの求め。
回線、盗聴、廊下にいるドロネー、朝にルセルフが繰り返した「技術的詳細は話さないように」という言葉のために、思いとどまった。だが、もっと高潔でない理由もあった。すべてを本当に話せば、マリアンヌは姉妹の言葉でそれを現実にしてしまう。そうなったあとも自分がもちこたえられるか、リーズにはわからなかった。
「複製しようとしたの」とだけ言った。
沈黙。
「何を?」
「私をここに連れてきたもの」
「それで?」
「うまくいかない」
マリアンヌはゆっくり呼吸した。
「悲しそうね」
「喜ぶべきなのに」
「だから、悲しいのね」
リーズは目を閉じた。
「私なしで動かないなら、もっと多くの私を欲しがる」
「もっとって、どうやって?」
「夜を」
マリアンヌはすぐには答えなかった。
その沈黙のなかに、妹の台所らしき音が聞こえた。暖房。椅子。異常な言葉のまわりにある、普通の暮らし。
「嫌だと言う権利はある」とマリアンヌは言った。
「いつまで?」
「問題はそこじゃない」
「そこよ」
「違う。問題は、あなたの『嫌』が何を守るかよ」
リーズは目を開けた。
そんな言葉を予想していなかった。
マリアンヌからは。
いや、だからこそ彼女からだったのかもしれない。
「わからない」
「なら、早まって渡さないで。でも、取り返されるのが怖いからって、ただ捨てもしないで」
「あの人たちみたいな言い方」
「違う。あの人たちは上から話す。私は、手の届く場所から話してる」
リーズは廊下の壁に額をつけた。
冷たかった。
「私の名前をボードに書いたの」
告白はひとりでに出た。
三メートル離れたドロネーが顔を向けた。
マリアンヌが訊いた。
「何として?」
「測る物として」
「じゃあ、ほかのことを書かせなさい」
「何を?」
「まずは、下の名前」
リーズはわずかに笑いかけた。
「それじゃ足りない」
「ええ。でも、人が区切りを作るのを止められないときでも、貼ったラベルを前にして寝覚めが悪くなるよう、強いることならできるかもしれない」
リーズはその言葉を取っておいた。
どこへ置くかは、まだわからなかった。
電話を切ると、ドロネーが端末を受け取った。
「妹さんは省庁で働くべきですね」
「中学校より給料がいいの?」
「いいえ」
「なら、いまのほうが役に立ってる」
彼の顔に笑みのような動きが浮かんだが、笑みになることは選ばなかった。
リーズは部屋へ戻った。
まだ全員が待っていた。
八つの装置も。
生きているもの。
死んだもの。
複製。
欠けているもの。
ホワイトボードへ行き、ペンを取って、「夜/担うこと」を消した。
タルデューが一歩出た。
リーズはその上に書いた。
「リーズが担うことを受け入れるもの。」
ペンを置いた。
「これが仮説です」
ソレルは頭を下げた。
服従ではない。
精度を認めるしぐさだった。
セギュールは一文を読んだ。
「扱いにくくなります」
「ええ」
「わざとですか?」
「いいえ。正確なんです」
タルデューは装置を見た。
「なら、あなたが何を担うことに同意するのか、知らなければならない」
リーズは架台の下の二人を思った。鋳鉄塊を。父親の箱を。バーベルのプレート、暖房器具、重しを。荷重として人生に入り、証拠として出ていった、あらゆる物を。
「複製じゃない」
「なぜ?」
「複製は何も求めない。ただ与えられるのを待ってる」
ブレッソンが顔を上げた。
その言葉は彼にも届いた。
おそらく、きちんと待ち続ける物を一日中作っていたから。
ソレルが訊いた。
「では、複製を担ってくれと頼まなければ?」
誘導されていたことに、リーズは遅れて気づいた。
策略ではない。
必要に導かれて。
「じゃあ、何を?」
タルデューはC3を示した。老化させた複製。純度の低いリングと、疲れた表面。
「変形版です。既存の物をそっくり写したものではない。まだ自分の形を探している物」
リーズはC3を見た。
二時間前には死んでいると思った。
いま、夜の照明の下では、未完成に見えるだけだった。
同じではない。
違いなど感じたくはなかった。
「今夜は嫌です」
ソレルが即座に答えた。
「今夜はしません」
セギュールも反対しなかった。
ただし、訊いた。
「明日は?」
リーズは彼を見た。
「明日なら、眠るかもしれません」
彼が得たのはそれだけだった。
それでも、すでに開口部だった。
その夜、部屋でリーズは公式ノートに書いた。
「複製は死んでいる。」
それから、長いことためらったあと、黒い手帳に書いた。
「きちんと作り直したから、物が生きるわけではないのかもしれない。誰かが、それに起きることを受け入れたとき、物は生きるのかもしれない。」
手帳を閉じた。
廊下では基地が動きつづけていた。
どこかで、複製の失敗を分類する男たちがいる。
別のどこかでは、もう変形版を準備している者たちがいる。
そしてリーズは理解した。世界が必要としているのは、彼女の眠りだけではない。
担わないことを恥じるような物を、世界は彼女に差し出す術を学ぼうとしていた。
第12章 組織された眠り
変形版
翌日、彼らは「複製」という言葉を使わなくなった。
その言葉が失敗したと認める者はいなかった。ただ、書類から消えた。
代わりに現れたのが、変形版だった。
変形版V1:老化させたリング、中央の空隙を〇・五ミリ拡大。
変形版V2:より開いた環、純度の低い材質。
変形版V3:長くした籠。黒い手帳の古いページから非対称性を採用。
変形版V4:未完成の組立て。意図的に手直しの余地を残す。
語彙は改善されていた。
そのぶん、リーズは警戒した。
彼女に与えられたのは小さめの部屋だった。テーブル、ランプ、二冊のノート、コーヒーの入った魔法瓶、土手の見える窓。機械も、質量も、覆いの下の物体もない。変形版は隣室にあった。
ガラス越しに見えた。
灰色のトレーに置かれ、それぞれラベルをつけられた四つの小さな装置。
患者のように。
証拠のように。
餌のように。
ソレルは一枚の紙を彼女の前に置いた。
「今夜の条件案です」
リーズは紙を取らなかった。
「もう?」
「ええ」
「今夜はしないと言いましたよね」
「守りました」
「二十四時間。英雄的ですね」
ソレルは受け流した。
「侵襲的なことは何もしません。薬剤なし、断眠なし、電極なし、寝室内のカメラなし。あなたは十八号室で眠る。変形版は二十メートル離れた隣室に置き、直接接触はしない。夢を見たら記録する。拒むなら拒む」
「夢を見なかったら?」
「それも情報になります」
「失敗しても何も失わないような言い方ですね」
「私が失うものは、あなたより少ない」
リーズは紙を取った。
正直とは思えないほど、条件は単純だった。
短く書かれている。
抜け穴を、紛れ込んだ言葉を、開け放たれた扉を探した。もちろん、あった。いつだってある。「近接する変形版」とあるが、近接の定義はない。「間接観察」とあるが、何人が読むかは書かれていない。「科学的活用」は、ほとんど何でも詰め込める箱だった。
リーズはペンを取った。
「活用」を「読解」に書き換えた。
さらに付け加えた。
「製造を目的としない。」
離れた場所に座っていたマッソンが、おそらく法的な意味を持つため息をついた。
「これは製造ではありません」とタルデュー。
「なら、書いても困らないでしょう」
タルデューは答えなかった。
マッソンが文面を修正した。
セギュールはいなかった。ヴォークレールも。リーズが理由を訊くと、ルセルフは「会議です」と答えた。国家の口から出れば、さまざまな不在の仕方を内包できる言葉だった。
ドロネーは扉を守っていた。
ブレッソンは変形版の部屋にいた。彼も彼女たちと同じく眠れていなかったが、変わっていた。手つきは確信を失い、そのぶん正確になっていた。もう自分が作った物のようには装置に触れない。自分を辱めるかもしれない問いへ近づくように扱っていた。
リーズはV3を見た。
細長い籠。
彼女のなかで、何かが閉じた。
ソレルは見逃さなかった。
「それですか?」
「わかりません」
「本当に?」
リーズは笑いそうになった。
「ええ。今回だけは」
立ち上がり、廊下を横切ってガラスの前まで行った。部屋には入らない。V3は美しくなかった。どれも美しくない。だがそれには、失敗の仕方そのものが、何かを求めているように見えた。
「どこから来た形?」
ブレッソンがインターホン越しに答えた。
「黒い手帳の十七ページです。ただし全部は再現していません。開口部と籠だけです」
「なぜ全部を?」
彼はタルデューを見た。
タルデューが答えた。
「全体では、拘束用の部品に似すぎていたからです。あなた抜きで再現しないことにしました」
その「私たち」という言葉は、不意にリーズの心へ触れた。
信用するほどではない。それでも、原則だけで拒むことはできなくなった。
三つの留保をつけて署名した。
そして末尾に書いた。
「私は眠る。製造はしない。」
マッソンが読んだ。
「協議が必要です」
「誰と?」
「全員です」
「なら、私抜きで始めてください」
番号のついた夜
十八号室はまた、ほんの少し変わっていた。
最初の夜にあった印刷物は撤去されている。代わりに机の上には、白紙が三枚、ペンが二本、朝の記録を入れる封印済みの封筒、それに緑色の数字が夜を待合室のように見せる、小さなデジタル時計があった。
リーズは時計を伏せた。
それから、また起こした。
組織化を拒みたいのか、自分が何時に折れるのか知りたいのか、自分でもわからなかった。
二十二時、ソレルが来た。
「強制ではありません」
「嘘が下手ですね」
「嘘ではありません」
「拒否できると言ったことじゃない。今夜拒否しても、明日その拒否が同じ重さを持つような顔をしたこと」
ソレルは敷居に立ったままだった。
「ええ。同じ重さではありません」
少しくらい嘘をついてほしかった。
「どうも」
「説得のつもりではありません」
「ここでは何もかも説得になる」
ソレルは部屋を見た。ベッド。机。白紙。
「時計を撤去させましょうか」
「いいえ」
「なぜ?」
「気に入らないから」
ソレルにはわかったようだった。
出ていこうとしたとき、リーズは訊いた。
「何を期待してるんです?」
「今夜のことですか?」
「ええ」
ソレルはしばらく考えた。
「何も起きないことを願っています」
「本当に?」
「本当に」
「科学者としては?」
「科学者としては、自分が間違っていることを願っています」
リーズはうなずいた。
「疲れそうな仕事ですね」
「最近のあなたの仕事ほどではありません」
ソレルが去ると、リーズはひとりになった。二十メートル先、二枚の壁と三つの扉、そして幾重もの署名の向こうに、四つの変形版があった。姿は見えない。それでも、どこにあるかはわかっていた。V1は窓のない壁のそば。V2は中央。V3は少し斜めに置かれている。まっすぐに戻さないでほしいと、彼女が頼んだから。V4は未完成。
ほかのことを考えようとした。マリアンヌ、ジャンヌ、アパルトマン、まだ車検に出さなければならないトゥインゴ、ハサン、ナデージュ、第十四工場棟。
ハサンの名だけは、別の重さを持っていた。優しいというのではない。もっと危険だった。その名は、続きを差し出せと求められずに身体へ触れられた時間に、眠りがまだ戦略的価値を持たなかった朝に属していた。彼を救いにしたくはない。まして、すがりつく物語には。だがもし、いつか誰かが親密な記憶で彼女の夜を誘導しようとするなら、大きな秘密など要らないのだとわかった。枕の上でこぼれた笑い、腰に置かれた手、洗剤と金属の匂い。それだけで足りるのかもしれない。
案件が接収されてから、彼らがどうなったか、自分は一度も訊いていないと気づいた。ハサンは見た。コルネックは知っている。ブレッソンは複製した。マレスコは礼を言った。少しずつ、誰もが物語のなかに席を与えられていた。その背後で、もう消えはじめている者もいた。
二十三時十分、こう書いた。
「物が許可を待つ場所にはなりたくない。」
許可に線を引いた。
代わりの言葉は見つからなかった。
零時七分前、眠りに落ちた。
夢は形から始まらなかった。
順番待ちの感覚から始まった。
馬鹿げているのに、ひどく鮮明だった。
壁のない闇に、四つの気配があった。四つの物ではない。まだ何を求めればよいのか知らない、四通りの在り方。V1は乾いて、ほとんど無関心だった。V2は音を立てすぎていた。V4は中断そのものだった。V3だけは、脇にいた。
卑下も、懇願もせず。脇に。
自分がまだ正しくないと知り、誤った仕上げ方をされることを拒む誰かのように。
リーズは離れようとした。
夢のなかで、離れることには意味がなかった。
十七ページの三本の線が戻ってきた。もう赤くはない。白く細く、見るだけで痛かった。V3の籠が〇・五度だけ開いた。中央の空隙が、どの図面にも存在しない領域へずれた。リングが自分の位置を拒んだ。その拒絶を、拒絶のままにしておかなければならなかった。
やがて形が機能を変えた。
もう物ではなかった。
これから行われる試験が、自分に加えられるよりも残酷さを減らしてほしいと願いに来ていた。
リーズは三時二十二分に目覚めた。
顎が痛かった。
最初に書いた一行は、
「V3を完成させてはいけない。」
次に、
「生きた欠陥を残す。」
ペンをページの上に浮かせた。
残りは出てこなかった。
隣室では、警報は鳴らなかった。
誰も入ってこなかった。
今夜だけはまだ、夜が自分の帰結に没収されずにいた。
やがて書いた。
「少しだけ担った。従わせるほどではない。どこで拒めばいいか、わからせるには充分。」
公式ノートを閉じ、そのまま机に額をつけて、また眠った。
最初のロット
六時四十分、V3が応じた。
わずかに。新たな奇跡を生むには少なすぎた。失敗に安住する心を殺すには充分だった。
リーズは部屋にいなかった。
まだ眠っていた。あるいは、眠りによく似た何かのなかにいた。六時半までそのままにされた。音もなく入ってきたソレルは、腕の上に頭を載せた彼女を見つけた。頬にはノートの綴じ目の跡がついていた。
「起こさないで」とドロネーに言った。
「十分後に試験です」
「なら、椅子に生きのいい彼女を座らせずに試験させればいい」
「生きのいい」という言葉は、醜くもなりえた。
ソレルの口から出ると、ただ人間らしかった。
V1を試験した。
何もない。
V2。
何もない。
V4。
読み取れるものはない。
それからV3。
手順は控えめだった。二十キロの質量、B2-17室、低励起、二回だけ。前夜から何ひとつ変えないよう、ブレッソンが強く求めた。例外は、目覚めたリーズが記したごく小さな修正だけ。開口部をまっすぐにしない。欠陥を残す。
一回目。
20.1。
19.9。
20。
何もない。
ブレッソンが二回目を求めた。
ソレルはガラス越しにリーズを見た。
いまは椅子に座り、両手でコーヒーカップを持っていたリーズが、うなずいた。
二回目。
20。
19.2。
17.8。
そして戻った。
浮遊も、質量の下に目に見える隙間もなかった。だが明確に、短く落ちた。現れ方は鮮明で、その意味は汚れていた。
ブレッソンは両手を机についた。
「弱い反応です」
彼を信じたふりができるほど親切な者は、誰もいなかった。
タルデューは三回目を求めた。
ソレルが拒んだ。
「二回の予定でした」
「だからこそです。二回目に応答した」
「だからこそ、読解を食欲に変える前に止めます」
タルデューは唇を結んだ。
どれほど続けたがっているか、リーズには見えた。
国家のためではない。
ヴォークレールのためでもない。
知るために。
それはおそらく、何より危険な欲望だった。堕落させる必要すらないのだから。
ブレッソンが曲線を印刷しているところへ、セギュールが来た。
曲線を見てから訊いた。
「結論を出すには充分ですか?」
ソレルが答えた。
「何について?」
「ヴァレンヌさんの夜が、V3の挙動を変化させたと」
「いいえ」
ブレッソンが顔を上げた。
「アリアーヌ」
「科学的には、いいえ。政治的には、きっとそうなのでしょう。そこが問題です」
セギュールは重い書類を受け取るように、その言葉を受け止めた。
「現時点で得られたものに、名前が要る」
椅子からリーズが言った。
「いい知らせに見える、悪い知らせです」
誰も否定しなかった。
八時、「ロット」という言葉が初めて現れた。
リーズの口からでも、ソレルの口からでもない。タルデューが急いで書き、あとから線を引いたメモのなかに。
「次期Vロット:調整済み変形版四点。」
リーズは見た。
消された言葉は、まだ読めた。
ロット。
そういうことか。
一つの物からロットへ移るのに、一夜あれば足りたのだ。
リーズは何も言わなかった。
受け入れたからではない。
目の奥に、新しい疲れが居ついたからだった。重く、静かで、ほとんど大人びた疲れ。言葉は自分より速く走る。そのすべてには追いつけず、どの言葉を追うか選ばなければならないのだと知る疲れ。
柔らかな連鎖
その後の日々は、暴力的ではなかった。
だからこそ、憎むのが難しかった。
縛られもしなかった。薬を飲まされもしなかった。眠りを奪われもしなかった。
それどころか。
枕は改善された。照明は調整された。食事の時刻は変えられた。十八時以降の会議は減った。休息時間を設定するようソレルに依頼があった。マリアンヌとの毎日の通話も認められた。鞄の中身も一部、管理下で返された。
すべてが人間的だった。
同時にすべてが、夜を生産するために役立っていた。
生産という言葉はどこにもなかった。
リーズには、いたるところに見えた。
変形版を載せたトレーに。
時間割に。
朝、ブレッソンが彼女に眠れたかと訊くより先に、何か記録したかと訊く、その問い方に。
三日目に彼自身も気づいた。
顔を赤くした。
「すみません」
リーズは、ほかの者ほど彼を責めなかった。
少なくとも彼の謝罪は、誰かの校閲を経ていなかった。
三日のうちに、変形版には生い立ちができた。
一つは応じ、それから黙った。別の一つは荷重をはっきり低下させ、その後ふたたび死んだ。三つ目は格納庫でしか機能しなかった。白い部屋では、役に立たなくなるほど行儀よくなるらしい。四つ目は警報を作動させたが、動いたのが物なのか、机なのか、皆の欲望なのか、誰にもわからなかった。
結果は変化した。
場面は繰り返した。
リーズはノートを持って現れる。ソレルはまず彼女の顔を見る。タルデューは曲線を見る。ブレッソンは物を見る。マッソンは言葉を見る。ルセルフは扉を閉ざす。ドロネーは人間を見る。セギュールが来る回数は減った。それは案件が別の上層へ上がっていることを意味した。ヴォークレールはまったく姿を見せなくなり、その不在はすでに仕事の形をしていた。
四日目の夜、リーズはル・ビアンとケルブラに会いたいと求めた。
勧められないと言われた。
それは答えになっていない、と返した。
ソレル、ドロネー、軍医の同席で、医療室における七分間の面会が手配された。
ル・ビアンは腕を吊り、顔には痣があった。もう二十回も、自分は運がよかったと語り、物語が誰のものかわからなくなっている人間の、神経質な陽気さをまとっていた。
ケルブラは起き上がれなかった。
肋骨を損傷し、片脚を固定されていた。顔色を見ると、声を落としたくなった。
リーズは手をどうすればよいかわからないまま、部屋へ入った。
ル・ビアンが言った。
「あなたのおかげだと聞きました」
「間違った聞き方です」
彼は少し笑った。
「そう答えるだろうとも聞きました」
ケルブラが顔を向けた。
弱い声だった。
「それでも、ありがとう」
二語。
また。
リーズは拒みたかった。
できなかった。
「外へ出られた」
「ええ」
「なら、外にい続けて」
二人には意味がわからなかった。
本当には。
ソレルにはわかった。
廊下で彼女は訊いた。
「なぜ会いたかったんです?」
リーズは答えた。
「私があの人たちを作り上げたんじゃないと、確かめるため」
ソレルは何も言わなかった。
その夜、リーズはV12の夢を見た。
形ではない。名前を。
V12。
文字と数字。
まだ存在しないのに、連なりのなかではすでに居場所を持つ物。
リーズは冷たい吐き気とともに目を覚ました。
紙に書いた。
「番号をやめる。」
それから、
「名前を与えても足りない。」
二行目には線を引いた。
連鎖をより柔らかくする手助けなど、したくなかった。
有用な夜
五日目、セギュールが戻ってきた。
リーズを呼び出しはしなかった。
目に見える護衛もつけず、彼のほうがよく隠せているだけの疲れをまとい、変形版の部屋へやってきた。装置、曲線、記録を見た。それから、リーズと数分だけ二人にしてほしいと言った。
ソレルが拒否した。
リーズが言った。
「彼女は残ります」
セギュールは受け入れた。
ペンで書いた条件のいくつかが、まだ効いていると認める行為だった。
部屋が空くのを待った。
それから言った。
「結果から知る前に、伝えておかなければならないことがあります」
リーズは座った。
「幸先がいいですね」
「V3、V6、V8の応答によって、案件の性質が変わります」
「いいえ。変わるのは、あなたたちの焦りです」
「両方です」
ソレルは壁にもたれた。
セギュールは続けた。
「現象が最初の物体だけに結びついているうちは、事故、異常、単独の事例だと主張できました。あなたの夜のあと、いくつかの変形版が、弱くとも応答するようになった。となれば、私たちの手元にあるのは別のものです」
「連鎖」
彼はその言葉を嫌った。
間違っているからではない。
「生成途上の手順です」
「違う。連鎖です」
ソレルは訂正しなかった。
セギュールは、その言葉を論じないことにした。
「今夜、大統領へ報告します」
リーズは覆いの下にあるV8を見た。
「まだ知らなかったの?」
「異常と例外的介入については報告を受けていました」
「いまは?」
「いま報告されるのは、重い質量の見かけの支持力を変化させうる、既知では唯一かもしれない手法をフランスが保有していること。ただし、その手法は一人のフランス市民に依存し、現象の制御を失わずに彼女の自由をどう守るか、まだわかっていないということです」
「言い回しを練りましたね」
「ええ」
「ほとんど正直です」
「それを目指しました」
リーズは喜びのない、短い笑いを漏らした。
セギュールは向かいに座った。
「ヴァレンヌさん、いま連鎖を断たないでほしい」
その言葉が、彼自身の口から出た。
わざと落としたのだ。
ソレルの身体がこわばるのを、リーズは感じた。
「ほら」とリーズは言った。
「ええ」
「もう着飾らないんですね」
「減らそうとしています」
「なぜ?」
「危険は、名前をつけたほうが、あなたにはよく見えると思うからです」
マリアンヌのことを思った。
あの言葉を。あの人たちの緊急事態にならないで。
ガラスの向こうの物、変形版、弱い曲線、何かが応じるたびに安堵するブレッソン、どんなに善良な者でさえ彼女の夜に使える成果を期待しはじめた、その様子を思った。
「いくつ?」と訊いた。
セギュールは、意味がわからないふりをしなかった。
「三夜です」
「嫌です」
「二夜」
「取引じゃない」
「では、あなたから条件を」
リーズはソレルを見た。
ソレルは代わりに答えなかった。
それが良いことか悪いことか、もうわからない。
「一夜」とリーズは言った。「一夜だけ。番号をつけた新しい物はなし。ロットもなし。変形版は四つまで。先に私が見る。拒む物は拒む。明日の朝から二十四時間、試験を停止する」
「なぜ?」
「停止を入れなければ、あなたたちはこれを手法と呼ぶから」
セギュールはその言葉を受け取った。
ほとんど署名できそうだった。
「一夜だけという点は同意します。数も。あなたの事前拒否も。二十四時間の停止は、私一人では確約できません」
「なら、一人で求めないで」
彼は電話を出した。
黒い電話ではない。自分のものだった。
部屋を出ていった。
ソレルはリーズを見た。
「確信はありますか?」
「ありません」
「では、なぜ承諾を?」
リーズは透明な覆いを見た。
「いま拒んだら、私の拒否を不可能にする方法を、あの人たちは学ぶから」
「承諾すれば?」
「もっと上手な頼み方を学ぶ」
ソレルは否定しなかった。
「勝利ではありません」
「ええ」
廊下で、セギュールが低い声で話していた。
言葉までは聞こえなかった。
聞こえるのは抑揚だけ。例外を一夜もちこたえるほど堅牢な文言へ入れ込もうとするとき、国家が奏でる古い音楽。
その夜、リーズは二枚の壁の向こうに四つの変形版を置いて眠ることを承諾した。
国家のためではない。科学のためでもない。いつか救われるかもしれない人々のためですらない。自分がどこまで担えるのか知りたがっている一部が、彼女自身のなかにあったからだ。そして、その部分こそ、もっとも責めにくかった。
寝る前にマリアンヌへ電話した。
「一夜だけ」
「説明してくれる?」
「ちゃんとは無理」
「なら、言えることだけ」
リーズは扉、ノート、条件を書いた紙を見た。
「あの人たちには、私が眠ることが必要なの」
マリアンヌは何かを呟いたが、聞き取れなかった。
それから、
「あなたは?」
「私にも必要なんだと思う」
その答えに、二人とも怯えた。
二時五十分、リーズは四つの変形版を夢に見た。
六時、二つが応じた。
七時には、書類から連鎖という言葉が消えていた。
代わりにこう書かれていた。
「有用な夜の連続。」
マッソンの肩越しに、リーズはその表現を読んだ。
叫びも、泣きもしなかった。ただ理解した。工業化は、生産速度や、工場や、物で満ちた格納庫から始まるのではない。
複数形で書かれ、誰もがもっともだと思う文書のなかに置かれた、柔らかな表現から始まるのだ。
第13章
ゲームの中心に立つフランス
線が引かれた朝
八時半には、もう昨夜のことは話題に上らなくなっていた。
話されていたのは、あの夜が何を切り開いたかだった。
そのわずかな違いだけで、リーズは、窓も手帳も壁の向こうの物体もなく、目を覚ましたときにもっともらしい言葉が待ち受けてもいない部屋で、十五時間ぶっ通しで眠りたいという激しい衝動に駆られた。
だが、誰もそうさせてはくれなかった。
看護師がヴァリエーション室で、立ったままの彼女を診察した。腕には血圧計が巻かれていた。そばでは白衣を着ていないソレルが、自分がもっと強権的な人間ならよかったのに、という顔で待っていた。
「何時間眠りました?」
「どうやら、あなたに答えを二つ返せるくらいには」
「そんなことを訊いているんじゃありません」
「三時間。細切れなら、たぶん四時間」
ソレルが書き留めた。
ペンまでが罪悪感を抱いているように見えた。
テーブルの上では、四つのヴァリエーションが覆いの下に置かれていた。反応したのは二つ。強さも曲線も同じではない。整った手順を組み立てるには少なすぎたが、昨夜の出来事が単なる事故ではなくなり、役職や権限や野心や恐怖を抱えるすべての人間の頭のなかで、実行可能な方法へ変わるには充分だった。
リーズはラベルを見た。
V10。
V11。
反応した二つだった。
番号をつけるのはやめてほしいと頼んだはずなのに。
誰かが言葉どおり一度は従い、その先からまた始めたのだ。
「誰が名前をつけたの?」
記録用紙をファイルにしまっていたブレッソンが、動きを止めた。
「僕です」
身を守ろうとはしなかった。
そのせいで、かえって腹が立った。
「やめてと言ったはずよ」
「はい」
「それで?」
彼は紙を置いた。
「曲線を取り違えるのが怖かったんです」
完璧で、馬鹿げていて、真実の答えだった。
リーズは一秒だけ目を閉じた。
「なら、死んだ文字をつけて。連番じゃなく」
「死んだ文字?」
「そう。次が来ると約束しないものを」
ブレッソンはうなずいた。
すべてを理解したわけではない。
悲しむには充分、理解していた。
彼が返事をする前に扉が開いた。ルセルフが入り、マッソンとドロネーが続いた。そのあとにセギュール。
セギュールは眠っていなかった。
姿勢が整いすぎていることで、それとわかった。他人の疲労は肩や仕草や声へ落ちていく。彼の疲労は逆に顔へ昇り、目のまわりに居座っていた。くっきりと冷たく、国家機密のように保たれていた。
「ヴァレンヌさん、お見せしなければならないものがあります」
「嫌です」
言葉が彼女より先に飛び出した。
セギュールが立ち止まった。
「何が嫌なのです?」
「その前にすることがある。まず二十四時間、止める。それが条件でした」
マッソンは手元の書類へ目を落とした。
ルセルフも。
セギュールは忘れたふりをしなかった。
「実験は停止しています」
「いつから?」
「七時十二分から」
「人は?」
「どの人です?」
「次に私へ何を要求できるか考えている人たち」
彼は一秒置いた。
「そちらは止まっていません」
「でしょうね」
ソレルが、リーズとヴァリエーションの載ったテーブルのあいだへ、わずかに斜めに立った。身体で守るためではない。ほんの小さな、句読点のような動きだった。
「彼女の言うとおりです。停止には、直ちに圧力をかけることの停止も含まれます。でなければ意味がない」
ヴォークレールなら、すぐに言い返しただろう。
だがセギュールは、要求を最後まで聞き取る時間を置いた。
「一晩を求めに来たのではありません。実験でもない」
「では、何を?」
「地図を見ていただきたい」
彼は開いた扉を示した。
ただの地理的な地図ではないのだと、リーズにはわかった。
彼女はついていった。
受け入れたからではない。
世界がどんな姿で入ってきたのか、知る必要があった。
案内された部屋はほかより広く、天井が低く、窓がなかった。熱を持った機材と、古くなりすぎたコーヒーと、刷り上がったばかりの紙の匂いがした。奥の壁の画面には、政治的な色分けのない世界地図が映っていた。あるのは線と点と灰色の長方形だけ。
視覚的にではなく、伸びる線によって、フランスが中心に置かれていた。
ブリュッセルへ一本。
ワシントンへ一本。
ロンドンへ一本。
ベルリンへ一本。
ローマへ一本。
名のない地点へ二本。
そして、誰もわざわざ地名を書かなかった北京へ一本。
リーズは入口に立ったままだった。
「これを昨夜つくったの?」
ルセルフが答えた。
「線の大半は、すでに存在していました」
「何のために?」
「危機のためです」
リーズは地図を見た。
「今度は私が危機というわけね」
誰も訂正しなかった。
それはむしろ、ほっとすることだった。
セギュールが画面のそばに立った。
「大統領には二十三時四十分に報告されました。六時に少人数の会議が開かれ、三つの即時決定が下されました。第一に、管理領域はフランス国内にとどめる。第二に、いかなる公表も行わない。第三に、正式な政治判断なしに、完全な手順を国外の協力相手へ渡さない」
「完全な手順」
リーズが繰り返した。
マッソンが答えた。
「ヴァリエーション、夜間の条件、記録、曲線、医学的観察があればその内容、そしてあなたとの関連を立証しうるすべての要素が含まれます」
「つまり、私」
「はい」
簡潔に言った。
それは二人のあいだの礼儀になりつつあった。恐怖がすでに同じテーブルに着いているなら、もう隠さない。
セギュールが続けた。
「大統領はさらに、あなた個人の身分を今日中に明確にするよう求めています」
「私個人の身分」
「はい」
「従業員、市民、証人、拘束者、現象、道具、秘密、それとも緊急事態?」
用意していた列挙ではなかった。
勝手に口から出てきた。
ルセルフは何かを書き留め、途中で止まった。書くことで言葉をさらに悪化させたと、今になって気づいたようだった。
ソレルが言った。
「人です」
リーズは彼女を見た。
「何ですって?」
「最初の身分は、人。それ以外のすべては、それを消さずに築かなければならない」
セギュールが答える前に、脇の画面にヴォークレールが現れた。
いつもの白い執務室ではなかった。背後には木張りの壁の一部と、金色のランプ、高すぎる窓が見えた。どこにいるのか、リーズは知りたくなかった。
「美しい表現です、ソレルさん。しかし、それでは今朝の電話には答えられません」
ソレルが彼へ顔を向けた。
「でたらめな返答をせずに済む程度には、役に立つかもしれません」
ヴォークレールは笑わなかった。
「そのような贅沢はもう許されない」
セギュールの身体が一ミリこわばるのを、リーズは見た。
国家の一ミリと、国家の一ミリ。
これからは、その隙間が彼女の自由になるのかもしれなかった。
ブリュッセル
最初の電話はすでに終わっていた。録音は聞かされなかった。代わりに渡されたのは、余白まで均等で、誰も傷つけそうにない言葉が並ぶ、整いすぎた二ページの要約だった。
上部にはこうあった。
「欧州連絡――欧州委員会委員長官房――専用回線」
リーズは、テーブルに並べられた道具を見るように表現を読んだ。戦略的連帯、段階的共有、欧州安全保障の枠組み、欧州域内の不均衡の防止。
「向こうは何を知っているの?」
ルセルフが答えた。
「産業、軍事、宇宙を根底から変える事態が、パリだけで決められたとあとで知るのは困る、と要求する程度には」
「自分たちの取り分を欲しがる程度には」
セギュールは訂正しなかった。
画面のヴォークレールが言った。
「共同の正当性を少しでも築かなければ、各国の首都はあなたへ至る道を探します。あるいは、あなたに対抗する道を」
「私へ」
「そうです」
今度は、その言葉を着飾らせなかった。
ソレルが要約を取り、鉛筆で一行を消した。
マッソンは抗議しかけ、それがただのコピーにすぎないことを思い出すのが一瞬遅れた。
「何をしているのです?」ヴォークレールが訊いた。
「汚物を取り除いています」
彼女は読み上げた。
「『関連する人的能力の共同運用』。却下です」
その文言の意味が、遅れてリーズのなかへ届いた。乱暴な表現ではなかった。だからこそ最悪だった。部屋へ置かれ、やがて目にも入らなくなる役所の家具のように、密やかな鈍さを備えていた。
「誰がこれを書いたの?」
ルセルフが文書を確認した。
「直接の引用ではありません。こちら側でまとめたものです」
「なら、ここにいる誰かね」
沈黙。
マッソンがペンを閉じた。
「修正させます」
「いいえ。そのままにして。あなたたちが翻訳すると、私がどんなものに見えるのか知りたい」
セギュールは、重い物を受け取るようにその言葉を受けた。
「わかりました」
フランス側の回答は、三つの拒否へ集約された。技術データは渡さない。リーズという人間を指す語彙の移転は認めない。そして、この事態に彼女を奪わない名前がつくまで、共有を約束しない。
「語彙だけの話?」とリーズは訊いた。
ソレルが答えた。
「今の段階では、それだけでもう戦場です」
地図上で、ブリュッセルへ伸びる線は短かった。
首をもっとも巧みに絞めるのは、たいてい短い線だ。
ワシントン
二本目の電話は、もっと単純だった。
だから、かえって不気味だった。
ワシントンが求めたのは共同運用ではない。アクセスだった。その言葉が至るところに繰り返されていた。手順、データ、大規模実験、危機統治、同盟国アクセス。一行ごとに技術用語らしさを失い、礼儀正しく中へ踏み込む方法へ変わっていった。
「向こうが間違っているの?」とリーズは訊いた。
誰も充分な速さでは答えなかった。
やがてセギュールが言った。
「戦略的には、間違っていません。素早く理解すること自体は正しい。ただし、素早く理解したから権利を得たと考えるのは間違いです」
書類には、一つの語が英語のまま括弧に入れて残されていた。
Interoperability。
リーズは指さした。
「フランス語では?」
「同盟間の運用互換性」とソレルが答えた。
マッソンがペンを取ったが、ヴォークレールが止めた。
「英語も残してください。役に立つ」
「何の役に?」
「要求が技術だけのものではないと思い出すためです。この対象を、我々のものではない指揮の言語へ取り込むやり方なのです」
リーズは、彼に同意するのが嫌だった。
それでも同意した。
回答は、断固とした文面になった。夜間データは渡さない。ヴァリエーションも渡さない。完全な手順も渡さない。国外への移動も認めない。増殖リスクについて、同盟国同士として情報を伝える。それ以上は何もない。
「自分たちが持ちこたえられるみたいに話すのね」とリーズは言った。
「それが私の仕事です」
「違う。あなたの仕事は、持ちこたえているように見せること。そのあいだに、ほかの連中がどこで撓むか測る」
セギュールは、その正確さをほとんど面白がるような目をした。
「それも私の仕事です。ええ」
壁の近くでそれまで黙っていたドロネーの携帯に、メッセージが届いた。彼は読み、部屋を出た。
リーズは目で追った。
「何?」
ルセルフが自分の端末を閉じた。
「七時半以降、経済部の記者二人が、あなたの以前の企業グループへ連絡しています。一人はモントワールで起きた産業上の異常について。もう一人は、あなたの名前を挙げて」
部屋から奥行きが失われた。
怖いのは有名になることではない。世界が第十四ホールを通って戻ってくることだった。大きすぎる何かの証人になりたいなど、一度も望まなかった人々のところへ。
「ハサンは?」
「把握しているかぎり、接触されていません」
「コルネックは?」
「沈黙の指示を受け、企業グループの法務支援と、常時の保安連絡下にあります」
「つまり監視されている」
「それもです」
「それも」という言葉が、ほかの何より深い傷をつけた。コルネックは最初に、きちんと見てくれた人だった。その報いとして、枠をはめた沈黙を与えられた。
「ナデージュは?」
誰も知らなかった。
それが最悪だった。
「清掃員よ。二日目の朝、何かを見た」
ちょうどそのとき、ドロネーが戻ってきた。
「私が対処します」
「まともなやり方で?」
彼女が責める言葉にする前に、彼は聞き取っていた。
「一人の人間として話す者を行かせます」
少なくとも、その答えは仕掛けではなかった。
セギュールはリーズを見た。
「だからこそ、当面はフランスが中心にいなければならない。自尊心のためではありません。中心が急に移れば、それぞれの線が、あなたの知る誰かを引っ張ることになる」
その言い方は計算されたものかもしれない。
だが、きっと真実でもあった。
死んだ複製
北京へ伸びるものは、線ですらなかった。名前も凡例もない灰色の染みだった。ルセルフが地図のレイヤーを切り替えると、外交上の線は消え、代わりに研究所、ダミー会社、研究者ビザ、機械の購入、外見上は無関係な特許出願が現れた。
「これを何と呼ぶの?」とリーズは訊いた。
「収奪工作の仮説です」とルセルフが答えた。
「スパイ活動」とソレルが言った。
ルセルフは否定しなかった。
ブレッソンが呼ばれた。ファイルを抱え、灰色の顔で入ってくると、テーブルに印刷した写真を三枚置いた。フランスで撮られたものではなかった。汚れた光、高すぎる角度、粗い解像度。ブレッソンの死んだ複製とよく似た装置が三つ。ただし、訓練された目なら、ここでつくられた物ではないとわかる程度には違っていた。
やはり整いすぎ、自信に満ちすぎ、試される前から死んでいた。
「籠の構造は理解しています」とブレッソンが言った。「正確ではありません。外側の環は間違っているし、中央の空隙は対称すぎる。素材も我々のものではない。でも、全体的な方向性はあなたの形から来ています」
「私が見せてもいいとした形?」
彼はためらった。
「いいえ」
その一言を中心に、部屋が閉じた。
リーズは黒い手帳を思った。十七ページ目を。父の部屋にあった、ありえない八枚の紙を。自分が隠し、少しずつ渡し、やがて覆いの下の物体へ変わっていくのを見たすべてを。
「誰がアクセスしたの?」
ドロネーは弁解せずに答えた。
「今すぐ答えても役に立たないほど大勢です。ここにいる人間。パリの人間。管理領域を閉じる前に断片を受け取った人間。機械。印刷物。廊下にあった目。秘密が、考えているほど小さくはならない、そのすべてです」
ソレルが訊いた。
「この装置は試されたのですか?」
ブレッソンは三本の曲線を取り出した。
二本は直線。
三本目には、まだノイズにしか見えないほど小さな落ち込みがあった。
タルデューが写真を見た。
「死んだ複製」
誰もその言葉を言い直さなかった。許可など要らないほど正確に、その場へ残った。
「何も訊かずに真似るのね」とリーズは言った。
ヴォークレールが答えた。
「誰もがそうします」
「あなたたちも」
「我々もです」
「ただし、あなたたちは先に私に訊く」
「我々に誤ったやり方をさせたままなら、それも次第に減っていくでしょう」
その言葉は脅しではなかった。いや、むしろ、自ら脅しであると示すだけの礼節を備えた脅しだった。
セギュールが最初の措置を告げた。特定した経路を切断し、一部の派遣協力者を呼び戻し、複数の科学交流を停止し、機密漏洩の捜査を開始し、理解される程度には曖昧な外交的回答を準備する。
「つまり脅す」
「はい」
そう言い切ったことを、リーズはありがたく思った。
あまりに簡単に言ったことが、怖くもあった。
「それで足りなかったら?」
ヴォークレールが答えた。
「そのときは、フランスをもっと迂回しにくい国にしなければなりません」
「私の話をしているのね」
「そうです」
「また」
「これからは、常に」
「常に」という言葉が、清潔な沈黙を降らせた。
国家の口から出る言葉で、これ以上に猥褻なものはないのかもしれない、とリーズは思った。
中心
昼食の時間になって、ようやくマリアンヌへの電話を許された。
自室ではなく、何の特徴もない小部屋だった。空のテーブル、椅子が二脚、プラスチックの台に置かれた保護回線の電話。そしてガラスの向こうにはドロネー。
彼は廊下に立つと申し出た。
リーズが断った。
「聴くのなら、せめて聴いている姿を見せて」
彼は言い争わなかった。
二度目の呼び出し音で、マリアンヌが出た。
「どこにいるの?」
「ブレスト」
真実が口のなかで、奇妙な音を立てた。
あまりに単純な音だった。
「いつから?」
「数日前から」
「数日前」
マリアンヌは叫ばなかった。
本気で怒っているということだった。
「ママは知ってる?」
「知らない」
「じゃあ私は、あんたがどの町にいるかも知らずに、ママに嘘をついてたのね」
「そう」
「殺してやる」
リーズは目を閉じた。
「そうしてくれたらいいのに」
沈黙。
告白が早く出すぎた。
電話の向こうで、マリアンヌが、皿を割れる前に置く人のように息をした。
「リーズ」
「ごめん」
「違う。ごめんじゃない。よく聞いて。弁護士と話させろと言いなさい。向こうの弁護士でも、優しい声の法務担当でもなく、あんた自身の弁護士。帰れない理由を、全部書面で出させるの。それから、相手の問題を理解したからって、自分がその解決策にならなきゃいけないと思うのはやめて」
リーズはガラスの向こうのドロネーを見た。
彼は聞こえないふりをしていなかった。
「そのうちのいくつかは、もう要求した」
「いくつかじゃ足りない」
「そうね」
「違う、あんたはわかってない。昔からパパそっくり。重い物は、重いというだけで肩を入れて支える価値があると思ってる」
予想以上に急所を突かれた。
「そんなに単純じゃない」
「でしょうね。単純なら、もっと上手に嘘をついたはずだもの」
リーズは少し笑いそうになった。
マリアンヌは声を落とした。
「危険なの?」
リーズは扉を、ガラスを、電話を、自分の手を見た。
「そういう危険じゃない」
「イエスかノーで答えて」
「イエス」
「そこから出られる?」
リーズは答えなかった。
マリアンヌも黙った。
問いは自分だけで答えを見つけていた。
「わかった」と姉が言った。
その「わかった」には、リーズの知らない何かが含まれていた。恐怖だけではない。何かが動き出す音。
「何がわかったの?」
「その嘘をどの分類に入れればいいか、やっとわかった」
「マリアンヌ」
「だめ。名前を一人教えて。そこにいる人で、私が電話しても、馬鹿に話すみたいな口を利かない人」
リーズはガラスへ目を上げた。
ドロネーが指を二本立てた。
あと二分。
「ソレル」とリーズは言った。
「名前は?」
「アリアーヌ」
「役職は?」
「物理学者。ときどき、ブレーキ役」
「わかった」
マリアンヌが書き留めた。ペンの音が聞こえた。
普通の台所で響くその音に、リーズは泣きそうになった。
「もう切らなきゃ」
「違う。切ってほしいのは向こう」
「どちらもよ」
「なら、早く聞いて。あんたはあいつらの国家案件じゃない。いくらそんな匂いがしたって。大臣や軍人や、私には名前もわからない部署や、遠くから互いを監視する連中のファイルでもない。あんたは私の妹。あいつらが残りを説明するときは、まずそこから始めなさい」
リーズは答えなかった。
答えられなかった。
先に切ったのは、またマリアンヌだった。
リーズが部屋を出ると、廊下でセギュールが待っていた。
ヴォークレールもマッソンもいない。セギュール一人。それは、これから言うことが重要か、あるいは重要ではない顔をしている分、もっと危険だということだった。
「今日の午後、お姉さんはアリアーヌ・ソレルと話せます」
「もう決めたの?」
「はい」
「なぜ?」
「お姉さんの言うことには一理ある。ご家族に信頼に値する連絡相手が一人もいなければ、無用なパニックを生むことになる」
「ほかの点については?」
「おそらく、そちらも正しい。形にするのが、より難しいだけです」
リーズは壁にもたれた。
廊下には新しい塗料と、遠くで温め直された食事の匂いがした。軍事基地は、世界的な危機と生ぬるいセロリを、一息のうちに抱え込める。そのことに、馬鹿げているほど安堵した。
「帰らせてくれる?」
セギュールが答えた。
「今日は無理です」
迂回も、砂糖もなかった。
思ったより、きちんと受け止められた。
「では、私は拘束されている」
「違います」
「そうだと、よくわかっているくせに」
「はい」
彼は床を見てから、リーズを見た。
「提案があります」
「その言葉は信用していない」
「正しい判断です」
彼はファイルを差し出した。
厚くはない。
三枚。
「科学・産業主権の暫定枠組み」
リーズは表題を読んだ。
「見事ね。戸棚みたい」
セギュールは笑わなかった。
「フランス法に基づく事業会社。国が過半数を保有。当初の雇用主の持分は限定し、補償する。公的科学部門も参画。限定的な統治機構。あなたと協議して定める特定用途への拒否権。個別の身分。外部弁護士。あなたが選ぶ医師。家族との連絡を制度化。そして何より、直ちに生命を救う必要があり、かつあなたが明示的に同意した場合を除き、四十八時間、有用な夜をいっさい求めない」
リーズはもう一度読んだ。
言葉が前よりよくなっていた。
それが不気味だった。
「いつ書いたの?」
「昨夜です」
「私が眠っているあいだに」
「はい」
「私の睡眠を整えるのは、本当に上手ね」
彼は動かずに受け止めた。
「はい」
リーズは、言い訳してほしかった。
「拒否したら?」
「それでも枠組みはつくられます。もっと粗末に、あなたの関与も少ない形で」
「脅しね」
「はい」
「上達したわ」
「誇りには思いません」
リーズは信じた。
それで何かが修復されたわけではない。
大部屋には、まだ世界地図が映っていた。線が出ていき、戻り、フランス沿岸の小さな一角と、よく眠れなかった一人の女の上で交差していた。
ヴォークレールがルセルフへ何か言っている。
タルデューとブレッソンは、死んだ複製の写真を覗き込んでいた。
ソレルは欧州側の要約を取り戻し、まだ言葉を消し続けていた。
マッソンは、同じ現実を少しだけ汚れの少ない文章にしていた。
ドロネーは、鋳塊が落ちるのを見た清掃員、ナデージュのことで誰かに電話していた。
縮小された国全体が、彼女のまわりで働いていた。ただ敵対しているのでも、ただ彼女のためでもない。まわりで。
そのほうが危険なのかもしれなかった。
セギュールも、彼女の視線を追った。
「フランスはゲームの中心にいます」
勝利の宣言のように響くはずの言葉だった。
だが、その口調は診断だった。
リーズは地図の線を見た。
「違う」
「違う?」
「人は中心に置かれたりしない。取り囲まれるのよ」
セギュールは答えなかった。
外の、壁の向こうのどこかでは、何も変わっていないかのように、停泊地がその質量を、船を、クレーンを、秘密を支えていた。
画面では、すべての線がフランスへ戻ってきた。
部屋では、すべての言葉が彼女へ戻ってきた。
第14章
世界は形を変える
模型
四十八時間、彼らは約束を守った。
一晩を求めることも、新たなヴァリエーションを彼女の部屋へ近づけることも、追加条件や欄外の追記や、例外に化けた緊急事態を記した紙を扉の下から差し入れることもなかった。
代わりに、もっと悪いことをした。
世界を見せたのだ。
大きな世界ではない。縮尺模型、折り畳まれた覚書、地形断面図、埠頭の設計図、保険料率表、救助手順、軍用地図のなかの世界だった。それはまだ街へ出ておらず、公の名前もなかった。それでもすでに、閉ざされた部屋から部屋へ、テーブルからテーブルへ、真面目な人々の指の下を移動し始めていた。
休止一日目の朝、セギュールはリーズを、彼女がまだ見たことのない部屋へ連れていった。
細長く天井が低い、中心となる画面のない部屋だった。中央では三台の大きなテーブルが縦につなげられ、その上に白い模型が置かれていた。一見すると子供じみていたが、その白さを不気味にするほど精密だった。
埠頭、高架橋、倒壊した建物、船体、泥濘地にはまった装甲車、そして端には、住民のいない小さな町。
「これは何?」とリーズは訊いた。
タルデューが答えた。
「効果の想定場面です」
「その言葉、滑っているわ」
彼女の後ろから入ってきたマッソンは、もうペンを構えていた。
タルデューは反論しなかった。
「では、起こりうる世界です」
「もっと悪い」
埠頭の模型のそばに立っていたブレッソンが、より静かに言った。
「本当に何かを壊す前に、何が壊れるかを見るための方法です」
リーズはそれを受け入れた。
安心できたからではない。少なくとも、そこには恥じる気持ちがあったからだ。
ソレルもいた。腕を組み、顔を閉ざしている。この部屋を嫌っていた。模型がすでに何か過ちを犯したかのように眺めていることで、それとわかった。
「始める前に確認します」と彼女は言った。「産業用モジュールも、信頼できるシリーズもありません。弱いヴァリエーションが数点と最初の物体が一つあるだけで、安定した再現にも至っていない。ここで語られるのは枠を設けた仮説であって、約束ではありません」
ヴォークレールは音声だけで参加していた。
スピーカーから声がざらついた。
「約束など誰も口にしていない」
「だからこそです」とソレルが言った。「誰も約束を口にしないとき、それは別の場所で形になり始める」
リーズは最初のテーブルを見た。
小さな埠頭には、白いコンテナ、クレーン、線路の一部、艀があり、ほかより大きな三つのブロックが重量物を表していた。地面の黄色い帯まで描いてある。
その小ささへ注がれた丹念さを見て、外へ出たくなった。
「港から始めます」とセギュールが言った。
当然だった。
危機対応のCG制作者が港を白い四角へ縮めるより前、リーズの父は港で物を担いでいた。
埠頭
模型を説明した男は、軍人ではなかった。
それが意外だった。
五十代くらい。ウールの上着に皺の寄ったシャツ、厚い手。長い事務職生活にも、河口地方の訛りは完全には削られていなかった。特別守秘義務下に置かれた港湾専門家だと、セギュールは紹介した。
肩書は覚えなかった。
手を覚えた。
「効果を局所に限定し、制御できるなら、最初に衝撃を受けるのは輸送ではありません。荷役です」
彼は小さなガントリークレーンを動かした。
「現在、重量港湾の地理を決めるのは、設備、喫水、クレーン、強化岸壁、鉄道接続、所要時間です。見かけ上の重量の一部を、たとえ一時的でも調整できるなら、これまで排除されていた作業に、いくつかの二次港も加われる」
マッチ箱ほどの白いブロックを取った。
「変圧器、橋梁部材、船舶部品、タンク、分解したトンネル掘削機」
小さすぎる埠頭にブロックを置いた。
「世界が軽くなるのではありません。古い隘路に、以前ほど忠実ではなくなるのです」
いい表現だ、とリーズは思った。
そして、いい表現はすべて危険になるのだと思った。
「大きな港は?」とルセルフが訊いた。
「力は保ちます。ただし、不可能を独占する力の一部を失う」
セギュールが書き留めた。
おそらくヴォークレールも、どこかで。
リーズは白い埠頭を見て、別のものを見ていた。オレンジのベストを着た男たち。風のなかで身につけた動作。荷重を受け損ねれば容赦はないと、ずっと昔から知っている身体。
「人は?」と彼女は訊いた。
港湾専門家は顔を上げた。
「どの人です?」
その問いは、すでに計算から身体を取り除いていた。
彼もすぐに気づいた。
「港湾労働者。クレーン運転士。重いからこそ、扱い方を知っている作業班」
彼は小さなブロックを置いた。
「変わる職種もあるでしょう。より重要になる職種もある。安全管理、固縛、誘導、効果の制御……」
「自分が何を言っているか、聞こえてる?」
彼の反応は正しかった。黙った。
セギュールが訊いた。
「差し迫った社会的リスクはありますか?」
男は答える前に、リーズを見た。
「理解されるより先に公になれば、あります。重量物荷役に携わる者の一部は、自分たちの技術が無用になったと思うでしょう。別の者たちは、馬鹿げた納期を守るために腰を壊すのが、やっと終わると思う。どちらも正しい」
すぐには誰も書き留めなかった。
リーズはそれをありがたく思った。
「父は港湾労働者でした」
なぜ、ここでそれを口にしたのかはわからない。
小さな埠頭に、死者をもう一度立たせるためだったのかもしれない。
専門家は目を伏せた。
「なら、ご存じでしょう」
「質量を楽にする世界が、質量を尊重して一生を過ごした人間を辱めることもある。それは知っている」
ソレルがリーズを見た。
マッソンはその一文を書き留めた。
リーズは止めなかった。
テーブルの端に、起こりうる影響をまとめたメモがあった。
再編される港湾。
移動する物流網。
見直される地価。
社会的リスク。
再計算を要する保険。
一行だけ手書きで加えられていた。
「勝つ港/負ける港」
リーズはマッソンのペンを取り、斜線を消した。
代わりにこう書いた。
「勝つ人、負ける人」
誰もペンを取り返さなかった。
瓦礫の下
三つ目のテーブルには、倒壊した建物があった。
それほど高くはない。六階建てくらいだろう。
コンクリート板が、雑に重ねられたカードのように折り重なっていた。空隙には青い印がつき、遺体があると想定された箇所には赤い点が打たれていた。
リーズは見たくなかった。
それでも見た。
市民安全部門の女性が話し始めた。短い髪、濃紺の制服、誇張のない顔。魅了されているようには見えなかった。それだけでも大きかった。
「私たちにとって最大の効果は、完全に持ち上げることではありません。床版の下で、一分を稼ぐことです」
ソレルがうなずいた。
「赤い架台のときのように」
「もっと小さく、もっと汚く、もっと制御できない状況で。地震。学校の倒壊。トンネル。岩塊を伴う雪崩。鉄道事故。適切な瞬間に支持荷重を十、十五、二十パーセント取り除ければ、生存可能時間が変わる」
古い言葉が戻ってくるのを、リーズは感じた。
持ち上げるんじゃない。
殺させないんだ。
女性は青い空隙に指を置いた。
「たとえば、ここ。床の下に子供が二人。現在なら支保工を組み、切断し、床版が動かないよう祈る。あなたの装置が……」
「違う」とリーズが言った。
言葉が勢いを真っ二つにした。
女性は彼女を見た。
「何ですか?」
「『あなたの装置』じゃない」
自分の声がいかに硬いか聞こえたが、後悔はしなかった。
「装置でも、現象でも、効果でも、好きに呼べばいい。でも、子供をその下へ置くときに、私のものと呼ばないで」
女性は軽く頭を下げた。
「わかりました」
言い張らなかった。
そのことが、かえって痛かった。
「そうした条件でも効果が存在するなら、専門班を構想できます。建物を持ち上げるためではない。重量から数分を盗むために」
スピーカーから、ヴォークレールが訊いた。
「訓練は必要ですか?」
「膨大に。それも技術面だけではありません。助けようとして倒壊を悪化させかねない道具を救助隊へ渡すなら、強く期待しすぎない方法を教えなければならない」
ソレルが呟いた。
「そこです」
リーズは模型を見た。
赤い点は小さすぎた。
子供には見えなかった。
だからこそ、会議へ持ち込めるのだ。
「罠がわかる?」とリーズは訊いた。
市民安全部門の女性は、とぼけなかった。
「はい」
「どんな罠?」
「遺体を見せることは、あなたを奪うことです」
そのあとの沈黙は、役所の沈黙ではなかった。
人間の沈黙だった。だから、もっと危険だった。
リーズはル・ビアンを思った。
ケルブラを。
最初の逸脱を拒めなくした二つの名前を。
「それでも、あなたはやる」とリーズは言った。
女性は答えた。
「はい」
残酷さでも、戦略でもない。彼女は職業人生を通して、重すぎる物の下にいる人々を探してきたのだ。
リーズは一歩下がった。
セギュールが、説明を中断させようと身振りをした。
リーズは手を上げた。
「いいえ。続けて。罠がまだ本当の形をしているうちに、見ておきたい」
ソレルが椅子の背に手を置いた。
リーズではなく。
椅子に。
彼女の隣にある物へ触れることだけが、彼女へ触れずにいる正しい方法であるかのように。
泥の地図
軍用テーブルは、もっとも細部が少なかった。
その簡素さには、慎み深さなど何もなかった。
意図的だった。
茶色い地面、いくつかの斜面、水を示す三本の青い線、道路を示す灰色の板、標識のない小さな装甲車が二台、匿名の形まで簡略化された船体が一つ。戦域も装備も国も、特定できるものは何もなかった。
その努力には、リーズも少し感心した。
マレスコが戻ってきていた。
主役としてではなく、有用な証人として。赤い架台の夜以来、左腕にはまだ硬さが残っていた。あるいは、ただの疲労かもしれなかった。隣では国防装備総局の士官が、両手を背中で組んでいた。想像が先走ったときにも、それを見せないよう訓練された男のように動かない。
「攻撃用途から始めるわけではありません」と士官は言った。
ソレルが一度、愉快さのない笑い声を上げた。
「どこから始めようと勝手ですが、いずれそこへ着きます」
士官は反論しなかった。
そのことが、かえって彼を不気味にした。
「ええ。ですが、そこへ至る道筋は重要です」
彼は装甲車を茶色い区域へ動かした。
「劣悪地盤での機動。車両の回収。一時的な渡河・通過。大規模設備を用いない艦船からの揚陸。構造物の保護。機密装備の退避。滑走路の補修。海上での装備の安定化。効果が部分的でも、ドクトリンは動きます」
「証明より先に」とリーズが言った。
「完全な証明より先に動くものです」
「安心したわ」
「安心できる話ではありません」
事実を述べる口調だった。
マレスコが口を開いた。
「問題は、ヴァレンヌさん、赤い架台の夜が、すでに現場の人間へ映像を与えたことです。正しい映像ではないかもしれない。だが映像は残った。世界が八センチ減った。忘れはしません」
「あなたも」
「ええ」
彼は目を伏せなかった。
「忘れると言えればよかったのですが」
リーズは信じた。
国防装備総局の士官は、小さな装甲車を泥の外へ動かした。
「特定の瞬間に重量の一部を取り除ける軍隊は、地形との関係が変わります。弱い橋、軟弱地盤、瓦礫、障害物、掩蔽壕。すべての意味が変わる」
「人も」
彼は動きを止めた。
「そうです」
「穴から助け出してもらえるかもしれないと知った兵士は、もっと危険を冒す。部下を救出できるかもしれないと知った指揮官も、もっと危険を冒す。それで失敗したら、何と言うの? 夜の具合が悪かったと?」
言い終えた瞬間、踏み込みすぎたとわかった。
ソレルが目を閉じた。
マレスコの顔から血の気が引いた。
気分を害したからではない。同じことを考えていたのに、彼女自身の口から言わせたくなかったのだ。
「そんなことは言いません」
「あなたはね」
「ええ。私は言わない」
スピーカーからヴォークレールが割って入った。
「まさにそのため、ドクトリンによって使用状況を限定しなければなりません」
リーズは機器のほうを向いた。
「もう戻ってきた」
「何がです?」
「使用という言葉」
「ええ」
「何の代わりかわかっているでしょう」
「救助」
覚えていたことが憎かった。
忘れていたなら、さらに憎かっただろう。
「なら、すぐに負けさせないで」
ヴォークレールは答えなかった。
セギュールが言った。
「この部門の表題に、『救助』という言葉を入れます」
国防装備総局の士官が、かすかに動いた。
セギュールは彼を見た。
「ええ、わかっています。範囲が狭くなる。それが目的です」
リーズは少し息がしやすくなった。
泥の地図では、模型の装甲車が轍から抜け出していた。
けれど、それを運んだ手は見えなかった。
代価
午後には、模型が撤去された。
部屋の暴力性も薄れるだろうと、リーズは思った。
間違っていた。
今度は数字が持ち込まれた。
すべてではない。それでも、別のやり方で部屋を汚すには充分だった。
ベルシーから来た女性、保険業界の代表、公的再保険の法律家が、屋根から煙も出ないうちに火事の規模を測りに来た人々のように、彼女の前へ座った。リーズは名前を覚えなかった。代わりに動詞を覚えた。見直す、補償する、制限する、保証する、価値化する。
どの動詞も暗い色のスーツを着ているようだった。
「差し迫った問題は、生み出される富ではありません」とベルシーの女性が言った。「富が生まれるという噂です」
「国を売り込まずに説明して」
女性は彼女を見て、受け入れた。
「重量物の支持技術が存在すると市場が信じれば、公の証明がなくても、企業の価値は理由が理解される前に上がり、あるいは下がります。荷役、特殊輸送、土木、防衛、保険。誤解によって富を得る者が出る。まだ何も起きていないうちに、生計の道具を失う者も出る」
「私に何ができるか、もう賭けが始まるから」
誰も言い直さなかった。
保険会社の男がファイルを開いた。
「効果が一人の人間に依存する場合、その人にすべての責任を負わせずに、どう契約へ記載するのか?」
「記載しなければいい」とリーズは言った。
法律家が答えた。
「そうすれば、契約では何も補償されません」
「すべてが補償される必要はないのかもしれない」
橋の欄干を外そうと提案したかのような目で見られた。
ベルシーの女性が、今度は穏やかに続けた。
「補償のない領域は、空白のままではいません。投機家、軍人、場当たり的な保険業者、そして危険の代価を他人に払わせるのが非常に巧みな者たちを引き寄せます」
リーズは、この女性を少し好きになりかけた。少なくとも、話を聞こうと思う程度には。
そこで、業界を列挙するのはやめになった。意味がなかった。重量を中心に築かれたものは、すべていずれ自分の場所を要求する。港、橋、救助、建設現場、保険、充分に大きなクレーンも、テーブルの端に座るフランス人女性へすぐ接触する手段もない国々。
置かれるものに対して、テーブルが短すぎるように見えた。
リーズは休憩を求めた。
認められた。
ソレルと廊下へ出た。
外ではない。外は依然として、ややこしい特権だった。
開かない窓のそばで立ち止まった。風になぶられる四角い芝生が見え、その先には、二棟の建物のあいだから停泊地の一部が覗いていた。
「要約は?」とソレルが訊いた。
リーズは力なく笑った。
「本当に、それを私に訊くの?」
「ええ」
リーズは芝生を見た。
「以前なら、物が重いとき、少なくとも何が問題なのかについては全員が同意していた」
ソレルは答えなかった。
「今後、もし実用化されたら、重量そのものが決定になる。誰が軽くするのか。いつ。誰のために。いくらで。誰の権限で。どんな危険を負って。それでも皆、質量の話をしているふりをする。権力の話をするより、そのほうが猥褻さが少ないから」
物理学者は、言葉が居場所を見つけるまで、しばらく黙っていた。
それから言った。
「書いてください」
「どこに?」
「あらゆる場所に」
その晩、リーズは黒い手帳を開いた。
その夜は何も描かなかった。
こう書いた。
「軽くすることと、解放することを混同しない。」
その下に、
「物の重量が減るから、世界が形を変えるのではない。どれだけの重量を残すか、誰かが決めるようになるから変わる。」
読み返した。
その言葉は、彼女には大きすぎた。
あるいは、一日が彼女を小さくしてしまっただけかもしれない。
十八号室では、壁の向こうにヴァリエーションが待ってはいなかった。
何日もの夜を経て、初めて有用に眠ることを求められなかった。
明かりを消した。
闇が来た。
空っぽではなかった。港、床版、契約、小さなコンクリート模型の下にいる架空の子供たち、そして重力が交渉を始める世界でクレーンがいくらになるか、すでに知っている事務職の男たちで満ちていた。
リーズは朝まで目を開けていた。
第15章
リーズの身体
体重計
明け方、ソレルが十八号室へ入ると、リーズは服を着て靴まで履き、ベッドの端に腰かけていた。膝の上には黒い手帳が開かれていた。
眠れたかとは訊かなかった。
リーズがそれに気づくほど、事態は深刻だった。
「ひどい顔ね」とソレルが言った。
「あなたも」
「私は今に始まったことじゃない」
冗談は一秒もった。
それ以上は続かなかった。
十八号室へ朝の光がまっすぐ入ることはなかった。開度を制限された窓の向こうに、白っぽい空と停泊地の一部、土手の上端が見えた。机を見なければ、休養室だと思えただろう。手帳が二冊、ペンが三本、封をされた封筒、夜のうちに取り替えられた水差し、手つかずの食事、裏返しに置かれた無題の経過観察表。
ソレルは食事を見た。
「食べていない」
「忘れてた」
「違うでしょう」
リーズは手帳を閉じた。
「わかった。食欲がなかった」
「いつから?」
「世界中が私の実験台へ乗りたがるようになってから」
ソレルは答えなかった。扉を開けると、看護師が医療鞄を持って入ってきた。ほとんど儀式のようなゆっくりした動作で、机へ置いた。
「立って」
「何ですって?」
「立って。この人が検査します」
「あなたは私の医者じゃないと言ったでしょう」
「違います。今朝、ブレーキ役は立会人に徹します」
リーズは抗議しかけた。
身体に止められた。
立ち上がると部屋が半度傾き、椅子の背へ手を伸ばさずにはいられなかった。
ソレルは見た。リーズが証人を残したくないと思ったものを、彼女はすべて見ていた。
「めまい?」
「違う」
ソレルは、真実が出るまで待った。
「ええ。少し」
「吐き気は?」
「ない」
ソレルが見つめた。
「ある」
看護師は笑わなかった。血圧計、体温計、小さな指先型パルスオキシメーターを取り出し、最後に薄い体重計を、馬鹿げるほど丁寧に床へ置いた。
ほかの物より、その体重計が怖かった。
数字が怖いのではない。この二週間、重要な物はすべて、それまでとは違う重さを持つようになっていた。
「それは嫌」とリーズは言った。
ソレルが動きを止めた。
「なぜ?」
「キロ単位で表示されたくないから」
硬く、ほとんど馬鹿げた答えだった。それでもソレルは一歩下がった。
「わかりました。別の形で記録できます」
「知る必要があるの?」
「ええ」
「なぜ?」
「食事量が減り、睡眠不足が続き、一週間もたたないうちに三度も有用な夜を過ごした。昨日から頭痛があり、自分の身体が別の答えを出しているのに、ノーと答え始めているからです」
リーズは短く笑った。
「体重計一つに、ずいぶんな科学ね」
「科学というより、気にかけているんです」
その言葉は、二人のあいだの居心地の悪い場所へ収まった。
記録などしようとしない気遣いなら、リーズも知っていた。ある朝、片頭痛を起こした彼女に、ハサンは作業台の隅から水と錠剤を二つ押して寄越し、そのまま何も言わずに立ち去った。人前で世話を焼かれるのを、彼女が嫌うと知っていたからだ。それも手当てだった。だが、誰も書類にはしなかった。青ざめた額から、次の夜の手順を導き出したりもしなかった。
監視は制服を着ていた。気遣いは黒いセーターに赤い目をして、測り方を知る人間を連れてきていた。
そのほうが、拒むのが難しいこともあった。
リーズは体重計に乗った。
看護師が数字を見た。ソレルも。
ソレルはすぐに書こうとはしなかった。
そのためらいのほうが、記録されることより確実にリーズを傷つけた。
「いくつ?」
「到着時の記録より二・八キロ減っています」
「到着時の記録」
「ええ」
「じゃあ、もう体重を量っていたのね」
「最初の夜、医務室で」
「覚えているはずよ」
「あの夜のすべてを覚えているわけではありません」
誰かを責める言葉ではなかった。
だから、もっと悪かった。
自分の身体が、すでに自分抜きで扱われていた夜の領域が開いた。
看護師が体重計を片づけた。
「外部の医師を頼みます」
「もう私の医者がいるの?」
「心当たりがあれば、あなたが選んだ人にします」
「かかりつけ医はサン=ナゼールにいる。鉄剤を出して、水を飲まない患者を叱る人」
「いい出発点かもしれません」
「機密取扱資格がない」
ソレルは肩をすくめた。
「なら、現実のほうに資格を与えましょう」
リーズは彼女を見た。
「ときどき、ほとんど危険なことを言うのね」
「周囲の人選が悪いので」
今度の笑みは、少し長く続いた。
やがて左目の奥の痛みが戻った。
小さな熱い釘。
リーズは瞬きをした。
遅すぎた。
ソレルは見ていた。
改善された部屋
昼食のころ、十八号室はまた変わっていた。
目に見える命令によってではない。善意によって。
そのほうが陰険だった。
マットレスは厚い物に替わっていた。ベッド脇には明るさを調節できるランプが置かれ、カーテンは二重になっていた。机の上の昼食には、温かいスープ、米、白身魚、果物のピューレ、小瓶のミネラルウォーター、そして報告書のなかでは誰もそう呼ぼうとしないだろう、ハーブティーが一杯載っていた。
柔らかなセーター、新しい靴下、未開封の歯ブラシ、リップクリームまで用意されていた。
リーズは戸口からすべてを見た。
「嫌」
同行していたドロネーは、何が嫌なのかとは訊かなかった。
学び始めていた。
「撤去させられます」
「それが問題じゃない」
「そうでしょうね」
「あなたにはわからない」
彼は持っていた書類ケースを机へ置いた。
「おっしゃるとおりです」
彼にもまた、言い返してほしかった。
突然、至るところに快適さがあった。贅沢ではない。彼女に合わせた快適さ。それがいっそう悪かった。
身体がどこで屈するか知るほど細かく観察した、と証明する種類の快適さだった。平らでは眠れないから、高めに置かれたクッション。吐き気が戻るから米。片頭痛で光の輪郭が鋭くなるからランプ。朝の停泊地が彼女を眠らせないから二重のカーテン。改善の一つ一つが言っていた。あなたを見ている。同時に、こうも言っていた。長もちしてもらわなければ困る。
リーズは部屋に入った。
セーターを指先で触れた。
「誰が頼んだの?」
「ソレルが体調を報告しました。身体に関するものは医療班、それ以外は施設管理です」
「施設管理が私の唇を心配したの?」
ドロネーは答えなかった。
なら、違う。
リップクリームを取り、蓋を開け、また閉めた。
「ソレルに、私は保守管理する設備じゃないと伝えて」
「彼女はわかっています」
「それでも伝えて」
「わかりました」
彼が出ようとしたとき、リーズが訊いた。
「ナデージュは?」
彼は立ち止まった。
「見つかりました」
「行方不明だったみたいに言うのね」
「行方不明ではありません」
「尋問された?」
「短時間だけ」
「誰に?」
「企業グループの保安部門、そのあと我々が」
「何を知っているの?」
ドロネーは扉から目を離さなかった。
「質量物が落ちるのを見た。あなたが怪我をした。残りは自分に関係がない。それが彼女の説明です」
リーズはようやく息をつきかけた。
「嘘は上手?」
「非常に」
「面倒なことになる?」
「全員が賢明でいれば、なりません」
「なら、なるかもしれない」
彼はリーズへ顔を向けた。
「ならないようにします」
行政の言葉にしては、あまりに個人的だった。
彼女はそのまま受け取った。
「ありがとう」
ドロネーは居心地が悪そうにした。
似合わない表情だった。そのせいで、人間らしく見えた。
彼が出たあと、リーズは食事の前に座った。
まだ食欲はなかった。
それでも食べた。
彼らを喜ばせるためでも、彼らの装置を維持するためでもない。温かいスープによって、自分には口と胃があり、疲労はデータではないことを思い出した。そして、インフラだってインフラになる前には、何かを飲み込まなければならない。
四匙目で、泣きたくなった。
五匙目で、スプーンを置いた。
裏返された経過観察表に、こう書いた。
「快適さは、捕らえる方法にもなりうる。」
ためらってから、続けた。
「手当てにもなりうる。」
二つの文をまとめて囲んだ。
どちらが自分を救うのか、わからなかった。
ケラフ弁護士
弁護士は、大部屋とは別の、飾り気のない小部屋に置かれたコンピューターの画面に現れた。灰色の壁二面に挟まれ、何も語らないという理由で選ばれたような植物が一鉢あった。
リーズはソレルの同席を求めた。
弁護士は、それ以外の誰も同席させないよう求めた。
セギュールは承諾した。
そのことだけで、リーズはかえって警戒を深めそうになった。
画面のノラ・ケラフ弁護士は短い髪に長方形の眼鏡をかけ、低い声で話した。カメラを見つめるその目は、レンズではなく、本当に相手を見ているように感じられた。マリアンヌが名前を挙げたのだという。公法を扱った経歴があり、自由権訴訟、強制的医療、国防機密の事件を手がけてきた。それが、セギュールの説明だった。慎重な口調だったが、真剣な相手と話せることへの安堵を隠しきれていなかった。
機密取扱資格を得させるまで、どれほど時間がかかったのだろうと、リーズは考えた。
そして、まだすべての資格を与えたわけではないのだと気づいた。
まず話し始めたのだ。
「ヴァレンヌさん」と弁護士が言った。「最初にいくつか確認します。いつでも遮ってください。ご希望ならアリアーヌ・ソレルさんは同席できますが、あなたの代理人ではありません。彼女はこの枠組みの内部にいます」
ソレルが言った。
「はい」
弁解も、留保もしなかった。その「はい」が彼女に何かを強いていると、リーズにはわかった。
「ここにいてほしい」とリーズは言った。
「わかりました」とケラフ弁護士が答えた。「最初の質問です。あなたはこの施設を出られますか?」
リーズはソレルを見た。
ソレルは動かなかった。
「いいえ」
「それを告げる書面を渡されましたか?」
「いいえ」
「具体的な法的扱いを通知されましたか?」
「何枚か紙を渡された」
「何が書かれています?」
「いろいろ」
「読ませていただきます」
「ええ」
「自由に使える電話はありますか?」
「いいえ」
「通話は監視されていますか?」
「はい」
「診察を拒否したことは?」
「まだない」
「それだけですでに警告信号です」
リーズは少し笑いそうになった。
「姉を知っているの?」
「二十三分、話しました。あなたは何か馬鹿なことをしそうになると、冗談を言うそうですね」
「裏切り者」
「保護です」
その区別は、しかるべき場所へ収まった。
弁護士は書き留めた。
「率直に申し上げます。ここで起きていることの一部は、緊急性、機密、国家安全保障、そしてあなた自身の保護を理由に正当化できるでしょう。しかし別の一部は、全員が礼儀正しく、善意の理由を持つ人がいたとしても、きわめて短期間で違法になりえます。私の仕事は危険を否定することではありません。危険を理由に、あなたが溶かされてしまうのを防ぐことです」
リーズはその言葉を聞いた。
溶かされる。
没収される、よりも正確だった。音を立てず、より大きな損害を残すからだ。
「拘束していないと、あの人たちは言う」
「なら、なぜ外へ出られないのか、書面で説明できなければなりません」
「書いたら?」
「どの扉を攻めればいいか、わかります」
ソレルが目を伏せた。
リーズは見逃さなかった。
「同意しているの?」
物理学者は答えるまでに時間をかけた。
「同意しているかは、わかりません。必要だということはわかります」
ケラフ弁護士はソレルを見た。
「ソレルさん、あなたにも質問します」
「でしょうね」
「とりわけ睡眠記録、拒否が可能だったか、そして手当て、観察、生産の区別について。健康診断については医師に求めます」
最後の一語で、再び冷気が戻った。
生産。
誰も彼女について使っていないときでさえ、道を見つけて戻ってくる。
リーズはテーブルの下で両手を握った。
弁護士は気づいた。
何も言わなかった。
それでよかった。
「ヴァレンヌさん」と弁護士が続けた。「結果を得るために眠るよう求められましたか?」
「はい」
「承諾しましたか?」
「はい」
「自由な意思で?」
リーズは笑った。
「わからない」
「そう。それが唯一の正直な答えです」
ソレルが目を閉じた。
三人を囲む部屋の様子が変わった。どんな法律もまだ何一つ救ってはいない。それでもついに、誰かが不確かさを正しい場所へ書き込んだのだ。
面談の終わりに、ケラフ弁護士が訊いた。
「何か症状はありますか?」
リーズは答えた。
「ありません」
ソレルが顔を向けた。
リーズは三秒耐えた。
「片頭痛。吐き気。めまい。二・八キロの減量。よく眠れない。残りについては嘘をついている。私の疲労を利用して、代わりに決められるのが怖いから」
そのあとの沈黙は、その日初めての、本当に役に立つ沈黙だった。
弁護士が言った。
「ありがとう」
協力や信頼を大仰に示すことのない、ただの「ありがとう」。自分の勇気の後ろへ消えずにいてくれた人へ、礼を言うような。
リーズは眠りたくなった。
前日以来、初めてだった。
センサー
センサーを提案されたのは、夕方の早い時間だった。
電極ではない。彼らは学んでいた。少なくとも、拒絶の表層だけは。
ソレルが軍医、看護師、トレーに載せた灰色の箱とともに来た。軍医はモローと名乗った。五十代で穏やかな顔立ちをし、命令したくないという思いが強すぎて、結局は穏やかに命令する声になっていた。
リーズは三十秒、彼を嫌った。
やがて彼は言った。
「現象を理解するために来たのではありません。あなたが今、身体を壊しつつあるのか確かめに来ました」
少しだけ、嫌悪が薄れた。
箱には測定用リストバンド、指先の酸素飽和度センサー、体温測定パッチ、夜間の心拍を記録する小型装置が入っていた。
「嫌です」とリーズは言った。
誰も驚かなかった。
少し腹立たしいほどだった。
モローはうなずいた。
「わかりました」
「それだけ?」
「拒否されたのですから」
「受け入れるの?」
「はい」
「そのあとで?」
「拒否によって医学的評価が難しくなると記録し、あなたが危険を冒していると私が考える理由を説明します」
「きれいな罠ね」
「残念ながら、ありふれた罠です」
ソレルが書類をテーブルに置いた。
「リーズ、最低限の測定もなければ、明日、あなたの拒否のせいで同意能力があるか判断できないと、彼らは言います」
「私たち」とは言わなかった。
「彼ら」と言った。
リーズは気づいた。
「センサーをつければ?」
「測定値が存在するから、より正しく判断できると言います」
「どちらにしても、私の負け」
「ええ」
モローはソレルを見た。
責めているのではなかった。自分の目の前で、本当にそう言うことを選んだのか確かめていた。
彼女は選んだ。
リーズは座った。
疲労が突然、太腿を突き抜けた。すでに別の誰かが済ませた動作だけで、自分ができているように感じた。
「カメラはなし」
「カメラは一切ありません」とモローが言った。
「音声も録音しない」
「しません」
「私の弁護士を通さず、このチームの外へデータを渡さない」
モローはソレルを見た。
ソレルが答えた。
「書面にします」
「夜中に起こさない」
「医療上の緊急時を除きます」とモローが言った。
「緊急時を定義して」
彼は定義した。
完璧ではなかった。
それでも、応援に呼ばれたマッソンが、最初から網にしか見えない文言を避けて書ける程度には、誠実だった。
リーズは読んだ。
二語を直した。
それから腕を差し出した。
看護師が左手首にリストバンドを巻いた。
プラスチックが肌に触れた瞬間、ほとんど子供じみた、生理的な嫌悪が走った。
その手首は、以前は別の仕方でつかまれていた。道を急いで渡ろうとしたとき、父に。一度だけ、指をひどく切って、馬鹿げた血圧低下を起こしたとき、脈を確かめるためロマンチックな意味などなく、ハサンに。そして何より、自分自身に。暗闇のなかで、自分がまだ自らの形の後ろへ消えてはいないという証拠を探すときに。リストバンドは、ただ清潔な物体にすぎなかった。だが、その清潔さそのものが、接触を猥褻にした。
物に罪はなかった。それが告げるもののせいで、腕を引き抜きたくなった。
最初の夜、彼らは夢を待っていた。
その次に、夜を整えた。
今度は彼女の睡眠を、重要施設のように装備していた。
「生産のためではありません」とソレルが言った。
リーズはリストバンドを見た。
「ここではすべてが生産のためになる。そういう目的でつくられていないものまで」
ソレルは答えなかった。
モローも。
少なくとも沈黙は、彼女を否定しなかった。
その夜、リーズは二時間四十分眠った。
リストバンドが知っていた。
彼女も知っていた。
翌朝、グラフが印刷された。
リーズは手に取らず、眺めた。
睡眠の段階。
覚醒。
心拍の上昇。
低下。
身体が、また一本の曲線になっていた。
「夢は見た?」と彼女は訊いた。
モローが答えた。
「センサーではわかりません」
「まだ、ね」
誰もその言い方を好まなかった。
彼女自身も。
釣り針
翌日、朝食より先に、ある物が届いた。
技術的な物体ではない。クラフト紙の封筒だった。パン、ヨーグルト、果物のピューレ、そしてモローがどうにか飲ませることに成功した二錠のカプセルとともに、トレーへ置かれていた。封筒に貼られた白いラベルには、印刷された三語があった。
「安眠補助資料」
リーズは長いあいだ見つめた。
パンには触れなかった。
封筒にも触れなかった。
十八号室はこの数日、こうした危険な心遣いをつくるのがうまくなっていた。よりよい位置に置かれた椅子。白さを抑えた明かり。低くした枕。医療食らしくないトレー。彼女をいたわるように見えるものはすべて、次の夜に向けて身体を配置する手段になりえた。
だが、これは手当ての匂いがしなかった。
二分後、ソレルが書類を抱えて入ってきた。封筒を見ると、ぴたりと立ち止まった。
最初の有用な反応。
「あなたじゃないのね」とリーズは言った。
「違います」
「モロー?」
「違う」
ソレルは、と思うとはつけ加えなかった。
二つ目の有用な反応。
封筒から目を離さずにドロネーを呼んだ。彼は手袋をして来た。そのせいで果物のピューレまで、犯罪現場の一部に見えた。
「誰が入ったの?」とリーズが訊いた。
「六時の交代以降は、誰も」とドロネーが答えた。
「なら、トレーね」
「おそらく」
彼は封筒を開けた。
中にはコピーが入っていた。
灰色がかり、少し斜めになった粗悪なコピー。それでも父の筆跡だとわかった。晩年の、遅く震える文字ではない。工事現場の手帳に書いていたころの字だった。余白の数字、小さな枕木の略図、赤いフェルトペンで引かれた二本の矢印。そして、図面があまりに整いすぎていると感じたとき、父がよく記した一文。
「本当に支えているものは、図面には現れない。」
リーズは胃が閉じるのを感じた。
コピーの下には、片づけられた部屋の写真があった。部屋全体ではない。テーブルの隅。閉じた黒い手帳。父の欠けたカップ。医療保険の封筒の端。何もかも無害に見えるよう、誰かが構図を選んでいた。だからこそ、写真は猥褻だった。
「どこで、これを手に入れたの?」
ドロネーはすぐには答えなかった。
ソレルを見た。
それから言った。
「押収物からか、押収物の複製からです」
リーズは音もなく、一度笑った。
「押収物の複製。当然ね」
ソレルが訊いた。
「このページを見たことは?」
「ある」
「最近?」
「いいえ」
「あなたの形と関係がありますか?」
リーズはノーと言いかけた。
そのノーはもう用意されていた。ある種の優雅ささえあった。父を、部屋を、証拠物件になってほしくない記憶にまつわる小さな羞恥を、守れるはずだった。
だが彼女の口を出たノーは、誰かの新たな道具になる。
「わからない」
今度はモローが呼ばれた。
白衣を着ずに来たのは正しい判断だった。封筒を見て、リーズを見て、その手首のリストバンドを見た。
「私のチームは、誰もこれを要求していません」
「安心していいの?」
「いいえ」
彼は椅子を引いたが、座らなかった。
「彼らは、これを情緒的支援と呼ぶのかもしれません。親しいイメージ、連続性を保つ物、眠りを助ける何か」
「彼らって?」
「睡眠を錠前だと思い、親密なものを鍵だと思う人々です」
リーズは彼を見上げた。
彼は早口になっていた。
患者を安心させるため、医師が即興で比喩をつくったような口調ではない。
手法を知っている人の話し方だった。
「見たことがあるの?」
モローは顎に力を入れた。
「ここではありません」
「どこで?」
「強制しているように見せずに、語りや記憶、同意や崩壊を引き出そうとする場面で」
ソレルが言った。
「条件づけ」
「きっかけです」とモローが訂正した。「きわめて穏やかな場合もある。違法な場合もある。その両方であることも多い」
ドロネーは写真を保護袋へ滑り込ませた。
リーズはテーブルの端へ手を置いた。震えていないことが、不安だった。
初めは、彼らは夢を待っていた。次に、夜を整えた。今度は、世界がどう答えるかを見るため、誰かが思い出を枕へ置いた。
「これは支援じゃない」
誰も話さなかった。
「釣り針よ」
その言葉が部屋を占めた。
ソレルが書き留めた。
気の利いた表現としてではない。
事故、流通経路上の過誤、単独の判断、手続き上の不備――制度が、もっときれいなやり方で続けたいことを埋葬する、そうした柔らかな棺のなかへ消えないように。
モローはようやく椅子を置いたが、座らなかった。
「これから言うことには、非常に慎重でいなければなりません」
「もう充分、そこにいる」とリーズは言った。
「これを別次元と呼べば、たちまちSFと予言者と予算を生むことになる。私にはそんな証拠はありません。ですが、あなたの睡眠は単なる休息でも、イメージの源でもない可能性があります。記憶、感情、形の知覚、覚醒時の意識では拒絶する矛盾を受け入れる力――そうしたフィルターが緩む状態なのかもしれない」
ソレルが、もっとゆっくりと言った。
「境界」
「かもしれません」
「何と何の境界?」
モローはリーズを見た。
「わかりません。記憶と身振り。恐怖と形。身体が知っていることと、思考が見ることを受け入れるもの。これ以上は言いません。ただし、誰かが特定の感情的素材を使って、その境界を方向づけられるなら、求められるのは、もはや眠らせることだけではなくなる」
リーズが続きを言った。
「特定の方向へ夢を見させようとする」
その一文は、封筒よりひどかった。
役に立つからだ。
意思に反してハサンを思い浮かべ、腹が立った。父の写真だけでも、すでに部屋は汚された。唇の記憶、枕の匂い、何の結果もなかった夜に低い声で漏らされた一言なら、何をされるだろう。欲望を利用できることだけが猥褻なのではない。それを調整やきっかけへ翻訳し、目覚めた女なら拒めることを、眠る身体から引き出す手段にできることが猥褻だった。
ドロネーは、トレーの流通経路を調べるため出ていった。ソレルはケラフへ電話した。モローは、リーズか自分が確認して署名した物以外、すべて部屋から撤去させた。周囲で皆が動き回るなか、リーズは何もないテーブルの前に座っていた。
父の顔を考えていたのではない。
父の言葉を考えていた。
本当に支えているものは、図面には現れない。
ほんの一瞬、形が来るのを感じた。
正しい形ではなかった。
低く、締めつけるような、ほとんど権威的な何か。父の言葉を利用して、通行権を得ようとする立体。リーズは内側から激しく押し返し、息が止まった。
モローは、彼女が青ざめるのを見た。
「リーズ?」
「それを出して」
「もう撤去しました」
「封筒だけじゃない」
リストバンドを示した。
「次の夜は、ヴァリエーションなし。新しいセンサーもなし。安眠補助もなし。何もいらない。眠るかもしれないし、眠らないかもしれない。でも、何が持ち上がるか見るために、誰も私の部屋へ思い出を置かないで」
モローより先に、ソレルが答えた。
「わかりました」
スピーカーにした電話から、ケラフがつけ加えた。
「そして、同意のない感情的誘導の試みはすべて、あなたの同意が成立する条件そのものへの侵害として扱う、と書面にします」
「もっと短く書ける?」
「書けます。でも、痛みも減ります」
二十分後、ドロネーが戻った。
「封筒は、危機対応枠組みに付属する心理支援班から来ています。昨夜、外部コンサルタントが依頼した。最初の流通記録に名前はありません。突き止めます」
「誰が許可したの?」
「そこが問題です。今のところ、誰も」
ソレルが目を閉じた。
許可がなかったことは、命令があったことより深刻かもしれなかった。システムがすでに、自力で部屋まで届くほど長い手を生み出したということだからだ。
リーズは立ち上がった。
全身が痛んだ。だが疲労の性質が変わっていた。消耗しているだけではない。
追われていた。
それが逆説的に、彼女を目覚めさせた。
最初の報告書
有用な夜を過ごさず三日目となる晩、リーズはマリアンヌからの電話を受けた。
自由な通話だった。
自由。あるいは、この場所で通話が自由になりうる範囲では。
ドロネーは部屋にいなかった。ガラスもない。指を二本立てる手もない。電話は十八号室の机に置かれ、装置へ接続されていた。その仕組みについては、侮辱に近く感じられるほど詳しく説明されていた。
リーズから電話した。
マリアンヌは出るなり言った。
「ソレルと話した」
「そっちも、まずこんにちはくらい言ったら?」
「理科教師みたいな声ね。世界の終わりを三回生き延びた理科教師」
「だいたい合ってる」
「食べてないと言ってた」
「裏切り者」
「あんたが許可したから、私に言う権利があるとも言ってた」
リーズは記憶を探った。
ここ数日、多くのことを承諾していた。
小さなことを、あまりにたくさん。
「たぶん」
「私が『たぶん』をどう思ってるか、知ってるでしょう」
「聞いたことはある」
マリアンヌは少し黙った。
「ケラフ弁護士からも電話があった。面倒な人ね。だから気に入った」
「あいつらに痛い目を見せてくれる?」
「やっていることを、書面にさせるって。それはもっと痛いこともある」
リーズはベッドに横になった。
リストバンドがシーツへ触れた。
小さな硬い音。
マリアンヌが聞きつけた。
「何の音?」
リーズは嘘をつきかけた。
時計。ただの物。何でもない。
もう、うんざりだった。
「センサー」
マリアンヌの沈黙の温度が変わった。
「あんたの身体に?」
「そう」
「なぜ?」
「壊れていないか確かめるため」
「ほかには?」
「役に立つ壊れ方をしていないか確かめるため」
そんな言い方をするつもりはなかった。
その言葉は、朝から彼女のなかで待っていたように、驚くほど鮮明に出てきた。
マリアンヌが罵った。
声は大きくなかったが、家族特有の正確さがあって、リーズにはありがたかった。
「外せるの?」
「ええ」
「本当に?」
「たぶん」
「外してみて」
リーズはリストバンドを見た。
「今?」
「そう」
「馬鹿みたい」
「違う。すごく単純なテスト」
リーズは留め具の下へ指を入れた。
リストバンドは抵抗なく開いた。
警報は鳴らなかった。
誰も扉を叩かなかった。
廊下は静かなままだった。
リーズは開いたリストバンドを手のなかに持った。
なぜ震えているのか、自分でもわからなかった。
「それで?」とマリアンヌが訊いた。
「開いた」
「よかった」
「またつける」
「どうして?」
「まったく眠れなかったら、明日、私にはもう決められないと、あの人たちが判断するのも正しくなるから」
マリアンヌは溜息をついた。
「今、自分が何を言ったかわかってる?」
「ええ」
「もう、あいつらと同じ話し方をしてる」
予想以上に強く打たれた。
リーズはリストバンドをつけ直した。
従ったからではない。少なくとも、それだけではない。怖かったからだ。そして恐怖は、選択という服を着ることができる。
「リーズ?」
「いるよ」
「あんたは、あいつらのインフラじゃない」
その言葉が部屋を横切った。
インフラ。
ケラフ弁護士か、ソレルから聞いたのかもしれない。あるいは皿を洗いながら、マリアンヌが一人で見つけた言葉かもしれない。そのほうが、ずっとありそうだった。
「聞こえてる」
「違う」
「違うね」とリーズは認めた。「わからない」
マリアンヌは声を穏やかにした。
「なら、まず身体から始めて。あんたの身体。向こうの書類でも、緊急事態でも、目の前へ連れてこられる人々でも、地図でも、一つの部屋には大きすぎる言葉でもない。あんたの身体。今、どこか痛い?」
リーズは目を閉じた。
片頭痛はまだあった。
鋭さは減っていた。
もっと広くなっていた。
額の裏へ置かれた手のように。
昼のスープを飲んだのに、胃は空だった。
肩が痛んだ。
左手首にはリストバンドがあった。
足先が冷たかった。
泣きたくて、笑いたくて、眠りたかった。その順か、別の順で。
「痛い」と言った。
「どこ?」
リーズは答えた。
すべてではない。それでも充分に。
頭。
首筋。
腹。
手。
失われた睡眠。
マリアンヌは遮らずに聞いた。
リーズが話し終えると、部屋が小さくなったように感じた。敵意が増したのではない。身の丈に合った。
「ほら」とマリアンヌが言った。「それが、あんたの最初の報告書」
通話のあと、リーズは公式の手帳を開いた。
いつもの文句を書きかけた。
「物体のない夜。」
そこで止まった。
ページをめくった。
上にこう書いた。
「リーズ・ヴァレンヌの身体。」
被験者でも、媒体でも、能力でも、装置でもない。身体。
片頭痛、吐き気、めまい、失った体重、リストバンド、スープ、怖がっていることへの羞恥、センサーが開いたときの猥褻な安堵、そして本当に外してしまうことへの恐怖を書いた。
長いあいだ、書き続けた。
最後に加えた。
「大丈夫と言うとき、私は嘘をついている。」
それから、
「自分一人でやめられると言うときも、私は嘘をついている。」
二行目のほうが、書くのに力を要した。
ペンを置いた。
ベッドの端で、リストバンドが一度だけ点滅した。小さな緑の光。
外の停泊地は見えなかった。
リーズは明かりを消さずに横になった。
その夜、ヴァリエーションの夢は見なかった。
父が古い黄色の吊り秤で、空の木箱を量る夢を見た。
針は動かなかった。
アンドレ・ヴァレンヌは、ありえない数字を見つめ、それから娘を見た。
何も言わなかった。
夢のなかで、その沈黙はこう言っていた。
重さがなくなった今、おまえは何を背負っている?
目を覚ますと、リストバンドには三時間十分の睡眠が記録されていた。
手帳のほうには、別のものが残っていた。
第16章
不可能な離脱
ふさわしい場所
朝になると、ブレスレットはもはや物ではなくなっていた。他人が書き、彼女の上に貼りつけた宣告の形をしていた。
モローはその記録をテーブルいっぱいに広げた。グラフ、数値、体温曲線、脈拍、途切れ途切れの睡眠。彼は不満そうだった。そのおかげで、いくらか我慢できる顔になっていた。
ソレルもいた。窓辺に立ち、腕を組み、誰かの代わりに風景の一角を憎むと決めたように、土手の上端を睨んでいた。
「睡眠は三時間十分です」とモローが言った。
「数字は見ました」
「いいえ。あなたが知っているのは、目を閉じたということです。同じではありません」
リーズは紙を見た。
尖った山、深い谷、細すぎる緑の線。
空から見た、爆撃後の道路のような眠りだった。
「眠り方が悪いって言いに来たんですか」
「医学的に、このまま続けることはできないと伝えに来ました」
医学的にという言葉が、清潔な靴底で部屋を横切った。
なぜなのか頭で理解するより早く、リーズの全身が警戒した。
「どういう意味です?」
モローはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで充分だった。
代わりにソレルが口を開いた。
「ある文書が回っています」
「ここでは私以外、何でも自由に回るのね」
誰も笑わなかった。
モローは鞄から書類を取り出した。
左上をホチキスで留めた数枚の紙。その薄さは、分厚い束より不吉だった。大勢のせっかちな人間が、まだ迷いを残していたものをすでに削ぎ落としている。
彼はそれをリーズの前に置いた。
リーズは触れなかった。
一枚目にこうあった。
「秘匿医療・神経生理学的評価」
その下に、
「適切な施設」
さらに、
「再評価可能な同意」
三つ目の語句を見た瞬間、テーブルをひっくり返したくなった。
「誰が出したの?」
ソレルが答えた。
「いくつもの場所から同時に」
「卑怯者の言い回しね」
「ええ」
その肯定に、出鼻をくじかれた。
ソレルは窓辺を離れた。
「セギュールは起草していません。ヴォークレールが目を通し、ルセルフが取りまとめました。モローは二点に異議を唱え、私は三点に異議を唱えました。ケラフ先生はまだ全体を見ていません」
「送っていないから?」
「まず医師が支持できるか確かめようとしたからです」
リーズはモローを見た。
彼は目を逸らさなかった。
「現状のままでは支持しません」
「現状のままでは」
「はい」
「言葉がどれほど早く人を食い尽くすか、わかります?」
彼は弁解せずに受け止めた。そこは評価できる。
だが一つ評価できる点があっても、部屋が安全になるわけではない。
リーズは書類を手に取った。
紙はまだ温かかった。近くのプリンターから出てきたばかりのように。
専門ユニット。
睡眠記録。
同意が得られた場合の機能画像検査。
現象を意図的に誘発しないこと。
評価期間中の通話制限。
施設上の制約を条件として、認可を受けた助言者の同席を認める場合がある。
リーズはページの末尾まで目を通した。
そして、すでに自分を傷つけはじめていた一行へ戻った。
再評価可能な同意。
「訳して」
モローが口を開いた。
ソレルが先に言った。
「あなたが一部の検査を拒否するか、状態が悪化した場合、あなたの拒否には以前と同じ効力がない、と誰かが言えるようにしておきたいのです」
声を荒らげる必要すらなかった。拘束衣はすでに構文の中に縫い込まれていた。
リーズは書類を置いた。
「わかりました」
「いいえ」とソレルが言った。
声が硬かった。
「あなたは自分への脅威を見ている。それは正しい。でも、それだけではありません。私たちへの脅威でもある」
「私たち?」
「治療と捕獲の境界をまだ守ろうとしている人間すべてです」
モローは顔を手で撫でた。
彼も疲れて見えた。
普通の疲労。
まだ自分で開けられる扉に守られた疲労。
「ヴァレンヌさん」と彼は言った。「私はあなたの状態を測る必要があります。本当に。体重が落ち、睡眠が足りず、めまいがあり、症状を隠している。口にしなければ、私は嘘をつくことになります」
「言えばいい」
「言っています」
「でも?」
「しかし検査が、主権の移動になってはならない」
その言葉は、誰かから借りた工具のように、居心地悪そうに彼の口から出た。
ソレルが彼を見た。
「そういうことです」
「セギュールみたいな話し方をするようになったのね」とリーズが言った。
モローは笑いかけた。
「私も心配しています」
部屋の緊張がほどけてもよかった。
だが、ほどけなかった。
書類がまだそこにあったからだ。
場所という語が至るところにあったからだ。
適切で、保護され、中立的な場所。彼女の身体を移し、それを拒む言葉にまだ充分な強度が残っているか検査できる場所。
リーズは訊いた。
「その場所はどこ?」
ソレルは答えなかった。
モローも。
そこで、リーズは理解した。
ブレストではない。正確にはフランスでもなく、かといって明確に外国でもない。どの扉を叩けばいいのか誰にもわからせたくないとき、国家が作る類いの場所だ。
中立という提案
三十分後、ケラフ弁護士が画面に現れた。
物言わぬ鉢植えは消えていた。停車中の車内にいる。コートの前を閉じ、低すぎる位置に電話を置き、地下駐車場の光が顔を断ち切っていた。
「そちらへ向かっています」と彼女は言った。
「どこへ?」
「私が事務所に留まっているほうが都合のいい人たちのところへ」
セギュールはテーブルについていた。
ヴォークレールは壁面スクリーンに。
ルセルフは扉のそば。
マソンはメモ帳を手にしていた。
ソレルは壁際。
モローはその隣で、閉じた診療記録を膝に置いていた。
ドロネは部屋にいなかった。
リーズは、何人かの顔に気づくより先に、彼の不在に気づいた。
不在の男は、扉を守っていることも、別の扉を開けていることもある。
ヴォークレールが口を開いた。
「ヴァレンヌさん、あなたを助言者や保障から切り離そうという提案ではありません」
車内のスピーカーから、ケラフの短い笑い声が響いた。
「見事な出だしですね。どうぞ、お続けください」
ヴォークレールは一拍置いた。職位に気圧されない人間に口を挟まれるのが嫌いなのだ。その苛立ちが彼を人間らしくしたが、危険でなくしたわけではない。
「欧州の医療・科学調整ユニットを立ち上げることができます」と彼は続けた。「あなたの状況をフランス国内だけの対立から切り離し、国際的な保障を付与できるでしょう」
「どのような保障です?」とケラフが訊いた。
「同盟圏外へ移送しないこと。フランス側の立ち会い。認可を受けた法律顧問。担当医。本人の同意なしには侵襲的な手順を一切行わないこと」
「場所は?」
沈黙は短かった。
正直であるには短すぎた。
セギュールが答えた。
「欧州の協力国から提供される軍医療施設です」
協力国という語に、皮膚を引っ張られるようだった。
ヴォークレールが付け加えた。
「米国の監視要員も参加します」
ケラフが言った。
「ああ」
短い一語。急ブレーキだった。
「つまり」と彼女は続けた。「外国の軍事施設へ依頼人を移送し、米国も立ち会う中で、睡眠、神経学的状態、そして要求を拒否する能力を評価する。それを国際的な保障と呼ぶわけですね」
「戯画化しています」
「いいえ。香水を振らずに要約しただけです」
ソレルが目を伏せた。
リーズはそれを見た。
この部屋では、伏せられた視線の一つひとつが小さな声明になった。
マソンが慎重に口を開いた。
「現行の文案が悪いのは事実です」
「文案が?」
「中身も、おそらく」
「おそらく」
彼は小さくうなずき、訂正を受け入れた。
「問題は、先生、この場所に留め続けることが政治的に不安定になりつつあるという点です」
リーズは笑いそうになった。
自分の身体が今、政治的不安定と改名されたのだ。笑い以外に、まだ使える返答はないように思えた。
ケラフが訊いた。
「ヴァレンヌさんは、この移送を拒否できますか?」
ヴォークレールが答えた。
「現段階では、できます」
「現段階ではを削除します」
「現実まで削除することはできません」
「罠なら削除できます」
セギュールが片手を上げた。
「彼女は拒否できます」
ケラフは画面を見据えたままだった。
「拒否した場合は?」
新たな沈黙。
今度は長い。
役に立つ長さだった。
セギュールが言った。
「曖昧さが彼女を守っているふりをやめ、我々がここで何をしているのか明文化する必要があります」
ケラフは画面の外で何かを書き留めた。
「結構。書いてください」
ヴォークレールが首を傾けた。
「先生、それだけでは、押し寄せている要求に応えられないことはご存じでしょう」
「要求が、それ自体を正当化する必要はありません」
「それでも要求は来ます」
「ならば、それを拒否すると書いてください」
ヴォークレールはセギュールを見た。
セギュールは動かなかった。
そのときリーズは、二人の間にある亀裂を見た。原則上の不一致ではない。それより深く、だからこそ目立たない何か。
ヴォークレールは力の均衡で考える。セギュールは国家の形で考える。どちらも、それぞれのやり方で彼女を失いかねなかった。
「それで、あなたは」とケラフがモローに訊いた。「医療目的の移送を支持しますか?」
モローは答える前にリーズを見た。
「実質的に、役に立つ夜を止めることは支持します」
「質問への答えになっていません」
「いいえ、提案されている移送は支持しません」
「なぜ?」
「疲弊した状態にさらなる強制を加えることになり、診察が始まる前から医療そのものへの疑念を生むからです」
「ありがとうございます」
ソレルが言った。
「それに、複数の国家に観察される眠りは、もう眠りではない。緩慢な採取です」
その言葉がテーブルを打った。採取。
ヴォークレールは背筋を伸ばした。
「ソレルさん、正確な表現を心がけてください」
「正確です」
「何かを採取しようという提案ではありません」
「あなた方が提案しているのは、彼女が眠っている間に起きるすべてが、即座に共有され、異議を唱えられ、解釈され、権利を主張されうる場所です。それを調整と呼んでもいい。私は、彼女の夢から境界が失われる場所と呼びます」
リーズはテーブルの縁を握った。自分の身体が自分より先に知っていたことに、ソレルが言葉を与えた。
自由に立ち去れない人間を運び込むなら、中立の場所など決して中立ではない。
役に立つ拒否
拒否を書面にするよう求められた。
ノーと言うだけでは足りない。そのノーを、利用可能で、日付があり、対抗力を持つ文面に収めなければならない。その微妙な違いが、命令より確実に彼女を疲れさせた。
マソンが白紙を一枚、前に置いた。
画面のケラフが言った。
「英雄的な大言壮語はなし。決定的な言い切りもなし。拒否するのは特定の移送であって、治療ではありません」
「私が取り乱すのが怖い?」
「彼らがあなたの怒りを症状として利用するのが怖いのです」
誰も反論しなかった。
ならば、そのとおりなのだ。
リーズはペンを取った。
手がわずかに震えていた。
ブレスレットは手首に、白っぽく、あまりに整った跡を残していた。
彼女は書いた。
「私は、ブレストの施設から、フランス法および私が選任した助言者のみに全面的に服さない医療施設または軍事施設へ移送されることを拒否します」
手を止めた。
ケラフが言った。
「続けて」
リーズは書いた。
「私は治療を拒否しません。治療を、私が拒否する権利を弱める手段にすることを拒否します」
ソレルが目を閉じた。
モローがつぶやいた。
「そうです」
リーズは加えた。
「私は、生産を目的としない真の休息を求めます。役に立つ夜も、派生案も、追加のセンサーもなく、助言者と自由に連絡でき、妹と毎日通話できる休息を」
彼女は紙をマソンへ押しやった。
マソンが読み、
セギュールへ回し、
カメラ越しにヴォークレールへ見せた。
ヴォークレールは笑わなかった。
「ヴァレンヌさん、この拒否が協力上の問題と解釈されうることは理解していますね」
彼女より先にケラフが答えた。
「誰によって?」
「この状況は、もはや国家の枠を超えていると考える者たちです」
「名前を挙げてください」
「できないことはご存じでしょう」
「ならば依頼人に、幽霊への返答を求めないでください」
ヴォークレールは黙った。
セギュールは紙を手にした。
内ポケットからペンを取り出した。
マソンのではなく、自分のペンだった。
文面の下にこう書いた。
「受領。本拒否は本日より国家機構に対して対抗力を有する。ただし、明示的に定義され、対審的に確認された生命上の緊急事態を除く」
マソンが身じろぎした。
「ピエール=アラン……」
「動かない一点が必要だ」
「承認されていません」
「恐怖が代わりに承認するのを待てば、なおさら承認されなくなる」
ヴォークレールが言った。
「大きな責任を負うことになります」
セギュールは画面を見上げた。
「ええ」
気取りも、雄々しさもない、ただの肯定だった。雄々しさなど、たいていは悪い夜を越え、過ちをすんでのところで避けたあとにしか訪れないと知る男の声だった。
リーズは彼を信じたかった。
信じはじめてさえいた。
だが、ヴォークレールが口を開いた。
「わかりました。フランスはこれを了承します。ですが率直に申し上げる。フランスが早急に持続可能な形を提示しなければ、ほかの者が自分たちの形を提示するでしょう。そのとき我々には、阻止するか、追随するか、失うかしかない」
「何を失うんです?」とリーズが訊いた。
ヴォークレールは画面越しに彼女を見た。
初めて、官僚の言葉を選ばなかった。
「あなたを」
部屋の動きが止まった。
裸の言葉だった。
人間的でもありえた。
だが、それだけではなかった。
彼の口で、あなたとは、疲れた一人の女であると同時に、秘密、力、優位性、地図上の一本の線、フランスの先行、避けられる災厄、起こりうる戦争を意味していた。
そのすべてが、たった三音に入っていた。
セギュールの提案だけでは足りない理由を、リーズは理解した。
誤っているから力がないのではない。フランスの提案にすぎず、現象はすでに、彼女のために扉を押さえようとする国を追い越していたからだ。
避難所のない地図
リーズは歩きたいと言った。
あまりに早く許可が下りた。
ならば、これは本当の散歩ではない。
ドロネが廊下で待っていた。
どこにいたの、と言いかけた。
やめた。
彼なら、的確すぎて愉快ではない言葉を返しただろう。
二つの廊下とガラス張りの前室を抜け、建物沿いに内側の出口へ延びる低い回廊を歩いた。外気には濡れた草と冷たい停泊地の匂いがした。空は屋根の上に載っているかと思うほど低かった。
ドロネは二歩後ろを歩いた。
ソレルも同行すると譲らなかった。
モローは来なかった。
医師にすでに別の何かになることを求める部屋で、医師のまま留まる知恵が彼にはあった。
軍港を望む、開かない窓の前で止まった。
岸壁、タグボート、灰色の輪郭、低いケーソン、係留された艀が見えた。その平らな甲板は、無言の約束のようだった。
リーズは訊いた。
「私が出ていったら?」
ドロネは答えなかった。
ソレルが言った。
「どこへ?」
「わからない。マリアンヌの家。スペイン。修道院。貨物船。現実的な案がいいなら、トゥインゴのトランクでも」
ドロネが鼻から息を漏らした。
ほとんど笑い声だった。
その日初めて聞いた、まともな音だった。
「妹さんの家なら、デザートの前に記者が来ます」と彼は言った。「スペインなら司法共助の要請。修道院ならドローン。貨物船なら保険、船籍、港、乗組員、協定。トゥインゴなら、最初の検問まで六キロと見ます」
「何にでも答えがあるのね」
「いいえ。単純な外の世界がまだ存在すると信じている人々の案件を扱ってきただけです」
リーズは停泊地を見た。
タグボートが巨大なものをゆっくりと曳いていた。
力強くは見えなかった。
ただ頑固だった。
「つまり、私は閉じ込められている」
ソレルが答えた。
「私人としては、そうです」
その言葉が回廊を巡った。
私人として。
朝の封筒以来、その言葉には、さらに汚れた重みが加わっていた。閉じ込められているとは、外へ出られず、監視され、制服を着た男たちと手続きに引き留められているというだけではない。父の言葉や自宅の写真、封印の内側から剥ぎ取られた彼女自身の一片を部屋へ運び込み、それを治療と呼べるということだった。
眠りを守れない外など、外ではない。
「では、別の形なら?」
ソレルはすぐには答えなかった。
ドロネは、聞こえないようにしたいかのように、わずかに位置をずらした。
つまり、聞いているのだ。
「別の形なら」とソレルは言った。「ほかの者たちが、逃亡、発作、病理、採取、監禁のどれにも矮小化できない形が必要です」
「別の形って何?」
「法です」
リーズは笑った。
疲れた笑いだった。
「ここへ来てから、誰かが充分に怖がるたび、法が食い尽くされるところしか見ていない」
ソレルは彼女を見た。
「ならば、法だけでは足りません」
「何がいるの?」
「世界の前に姿を現すことを、法に強いる舞台です」
ドロネが、ほんのわずかに顔を向けた。リーズが気づくには充分だった。
一つの考えが現れた。まだ不完全で、使い物にならず、その周囲に開いた空間の広さゆえに危険な考え。
「何の話をしているの?」
「まだわかりません」
「頼りないわね」
「ええ」
ソレルは遠くの艀を見た。
「ただ、あなたをもっと上手に隠しても救えないことだけはわかります。彼らはそれを保護と呼び、次に治療と呼び、必要性と呼び、安全確保と呼ぶ。そのたびに、あなたの場所は狭くなる」
リーズはブレスレットを思った。
秤を。
診療記録を。
中立の施設を。
領土を口にするようにあなたと言ったヴォークレールを。
「何もかもにノーと言ったら?」
ドロネが答えた。
「あなたは安全保障上の問題になります」
「もう、なっているでしょう」
「いいえ。今のところはまだ、不可能な案件で条件を提示する一人の人間です」
「何が違うの?」
「人間なら署名できます。問題なら処理されます」
乾いた言い方が、かえって助けになった。初めて彼は、自分の言葉の衝撃を和らげようとしなかった。
ソレルが言った。
「境界はそこです」
「何の?」
「彼らがあなたを人間として記述できるうちは、交渉しなければならない。あなたを不安定性、危険源、あるいは本人の意思に反してでも保護すべき身体と記述した日から、彼らは処理に移ります」
リーズは冷たい窓枠に手を置いた。
ガラスには、ごく薄く自分の姿が映っていた。
青白すぎる女。
借り物のセーター。手首のブレスレット。顔の向こうには停泊地。巨大なもの、岸壁、ケーソン。
浮くため、支えるために作られ、係留された場所に決して完全には属さないものたち。
「彼らの建物から出たら?」
「どこにいるつもりです?」
リーズは答えなかった。まだわからない。その答えは場所に似ていなかった。ただ、形を探しはじめた一つの不可能にすぎなかった。
ページの端の言葉
午後、マリアンヌから電話があった。
リーズは電話を差し出されるのを待たなかった。自分から求めた。
ケラフが書面で要求し、
セギュールが署名し、
ドロネが、治療に属するのか証拠に属するのか誰にもまだわからない壊れ物のように、端末を運んできた。
リーズはベッドを背に、床へ座った。
椅子も机も会議に属しすぎていた。床から、誰も彼女のために用意していない場所から話したかった。
マリアンヌは電話を取るなり言った。
「飛行機の中じゃないって言って」
「飛行機の中じゃない」
「それだけでも、現代における大勝利ね」
リーズは目を閉じた。
こみ上げた笑いで、首筋が痛んだ。
「移送されそうになった」
マリアンヌは、どこへ、とは訊かなかった。
いい兆候。
あるいは、悪い兆候。
学ぶのが早すぎた。
「治療のため?」
「役に立つ形で治療するため」
「断った?」
「うん」
「それで足りるの?」
リーズは電話を見た。
「だんだん嫌な質問をするようになったわね」
「物覚えがいいから」
彼女が言うと、ほどよく馬鹿馬鹿しく、人間の言葉に戻った。リーズはそのことが嬉しかった。
「足りない」とリーズは言った。
マリアンヌが息をついた。
向こうで皿の音がし、何かを訊くジャンヌのくぐもった声が聞こえた。
マリアンヌが受話器を離した。
「だめ、ママ。今は」
それから声を落とした。
「食べてるか知りたいって」
「食べてるって言って」
「本当?」
「ほぼ」
「じゃあ、食べてないってことにする」
「そうして」
沈黙。
マリアンヌが続けた。
「リーズ、聞いて。反対するだけじゃ勝てない」
「どうも、先生」
「本気よ」
「聞いてる」
「ノーが通じるのは、相手があなたにノーと言う権利があるとまだ認めているときだけ。その権利自体を議論しはじめたら、別のものが必要になる」
リーズは机に置かれた紙を見た。
自分の拒否。
セギュールの追記。
紙はもう古びて見えた。
「何が?」
「わからない。でも隠れ場所じゃない。弁護士だけでも、条項をもう一つ増やすだけでもない」
「何を勧めてるの? 王国?」
「生き延びなさい。もっとましな言葉を思いつけるくらい長く」
リーズは微笑んだ。
そして、笑みを消した。
もっとましな言葉。
主権者という語を思った。
それを少しはもう求めているのだ、と告発しかけたときのセギュールの顔を。
彼女はその言葉を退けた。
別の扉から戻ってきたのかもしれない。
「一人だけで離脱ってできると思う?」
マリアンヌは笑わずに答えた。
「無理」
「ほら」
「でも、みんながもうあなたを切り分けはじめてるってことを、見せつけることならできるかもしれない」
美しい言葉ではなかった。だからこそ、もっとよかった。使える言葉だった。
通話のあとも、リーズは床に座っていた。
十八号室は、いつもの秩序を保っていた。
整え直されたベッド。
下げられたトレイ。
交換された水差し。
二重のカーテン。
公式のノートのそばに置かれたブレスレットは、従順な小動物のようだった。
眠ることもできた。
眠るべきだった。
代わりに、黒いノートを開いた。
図形のページは探さなかった。白紙のページを開いた。
こう書いた。
「私を隠すことはできない」
次に、
「私を引き渡すことはできない」
そして、
「所有者が変わりうる部屋では、私を守れない」
手を止めた。
三行目は、間違ってはいないが、文章としては悪かった。最悪の部類だ。
線を引いて消した。
書き直した。
「人間なら拒否できる。問題なら処理される」
ドロネの言葉。
引用符はつけなかった。
盗んだ工具として取っておくことにした。
その下に書いた。
「人間であり続けなければならない」
さらに、
「一人の人間だけでは足りない」
ペン先が紙の上で止まった。
頭の中に停泊地が戻ってきた。
低いケーソン。
艀。
底には触れていないが、それでも係留索に繋ぎ止められているもの。
父なら、こんな考えを嫌っただろう。
狂っているからではない。重さから逃れたふりをしながら、ほかの力に別の方法で支えてもらおうとしているだけだから、嫌っただろう。
リーズは書いた。
「逃げない」
それから、
「拒否が個人の疲労で終わらない場所を作る」
場所という語では足りなかった。
線を引いた。
「領土」と書いた。
その言葉が怖かった。
だから残した。
さらに下に、なぜなのかわからないまま、六つの文字を綴った。
Aurenne。
見つめた。
何の意味もない名前だった。
まだ。
ただ、彼女を取り囲む者たちの誰にも属していないという利点だけがあった。
ノックの音がした。
急かさない二回の音。
ソレル。
リーズは慌ててノートを閉じた。
「どうぞ」
物理学者が扉を開けた。
リーズが何を書いていたかは訊かなかった。
顔を見た。
次に、閉じたノート。
机の上のブレスレット。
「眠るべきです」
「眠れない」
「なら、それはもう助言ではなく症状です」
リーズは目をこすった。
「それが丁寧な言い方?」
ソレルは敷居に立ったままだった。
「セギュールが、あなたの拒否を正式に記録させました」
「ヴォークレールは?」
「形を探しています」
「私を手元に置くため?」
「あなたを失わないため」
「同じこと?」
ソレルは時間をかけた。
「彼にとっては、違います」
「私にとっては?」
「たいてい、同じです」
リーズはうなずいた。
手の下の六文字を思った。
Aurenne。
馬鹿げたものかもしれない。熱のせいかもしれない。疲れ切った女の防衛反応かもしれない。あるいは、疲労状態へ還元できないほど大きな何かの始まりかもしれなかった。
「アリアーヌ?」
ソレルが顔を上げた。
リーズが皮肉なしに彼女をそう呼んだのは、初めてだった。
「あなたが国家だったら、私を行かせる?」
ソレルは嘘をつかなかった。
「いいえ」
少なくとも、裸の答えを返すだけの慎みはあった。
「あなたが私だったら?」
ソレルは固定された窓を見た。
その向こうの停泊地。
停泊地の向こうの世界。
「決して来ない許可を探すのは、やめます」
教訓を付け加えることなく、彼女は出ていった。
リーズは閉じたノートと二人きりになった。
離脱は不可能だった。
もちろん。
身体は離脱しない。
部屋も。
疲れた女なら、なおさらだ。
けれど、あの鋳鉄塊以来、不可能であることだけでは、もう充分な証明にならなかった。
リーズはノートを開き直した。
まだ何の意味も持たない名前の下に、こう書き加えた。
「世界が私を誰かとして扱わざるをえなくなるものを見つける」
第17章
地面のない領土
ケーソン
翌日、停泊地は灰色に沈んでいた。だが、もう昨日と同じ場所には見えなかった。
タグボート、クレーン、軍の建物、緑と鉛色のあいだの水。すべてが所定の場所にあった。動いたのは彼女の視線だけだった。
ガラス張りの回廊から見えるのは、もはや岸壁や艀だけではなかった。可能性の断片が見えた。板、容積、空の部屋、地理の一部になるのを待つコンクリートと鋼鉄のケーソン。
父は、言葉を教えるより前にそれを教えてくれた。港は、放り出されている物を見れば読める。十代のリーズは、その言葉が大嫌いだった。今は、もう一度聞きたかった。
ソレルが紙コップのコーヒーを二つ持って現れた。
一つを窓の内側の縁に置いた。リーズに近づけすぎないように。コーヒーでさえ安全距離を守らねばならないかのように。
「眠れました?」
「少し」
「何時間?」
「すぐには嘘をつかずに済むくらい」
ソレルは、疲労に似たしかめ面でその答えを受け入れた。
「モローは数字を欲しがります」
「数字なら渡す。あとで」
二人は並んだまま、黙っていた。会議室の沈黙とは手触りが違った。ガラスを擦る風、壁のどこか向こうで唸るエンジンの低い振動、遠いスピーカーの放送、杭に途切れ途切れに当たる海の音が、中に混じっていた。
やがてリーズが言った。
「船は船籍国に属する」
「原則としては、ええ」
「人工島は、そこへ設置した国か、その海域を支配する国のものになる」
「そこまで単純ではありません」
「ここでは何も単純じゃない」
ソレルはコーヒーに息を吹きかけた。
「質問があるんですか。それとも、もう答えが?」
リーズは内側の岸壁に係留された艀を示した。
「あれ。たとえば」
「艀ですね」
「持ち上げたら?」
「危険な艀になります」
「本当には浮かなくなったら?」
ソレルはリーズへ顔を向けた。
「何を考えているんです?」
リーズはすぐには答えなかった。黒いノートを小脇に抱えていたが、性急に開きたくなかった。言葉がノートの中にあるうちは、人間らしい脆さを保っている。セギュールやヴォークレールやマソンたちの前でテーブルに置いた瞬間、それは選択肢となり、したがって脅威となり、したがって案件になる。
「彼らが奪えるものには、全部住所があると思って」
「あなたの部屋にもあります」
「今では私の身体にも」
ソレルは反論しなかった。
「会社には本社があり、研究所には施設があり、船には母港がある。島には地面がある。秘密基地にさえ結局は座標と管轄と所属があって、誰かが、ここは我々の場所だから我々の問題だ、と言える」
「我々の場所ではないところを探している」
「違う」
自分の拒否の明瞭さに、リーズ自身が驚いた。
「我々の場所であることが、症状として処理できないほど目に見える場所を探している」
ソレルは停泊地を見た。
「主権のように聞こえます」
「王座を欲しがっているみたいに、その言葉を使わないで」
「規模が変わったことを見分けられる物理学者として言っています」
リーズはノートを肋骨へ押しつけた。黒い表紙は身体の熱を帯びていた。物が秘密でなくなり、提案になるまで、どれほどの時間がかかるのだろう。一晩、いくつかの言葉、あるいは、もうまともな隠れ場所を持たない女の不充分な勇気だけで足りることもある。
「地面に触れないようにする必要がある」と彼女は言った。
ソレルは笑わなかった。
ただコーヒーを置いた。
「地面ですか、海面ですか?」
「できれば両方」
「正気ではないとわかっていますね」
「その基準を、だんだん信用できなくなってきた」
物理学者は額を手で撫でた。髪は乱雑に束ねられ、灰色の毛束がゴムから逃げていた。この数日で初めて、リーズは彼女もこの一件の中で老いているのだと気づいた。案件の登場人物としてではなく、睡眠や忍耐や目尻の新しい皺で代償を払う人間として。
「技術的には」とソレルが言った。「あなたの現象に支えられた質量も、質量であることに変わりはありません。動き、漂流し、風を受け、係留を引きちぎり、現象が止まれば落下する。意識を失うかもしれない一つの発想で国は作れません」
「今日、国を作りたいわけじゃない」
「少ししか安心できませんね」
「ケラフが守れるほど物質的で、国家が分類をためらうほど馬鹿げていて、それでも見て見ぬふりのできないほど国家の近くにある形が存在するか知りたい」
ソレルはコーヒーを持ち直したが、飲まなかった。
「舞台」
「昨日、あなたが言った」
「疲れているときに口にしたことは、よく後悔します」
「私も」
タグボートが艀を数メートル押した。ここからではごく小さな動きだったが、平らな表面を別の角度から見せるには充分だった。塩で汚れた暗い金属の長方形。作業員が目も上げずに通りすぎるほどありふれ、家、工房、広場、ペンキで引けばたちまち異議を唱えられる国境を収めるほど広い。
リーズはノートを開いた。
その言葉を見せた。
Aurenne。
ソレルは黙って読んだ。
それから艀を見た。
「タルデューが必要です」
「ブレッソンも」
「それと、頭痛を引き受けてくれる法律家」
「マソンなら向いてそう」
「セギュールも」
リーズはノートを閉じた。
「まだヴォークレールには見せない」
ソレルはほんの一瞬、笑みを見せた。
「学ぶのが早いですね」
重いもののテーブル
タルデューは正午前に到着した。ブレストには薄すぎるコートを着て、髪を風に押し潰され、コンクリートの弱点をすでに探しているような目で廊下を眺めていた。コルネックは一緒ではなかった。その不在がリーズの内側を締めつけた。後悔なのか、用心なのか、もう守りきれない顔を見ることへの疲れなのか、自分でもわからなかった。
数分後、ブレッソンがやって来た。図面筒と、ネットワークから切り離したタブレットと、三本の太い鉛筆を抱えていた。死んだ複製以来、何かを証明したがる態度が消えていた。足取りは遅く、自信は減り、そのぶん確かな存在感があった。謎を前に働くことを受け入れ、謎へ八つ当たりするのをやめた男の歩き方だった。
会議は大部屋では行われなかった。
リーズが拒否した。
セギュールが執務室を提案した。
それも拒否した。
結局、船渠に面した技術室を確保した。細長く、寒い部屋だった。古い油に染みたテーブル、壁のフック、湿った金属の匂い。二つの高窓からは、水より空のほうがよく見えた。親密でも快適でもない。だが、この部屋は重いものについて何かを知っていた。それで充分だった。
マソンはセギュールと来た。
ケラフは画面で参加した。
ドロネはいつものように扉のそばにいたが、扉そのものを塞ぐようには立たなかった。前日以来、誰にも通る権利がなくても、出口は見えるようにしておかなければならない場合があると理解したらしい。
ヴォークレールはいなかった。
リーズは理由を訊かなかった。
セギュールが言った。
「知らせる必要のあることが生じれば、彼にも伝えます」
「つまり、存在できるほど危険なものを、私たちが差し出すのを待っている」
「自らの緊急性によって破壊されないほど明確なものを、私が差し出すのを待っている」
画面のケラフが目を上げた。
「その違いは、なかなか気に入りました」
タルデューはコートを脱いだ。
「領土について話したいと聞きました」
その語に大文字を使わない口調だった。リーズはありがたく思った。
「ケーソンについて話したいんです」とリーズは答えた。
ブレッソンは停泊地の図面をテーブルに広げた。外交用の地図でも、作戦地図でもない。水深、技術区域、船渠、岸壁、進入路、占用区域、船台、工房、有効長、係留上の制約が記された作業図面だった。紙は広がるとき、ほとんど動物のような柔らかい音を立てた。四隅が浮き上がった。タルデューが、空のカップ二つと棚で見つけたスパナを重しにした。
リーズは、回廊から見た艀を指さした。
「これ」
ブレッソンが見た。
「作業艀です。平甲板。古いが健全。五十二メートル掛ける十八メートル。喫水は浅い。一次構造は昨年整備されています」
「所有者は?」
セギュールが答えた。
「海軍です」
「つまり国家」
「そうです」
「なら、まずそこから外に出さないと」
マソンは何か書き、すぐに線を引いた。ケラフは笑みを見せた。
タルデューが訊いた。
「持ち上げたいんですか?」
「船でも島でも基地でもなく、私を囲む単なる医療設備にもならず、自分自身より多くのものを支えるには何が必要なのか知りたい」
続いた沈黙に敵意はなかった。ただ、全員の思考で埋まっていた。それぞれが分類項目を探し、その項目に亀裂が入るのを見ていた。
ブレッソンは鉛筆を取った。
「艀一隻では領土になりません。行政上の筏です」
「わかった」
彼は長方形の周囲に線を描いた。
「冗長性、独立したモジュール、横梁、柔軟な継手が要る。一つの区域で軽量化が失われても、全体を巻き込まないこと。組立式浮体構造のように、ケーソンのネットワークで作業できます。ただし、各要素に本当に浮くことを要求しない」
「水に触れずに?」
「まずは接触を減らすところから。完全非接触など、広報発表の幻想です。見かけの重量をなくしても、風、慣性、横荷重、歩く人間、機械、タンク、うねりは残る。何にも触れない構造物でも、すべてに応答しなければなりません」
タルデューが鉛筆を取った。
「落ちるなら、きれいに落ちなければならない」
リーズは顔を上げた。
「何ですって?」
「絶対に落ちないものは設計しません。落ちても全員が死なないものを設計します」
一見すると残酷な言葉だったが、皮肉ではなかった。工房と工事現場の思考だ。奇跡が事故を消し去りはしないと知る人々の思考。
ソレルが言った。
「不活性区域が必要です」
「非作動区域」とタルデューが訂正した。「不活性なんて書いたら、全員が怖がる」
「怖がらせたほうが役立つこともあります」
「配置図では役立たない」
リーズは、二人が言葉をめぐって争うのを、不思議な安堵とともに聞いていた。この女たちはまだ国家について語っていない。荷重、落下、橋絡、漸進破壊、独立回路、試験槽、ポンプ、風、人間の体重、トイレについて話している。領土は国歌を持つ前に、雑排水をどう処理するか考えなければならない。
その卑近さに、リーズは救われかけた。
ケラフが訊いた。
「ヴァレンヌさん、法的な目的は何です?」
リーズはテーブルを見た。
図面、鉛筆、隅のスパナ、木に染みた油。
「私の拒否が、部屋に閉じ込められた人間の気分として扱われないこと」
「もっと正確に」
「私に関する決定がすべて、私が人間であり続けることにほかの人々も利害を持つ場所を通るようにすること」
マソンが顔を上げた。
「ほかの人々?」
「ええ」
そして、私の眠りのそばに誰かが記憶の断片を置こうとしたとき、別の誰かが立ちはだかる場所、と付け加えることもできた。言わなかった。まだ。だが、その考えはそこにあり、主権より具体的で、やがて貼りつけられるかもしれない架空の旗より切迫していた。
セギュールは壁に寄りかかった。
「あなたはもう、自分を守るだけの話をしていない」
「ええ」
「自分を守るため、その周囲に共同体を作ろうとしている」
「私を人間として保つ仕組みの中で、もう一人きりにならないようにしたいんです」
共同体という語には居心地の悪さを感じた。パンフレットの匂いがした。清潔な小さなユートピア。扉を閉めるためのよりよい言葉を見つけただけで、自分たちは公正になったと信じる集団。いつかオレンヌが存在するなら、自分を前にして巧みに振る舞える者だけを選ぶところから始めてはならない。
その考えは、この部屋には大きすぎた。あとまで取っておくことにした。
ブレッソンは鉛筆で図面を叩いていた。
「技術的には、実物大の試験体を作れます」
ソレルが彼を見た。
「どの程度?」
「卓上模型ではありません。実寸の一区画。短いケーソン二基、横梁一本、作業床一枚。三十トンほど。荷重を示すには充分で、残りを解決したふりはできない規模です」
タルデューが補った。
「既知の稼働モジュールを使う。新しい派生型ではなく」
リーズは全員の視線が自分に集まり、あからさまな重荷になる直前で止まるのを感じた。
彼らはそれも学んでいた。
押し潰さずに求めること。軽い求めも、求めであることに変わりはない。
「役に立つ夜を?」
ほかの者より先にソレルが答えた。
「いいえ」
ブレッソンは鉛筆を下ろした。
「新たに作動させなければ、何も持ち上がりません」
「なら、何も持ち上げない」
ソレルの静けさが技術的な勢いを断ち切った。リーズは一秒だけ彼女を恨み、その同じ一秒のために彼女を愛した。
タルデューがリーズを見た。
「作動させずに準備はできます。仮説を切り分け、落下時の計画を作り、何をしないか定義する」
「それなら得意です」とケラフが言った。
セギュールは、しばらく黙っていた。
テーブルへ近づいた。
「見えるものを示してください」
ブレッソンは、より大きな長方形と、その中央の空所を描いた。
「低いプラットフォーム。ここに技術広場。こちらに仮設居住モジュール。ここが電力と水。そこに医務室。ケーソンは質量と容積であると同時に、外周にもなる。明確な縁を作れます」
「国境」とマソンが言った。
誰も笑わなかった。
外から金属音が部屋を貫いた。何かを置き、固定し、やり直している。港の営みは、ほとんど寛大な無関心さで続いていた。
セギュールは、ブレッソンが描いた縁を指でなぞった。
「フランス領なら、我々があなたを保持する。フランス領でなければ、あなたを失う。単なる私有地なら、緊急事態を理由に取り戻す。国際管理なら、ほかの者たちが手続きの中にあなたを溶かす」
ケラフが訊いた。
「フランスが暫定的な主体として承認すれば?」
マソンは目を閉じた。
「先生」
「もうテーブルを焦がしている質問を、口にしただけです」
セギュールは退かなかった。
「その場合、フランスは、自らが最初の保証国であり続けることを望む法的異常を作り出す」
「しかし、もう所有者ではない」
「そこが難点です」
リーズは訂正した。
「そこが利点です」
セギュールは彼女を見た。
「そのような存在の承認は、国家の支援による計画的離脱と受け取られます。わかっていますか?」
「ええ」
「フランスの弱さとも?」
「おそらく」
「国際的な挑発とも?」
「間違いなく」
「それでも?」
リーズは図面に手を置いた。決め台詞は探さなかった。紙の下の木には凹みや切り傷が残っていた。滑らかであることを拒むテーブルが、どこか心強かった。
「昨日、あなたは私の拒否が国家機構に対抗できると書いた。フランスの保護でした。助けにはなった。でも足りません。国境を越えられない条項の中で、長く生きることはできない」
セギュールは目を伏せずに受け止めた。
「浮く文書が欲しいのですね」
「文書を守らせる場所が欲しいんです」
最初の縁
作動はさせなかった。
その決定のおかげで一日は長く、ほとんど理性的なものになった。リーズの一部は逆を望んでいた。追い詰められ、拒否し、全員が強制と抵抗という馴染みの芝居で自分の位置へ戻ることを。だが彼らは、生産せずに働いた。
ブレッソンは利用可能なケーソンの図面を求め、タルデューはすでに認可を受けている技師二人に連絡し、マソンは調査の枠組みを起草し、モローは強制的な医療休止を記録させ、ケラフは作業文書のどこにもAurenneという語を記さないよう要求した。
「なぜ?」とリーズは訊いた。
「名前があると、人は理解する前に没収したり承認したりしたくなるからです」
「代わりに何と?」
「今は? 何を恐れるべきか正確にはわからないまま、恐れてもらいます」
リーズは笑った。
「セギュールより危険ね」
「国家への請求額は、彼より安いですよ」
夕暮れは、誰にも気づかれずに入ってきた。技術室の光は黄色くなった。サンドイッチ、紙コップのスープ、林檎、誰も本心では好きでないコーヒーが運び込まれた。リーズは、満足そうなソレルと、見ていないふりをするドロネの視線の中で、サンドイッチを半分食べた。
政治的なものの誕生は、ときに油染みたテーブルの上から始まる。反り返る図面と、食べた量を数える医師のあいだで。
夕方近く、マレスコが入ってきた。
赤い架台の一件以来、会っていなかった。前より歩けるようになっていたが、完全に自由な足取りではない。脇腹か背中のどこかが、まだ一歩ごとに彼を引き留めていた。制服を堅苦しく着こなすこともなく、他人があとから清書する出来事を生き延びた者の、目立たない疲労をまとっていた。
「目的を知る権限のない物体について、軍事的制約への見解を求められました」と彼は言った。
タルデューが答えた。
「なら、完全に適任です」
彼は図面を見た。
それからリーズを。
「ヴァレンヌさん」
「大尉」
ありがとう、とは言わなかった。
リーズは感謝した。
生存者からの礼はテーブルをずらしてしまっただろう。彼女には、その重さまで背負う力は残っていなかった。
マレスコはブレッソン、セギュール、ケラフの順に話を聞いた。質問は少なかったが、一つひとつに実務上の帰結があった。誰が外周を警備するのか。誰が乗り込むのか。誰が船倉を検査するのか。外国が未確認航空機で接近したらどうするのか。武力事件にはどの法が適用されるのか。フランスが完全には所有しないと主張する構造物の上で、フランス武装要員を指揮するのは誰か。
彼が話すにつれ、図は図であることをやめた。厄介事の連なりになった。それは往々にして、何かが存在しはじめた最初の兆しだった。
やがてセギュールが言った。
「縁が必要になる」
「技術上の?」とブレッソンが訊いた。
「政治上の」
マソンが加えた。
「刑法上も、税関上も、衛生上も、軍事上も。夕食前にベルシーを卒倒させたいなら、税務上も」
ケラフが言った。
「縁は、必ずしも閉鎖ではありません」
「法においては、たいてい閉鎖に最もよく似ています」
「なら、反対のことを書かなければ」
セギュールがリーズを見た。
「危険がわかりますか?」
「どの危険?」
「あなたを没収させないためには、今度は拒否する力を持つ何かを作らねばならない」
すべてを見通してはいなかった。だが疲れが脚へ落ちてくるには充分だった。オレンヌという名が残るなら、それは国家から身を守る避難所であるだけではない。イエスとノーを告げる機械、つまり人を傷つける機械になる。入れる者と入れない者、守られる者と守られない者がいる場所。善意がたちまち笑顔で選別する術を覚える場所。
ノートに書いた一行を思った。拒否が個人の疲労で終わらない場所を作る。
誰も疲れさせない場所を作る、とは書かなかった。
「わかります」と言った。
「それでも続ける?」
リーズは少し離れて立つマレスコを見た。架台の下に閉じ込められた二人の男を思った。緊急事態ならほとんど何でも正当化されると、部屋の全員が受け入れていったことを。そして報告書の中で、その緊急事態がどれほど早く別の名前に変えられたかを。
「続けなくても、その力は存在します。ただ、その周囲の明かりが少なくなるだけ」
セギュールは、非常にゆっくりとうなずいた。
「ヴォークレールにも理解できる言い方です」
「彼のために言ったんじゃない」
「だからこそ、役に立つ言葉になることが多い」
画面の向こうで、ケラフはペンを机に軽く打ちつけた。
「何の意味も持たない暫定名を提案します。自律実験区画」
マソンはむせかけた。
「自律?」
「実験装飾区画のほうがお好みで?」
タルデューがつぶやいた。
「SEA」
ソレルが片眉を上げた。
「ずいぶん面白い」
「わざとじゃありません」
リーズは笑った。
本物の、短い笑いだった。首筋が引きつり、ドロネが振り向いた。
数秒間、部屋が息をついた。
そのとき、テーブルの上でセギュールの暗号化端末が震えた。
彼は画面を見た。
名前は口にされなかったが、リーズはほかの者たちの顔にそれを読んだ。
ヴォークレール。
セギュールは電話に出るため外へ出た。
扉は音もなく閉じた。
リーズは疲れが一気に重くなるのを感じた。利用されるのに、役に立つ夜など必要ない。扉の向こうで男たちが彼女について話し、その間、彼女の名前と眠りとケーソンの図面がテーブルで待っている。それだけで足りることもある。
ソレルが近づいた。
「今日はここまでです」
「何もしていない」
「だからです」
「医者みたいな言い方」
「もっと悪い。準備を耐久性と取り違えたせいで、充分な数のシステムが壊れるのを見てきた物理学者の言葉です」
リーズは従った。だが、すぐには従わなかった。
ブレッソンの鉛筆を取り、図面の端で、艀と提案された二基のケーソンを囲む小さな線を引いた。
一つの縁。まだ何も隔ててはいない。ただ、ここでは別の答え方が必要になる、と告げていた。
浮かないもの
三日後、彼らは実験区画を造った。
造るという語は大げさだった。実際にしたことの大半は、移動し、組み立て、ロックし、点検し、油を落とし、ボルトを締め、測定し、測定値に異議を唱え、二か所を締め直し、荷重センサーを交換し、風が充分に弱まるのを待つことだった。風に結果を書かれたとは、誰にも言わせないために。
リーズは役に立つ夜を渡さなかった。
その条件は守られた。
モローは、目的を割り当てられない夜を二晩、彼女に与えさせた。眠りと呼べるならの話だが。身体が闇の中へばらばらに落ち、すぐに浮かび上がり、汗に濡れて目覚める。図にすることを許されない形の断片を連れてくる。そんな途切れた横断だった。
試験に選ばれたモジュールは、既存のものだった。赤い架台で使われた装置を枠内に収め、制限し、監視し、周囲に追加した安全対策によってほとんど辱めるほど縛っていた。リーズが使用に同意したのは、それがすでに存在し、生産ではなく救助に使われたものであり、すでに与えた以上のものは求めないとタルデューが約束したからだった。
「技術者の約束には、大した価値はありません」とケラフは言った。
「人間の約束にもありません」とタルデューが返した。
「だから書くんです」
書面にした。
実験区画は、うねりから守られた内側の船渠にあった。短いケーソン二基、鋼鉄製の横梁、作業床、部分的に満たされたバラスト、安全索、非常用フロート。その中央に、透明なケースへ収めた装置。国にはまるで見えなかった。建物にすら見えなかった。灰色で、低く、工業的な物体。ユートピアよりも、造船所の工事片に近かった。
リーズはその姿を好んだ。
許可を受けた者たちは、周囲にいたが円陣は作らなかった。円は儀式に似すぎていたのかもしれない。あるいは最初の実証が行われた格納庫を、誰もが覚えていたのかもしれない。タルデューはブレッソンと技術通路にいた。ソレルとモローはリーズのそば。少し離れてマレスコ、その隣に無言の将校。黄色い線の後ろにセギュールとマソン。ケラフはドロネが持つタブレットの中にいた。武装した男に運ばれる法の顔は、滑稽でありながら完璧に主権的だった。
ヴォークレールは現場にいなかった。
その不在に欺かれる者はいなかった。どこかで見ている。
ブレッソンが確認事項を読み上げた。
声は船渠のスピーカーを通り、金属に押し潰されて平たく響いた。
「バラスト安定」
「安全索、干渉なし」
「荷重センサー作動」
「周辺退避完了」
タルデューが続けた。
「再確認。目的は完全浮上ではない。荷重の低減と、限定的かつ可逆的な部分接触解除を確認する」
リーズは目を閉じた。
接触解除。
離陸よりいい言葉だった。慎ましく、正確だった。
装置はすぐには応答しなかった。
数秒間、船渠の黒い水、照明の反射、どこかで鳴るロープ、マイクに入るブレッソンの浅い息しかなかった。リーズは自分の心臓が、装置の拍子を探しているのを感じた。冷たい手すりに手を置いた。
ソレルはその動作を見た。
何も言わなかった。
最初の兆候は、水に現れた。
何も劇的なことではない。水の模様が変わった。
ケーソンの周囲の波紋が、水が自分の支えているものの一部を忘れたように開いた。非常用フロートが安全索を引く力が弱まった。タルデューの画面で曲線が一段下がり、安定した。ブレッソンがごく小さく悪態をついたが、それでもマイクは拾った。
「見かけ荷重、十二パーセント減」
誰も拍手しなかった。
リーズは水面を見つめつづけた。
実験区画は、前よりうまく浮いているのではなかった。
別の仕方で浮いていた。
タルデューが訊いた。
「次の段階へ?」
ソレルの視線が即座にリーズへ向いた。
罠を説明してもらう必要はなかった。成功した段階は、完璧な礼儀正しさで次を求める。
「いいえ」とリーズは言った。
その言葉は小さく、ほとんど期待外れなほど頼りなく船渠を横切った。
ブレッソンが顔を上げた。
タルデューは口を閉じた。
マレスコは実験区画を見ていた。橋、船体、装甲車、避難所、世界から十二パーセントの重さを取り去れば何ができるか、すでに見えているかのように。
セギュールが言った。
「承認済み段階で停止」
タルデューが命令を繰り返した。
装置が停止された。
水が昔ながらの振る舞いを取り戻した。ケーソンはほんのわずかに沈み込んだ。ほとんど何も起きていないようだったが、重さが戻ったことを全員が見るには充分だった。
続いた音は衝撃ではなく、吐息に近かった。
それは、一度も完全には離れなかったものへ、再び触れた。
タブレットのケラフが訊いた。
「これで充分ですか?」
マソンが答えた。
「何に対して?」
「ノートの中の思いつきにすぎないふりを、もうできなくするには」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
リーズは内側の岸壁へ通じる扉を開けるよう求めた。
海藻、軽油、濡れた石の匂いを運ぶ空気が船渠へ入ってきた。深く吸い込みすぎて、めまいがした。モローが一歩進んだ。リーズは片手を上げて止めた。
「大丈夫」
彼は反論しなかったが、後ろへも下がらなかった。
岸壁では、試験を何も見ていなかったらしい水兵が、巻いたホースを肩に担いで歩いていた。重さに背中を丸め、苛立ち、生きていた。彼らより前から存在し、彼らのあとにも残る仕事にかかりきりだった。リーズは、彼が箱の山の向こうへ消えるまで目で追った。
そのとき、領土は単に地面へ触れないものでは足りないと理解した。
ホース、疲れ、スープ、手すりに置かれる手、ありふれた拒否にも居場所があるほど、人々に近くなければならない。
そうでなければ、オレンヌは広くなった十八号室にすぎない。
地図に載った名前
試験のあと、セギュールは少人数の会議を求めた。
リーズは二度目も大部屋を拒んだ。
彼らは技術室へ戻った。図面は、鉛筆の縁を残したままそこにあった。誰かが余白に荷重値を書き加えていた。誰かがスパナのそばに、手をつけていない林檎を置いていた。部屋はすでに固有の乱雑さを生みはじめていて、リーズはそこに一種の安らぎを感じた。
ヴォークレールが壁面スクリーンに現れた。
背景が変わっていた。羽目板も、見覚えのある執務室もない。白い壁、場所を持たない光、清潔すぎる音。彼は自分を消すことを選んだ。それもまた、議論が普通の部屋を越えたと告げる方法だった。
「測定値は見ました」と彼は言った。
リーズは、どうやって、とは訊かなかった。
「十二パーセントでは領土にならない」
「ええ」とタルデューが答えた。「縁の実証です」
「何ですって?」
ブレッソンは鉛筆を取った。
「これまでは、質量を軽くできることを示していました。今日は、組み合わされた構造物が、即時の一体性を失わずに環境との関係を変えられることを示した」
「政治のフランス語で言うと?」
セギュールが答えた。
「複合体が、一つの単位として振る舞いはじめうる」
ヴォークレールはリーズを見た。
「それがあなたの意図ですか?」
「中立の施設で一生を終えないことが、私の意図です」
「充分な答えではありません」
「それでも、すべてはそこから始まります」
ケラフも事務所から画面で参加していた。背後には物言わぬ鉢植えが戻り、忠実かつ役立たずに佇んでいた。
「用語を明確にする必要があります」と彼女は言った。「ヴァレンヌさんは、フランスに一国民を見捨てろと求めているのではありません。一人きりで自分の手の下に置いていては、その国民を守れないと認めるよう求めているのです」
マソンが続けた。
「具体的に、何を認めるんです? 団体? 実験区域? ありえない公共施設? 飛び地?」
「暫定的主体」とケラフが言った。
「そんな表現は存在しません」
「今、私が口にした瞬間から存在します。あとは、早朝に叩き起こされた国務院の前で十秒以上もつかどうかです」
ヴォークレールは笑わなかった。
「あなた方全員が話しているのは、離脱です」
セギュールが答えた。
「違います。離脱には、そこから分かれる既存の領土が必要です。ここで話しているのは、まだ存在せず、彼女なしには誰も行使できない力によって一部が生み出される領土です」
「言葉遊びです」
「主権はすべて、そこから始まります」
リーズは黙ってセギュールを観察した。頬はこけ、シャツには皺が寄り、二週間前なら許さなかったであろう無精髭が浮いていた。危機を管理する男には、もう見えなかった。国家への愛そのものが、国家に抗しうる形を想像するよう自分へ強いていると悟った男に見えた。
ヴォークレールが訊いた。
「それで、フランスには何が残る?」
部屋が冷えた。
これだ。
本当の入口。
道徳でも、法でも、保護ですらない。フランスに何が残るのか。
リーズは身構えかけた。そうしたいと思った。だが、図面、林檎、油の染み、鉛筆の頼りない縁を見た。オレンヌが生まれるなら、この汚れの中からも生まれる。利害、保障、失うことへの恐怖、譲歩、市場の匂いがする言葉、誓いの匂いがする言葉。
「繋がり」と彼女は言った。
ヴォークレールは待った。
「言語。最初の条約。安全保障。オレンヌの領域と、オレンヌが承認する領域における救助の優先権。軍事利用に対する限定的な監督権。初期チームへのフランス国民の参加。私に関する医療行為の対審的な監督。そして、私を役に立つ囚人に変えないという選択を、あなた方がした記憶」
ケラフが何かを書き留めた。
マソンも。
セギュールは動かなかった。
ヴォークレールが言った。
「交渉を始めましたね」
「いいえ。あなた方の自制にかかる代価を、いま名づけたんです」
エリゼ宮の顧問は、一瞬目を伏せた。
上げたとき、表情が変わっていた。まだオレンヌを信じてはいないのかもしれない。だが信じるのが遅すぎる危険は、もう信じていた。
「作業上の名称が必要です」と彼は言った。
マソンが提案した。
「自律実験区画」
「新品の靴を履いた行政の廊下だ。別のものを」
誰も口を開かなかった。
部屋には、壁の向こうの船渠、外を歩く水兵の足音、どこかで置かれる工具、未来の一片を奪い取ろうとしていることなどまだ知らない港の絶え間ないざわめきが聞こえた。
リーズは黒いノートを開いた。
それまでのページは見せなかった。
ただ、ノートを彼らのほうへ向けた。
ほとんど空白のページの中央に、六つの文字があった。
Aurenne。
ヴォークレールは読んだ。
「何か意味があるのですか?」
「まだ」
ケラフが訊いた。
「この名称を秘匿文書に記載することを認めますか?」
リーズはソレルを見た。
ソレルは同意も警告も与えなかった。掴み取ろうとしない注意だけを向けていた。
「認めます」
マソンが名前を書いた。
ゆっくりと、丁寧に。深刻でなければ滑稽にも見えただろう。オレンヌという名は、ありふれたペンの摩擦によって、黒いノートから法務用のメモ帳へ移った。
光は差さなかった。
震動もなかった。停泊地の色も変わらなかった。
だが作業図面の、艀と二基のケーソンの縁に、セギュールが鉛筆でこう記した。
「オレンヌ――仮想境界」
リーズは読み返した。
仮想、という語は気に入った。
空気を残す言葉だった。
境界、という語には不安を覚えた。
もう扉を愛しはじめている言葉だった。
彼女も鉛筆を取り、
セギュールの記述の下に書き加えた。
「何を守るためかを忘れる境界に、価値はない」
全員の賛同は得られなかった。
タルデューは不正確だと言った。
マソンは危険だと言った。
ケラフは攻撃されやすいと言った。
ヴォークレールは、おそらく使い物にならないと言った。
ソレルだけは二度読んだ。
それから言った。
「それでも、残してください」
外では、ブレストに夜が落ちていた。実験区画は船渠の中にあった。再び重く、索に繋ぎ止められ、水を見るとき同じ国を思い浮かべてはいない男たちに監視されていた。まだ何にも似ていなかった。
だが、名前を持った。
それだけで、ほどなく世界がその名を訂正したがるには充分だった。
第18章
ブレスト条約
旗のない部屋
部屋から旗が取り外されていた。
誰が求めたのか、口にしたがる者はいなかった。劇的な命令ではなく、身体が到着する前に行政が処理しておく類いの、後ろめたい用心だった。フランス国旗は壁から外され、いつもスクリーン脇に立てられている小さな欧州旗も片づけられた。壁には、周囲の塗装より明るい二つの長方形が残っていた。空白は布より多くを語った。
入室したリーズは、それを見た。
何も言わなかった。
そこは最初の会合に使われた大部屋でも、オレンヌに最初の鉛筆の線が与えられた技術室でもない。停泊地に面した庁舎の二階にある、中間的な部屋だった。長いテーブル、十二脚の椅子、厚い窓が二つ。サイドボードにコーヒーメーカー。床のコンセント。湿ったカーペットと冷たい金属の匂い。フランスはこういう場所を作るのがうまかった。何も決めていないと装えるほど中立的でありながら、そこで語られたことが国の形を変えられるほど守られている。
セギュールはすでにいた。
マソンも。
ヴォークレールは画面の中ではなかった。現地へ来ていた。
彼が実際にそこにいるだけで、口を開く前から部屋が変わった。いつもの落ち着きをまとっていたが、普段ほど隙がなかった。パリからの移動、早すぎる時刻、この数日の緊張、もしかすると、より確実に支配するため最初は移送した女と交渉するためにブレストまで来たという事実。それらが目立たない疲労を残していた。危険でなくなったわけではない。ただ、抽象的ではなくなっていた。
リーズの後ろから、ケラフが入ってきた。コートを腕にかけ、書類を小脇に抱え、顔を引き締めていた。ようやく画面を離れた彼女の入室は、助言者という語に新しい重さを与えた。部屋にいる弁護士は、単なる声ではない。用意しなければならない椅子であり、切断できない視線であり、ほかの者と同じまずいコーヒーを飲み、デジタル圧縮なしに沈黙を聞く人間だった。
ソレルは窓際の席についた。
少し離れてモロー。薄い診療記録を携え、医学に属さない言葉の保証をまた求められると、すでに承知している医師の顔をしていた。
物質面の話のために、タルデューとブレッソンもいた。
ドロネは扉のそば。
マレスコはその先にいた。証人とは呼ばれずに招かれていた。つまり、証人だった。
テーブルの中央には、実験区画の図面、船渠の写真二枚、荷重記録、そしてセギュールがこう書いた作業用紙が置かれていた。
「オレンヌ――仮想境界」
鉛筆書きは、清書された複写に置き換わっていた。
リーズは鉛筆書きのほうが好きだった。
「ヴァレンヌさん」とヴォークレールが始めた。
ケラフが遮った。
「まず確認します。依頼人は、より上品な形での監禁を交渉するために来たのではありません」
攻撃的な口調ではなかった。彼らにとっては、そのほうが悪かった。すでに法廷に立つ声だった。
ヴォークレールは頭を下げた。
「誰も、そのようなことは望んでいません」
「文書はときに、起草者が望んでいないと主張することを望むものです」
マソンは慎重な遅さで書類を開いた。
「だからこそ、文書について話す必要があります」
リーズは腰を下ろした。四時間眠った。途切れ途切れに。目的のない夢の中で、岸壁と部屋でできた街を歩いていた。モローから血圧の数値を聞かされたが、すぐに忘れた。トーストを二枚食べたのは、目覚めたときにマリアンヌから電話があり、もっとましな言葉を発明するなら、朝食くらい食べてもいいだろうと言われたからだった。
冗談は十秒もった。大健闘だった。
それからマリアンヌは訊いた。
「何か署名させられるの?」
「たぶん」
「じゃあ先に食べて。空腹だと、ろくな署名をしないから」
リーズは従った。
今、図面を前にして、二枚のトーストが、自分が世界に存在していることの馬鹿げた、しかし必要な証明のように腹に残っていた。
セギュールは複写に片手を置いた。
「語彙上の問題があります」
ケラフが言った。
「政治上の問題です」
「語彙を通じて現れる問題です」
「よくあることですね」
セギュールは笑わなかった。
「存在しない国家と条約を結ぶことはできません」
「作ればいい」
マソンが目を閉じた。
「先生」
「時間を節約するために簡潔に言っただけです」
ヴォークレールはリーズを見た。
「まさに、それが問題です。たとえ暫定的にでもフランスがオレンヌを国家として承認すれば、同盟国、欧州連合、国内機構の一部、そしてフランスの施設で生まれた技術がなぜ突然フランスの手を離れるのか理解しないすべての者とのあいだに、ただちに危機を引き起こします」
リーズが訊いた。
「承認しなければ?」
ヴォークレールは一秒置いた。
「法的には支配を保てます」
「私への」
「案件への」
「私への」
誰も訂正しなかった。
少なくとも、その沈黙には誠実さがあった。
セギュールが言った。
「中間の道があります」
「中間の道は、たいてい廊下です」とケラフが返した。「自由に入ると、誰かが反対側を閉める」
「今回は、扉を二つ備える必要があります」
「しかも鍵は、フランスだけが持つものであってはならない」
フランスという語がセギュールを傷つけた。ほんのわずかに見て取れた。呼吸が一瞬止まり、書類に置いた手が動かなくなり、それから制御を取り戻した。彼は国家を愛しているからこそ、保護を口実に拘束していると非難されると苦しむ。そのことが、冷笑家より彼を危険にしていた。本物の良心の呵責を抱きながら、人を傷つけられる。
マソンが最初の文案を配った。
表題にはこうあった。
「自律実験区画オレンヌに関するブレスト協定」
ケラフは第一行を読み、ペンで二語を消した。
「実験区画は不可」
マソンがため息をついた。
「ほかの語を書けば、ただちに憲法上、国際法上の検討が始まります」
「それが目的です」
「第一行からでなくてもいい」
「第一行だからこそです」
リーズは自分の文書を手にした。
白く、密度があり、その種の文書としては端正な紙だった。余白は広く、番号も整っている。監獄には見えなかった。だから警戒して読まなければならない。
条文に目を走らせた。
第一条、目的。
第二条、境界。
第三条、保護。
第四条、立入り条件。
第五条、リーズ・ヴァレンヌ氏の医療体制。
文中に置かれた自分の名前は、ほかの言葉より鋭い冷気を放った。
「だめ」と彼女は言った。
全員が顔を上げた。
第五条を指で叩いた。
「こういう形はだめ」
モローが訊いた。
「何が気になります?」
「水や電気の条項と同じように、条約が私の身体についての条文を持つべきじゃない」
ケラフがうなずいた。
「まったくそのとおりです」
マソンはペンを取った。
「ですが、あなたの医療上の状況を扱う必要はあります」
「なら別紙の附属書で。私の助言者と、私が選んだ医師によって改訂可能にする。政治的な目的の中には置かない」
モローが言った。
「支持します」
ヴォークレールが彼を見た。
「あなたは医師であって、憲法学者ではない」
「だからです」
あまりに単純な答えで、すぐには誰も攻撃できなかった。
今度はソレルが文案を手に取った。
「第三条。『フランス共和国は、実験区画およびその関連資源の保護を保障する』。関連資源?」
彼女は顔を上げた。
「また、この言葉を入れましたね」
マソンは心から困惑して見えた。
「標準的な表現です」
「弁明には滅多になりません」
リーズは笑いかけた。
笑みは最後まで形にならなかった。
ヴォークレールが言った。
「置き換えてください」
マソンが線を引いた。
「何と?」
ケラフが提案した。
「『そこに居住し、勤務し、または治療を受ける者』」
セギュールが加えた。
「および、その物質的存立を可能にする設備」
「それならいい」とソレルが言った。「設備は設備。人間を設備という名の下に入れないこと」
それまで口を開いていなかったタルデューがつぶやいた。
「人間はポンプではない、と言うために、ずいぶん行数を使うことになりそうですね」
「全部書いて」とリーズは答えた。
部屋の呼吸が変わった。
勝利ではない。ただ、力をほんの少し取り戻した。
噛みつく条項
彼らは、噛みつく箇所ごとに作業した。
時間はもう時間単位では進まなかった。消された語、移された読点、モローが切った林檎を置いた白い皿を囲む長すぎる休止で進んだ。窓の向こうの停泊地は、灰色から白へ移り、また灰色に戻った。リーズは左目の奥が痛んだ。痛みが求めるほどの重要性を与えないため、林檎を一切れ食べた。
まず境界。
マソンは座標、進入路、技術上の地役を求めた。ケラフは、オレンヌ暫定当局の同意なしには何も変更できないと加えた。
「どの当局です?」とヴォークレールが訊いた。
「今まさに、存在せざるをえなくしている当局です」
「循環論法だ」
「誕生とは、たいていそういうものです」
セギュールは彼女を見上げた。
「いつも、そんなふうに弁論するのですか?」
「不条理が署名入りで現れる礼儀を見せたときは」
次に立入り。
フランスは、誰が入るのか把握したかった。ケラフは、把握することが単独で選ぶことに変わらないよう求めた。それまで黙っていたマレスコは、扉が曖昧な文言に左右される場所を、兵士が守ることはできないと指摘した。ソレルは安全確保を緊急救助に置き換えさせた。前者にはまだ、医療目的の移送の匂いが残っていたからだ。モローも賛成した。救助という言葉には、まだ人の手が添えられていた。
本当の争いは、移転をめぐって起きた。
ヴォークレールは、手法、稼働モジュール、外国勢力、死活的利益をめぐる文を用意していた。ケラフは読み終えると、刃物を置くようにペンを置いた。
「オレンヌは、呼吸する許可を求める属領として生まれるのではありません」
リーズが見ていたのは、別の語だった。
移転。
図面も、モジュールも、チームも移転できる。疲労も、夜も、技術的な名称をつけられた女も移転できる。
「私を移転できないと書いて」
ヴォークレールは穏やかに答えた。
「この条項が対象としているのは、あなたではありません」
「それでも書かなければ」
ケラフは独立した条文を口述した。オレンヌにいるいかなる者も、自由かつ現在の意思に基づき、助言を受けたうえでの同意なしには、移送、連れ出し、拘束、検査を受けない。その同意に疑義が呈された場合、評価は独立した機関が行う。
「すべてを遅くしている」とヴォークレールが言った。
「ええ」
「危機の際、遅さは人を殺す」
「そういう場合もあります。速さも人を殺します」
リーズは林檎を皿に戻した。
「私から理解する権利を奪うほど急ぐ必要があるなら、その時点でもう私を守ってはいない」
ヴォークレールは何も書き留めなかった。彼の顔が代わりに記録していた。
フランスに残るもの
午後の半ば、ヴォークレールは中断を求めた。
その言葉に、タルデューは思わず笑った。
「危険な言葉がお好きですね」
「休憩と言うべきでした」
彼らは小さな集団に分かれて部屋を出た。だが誰も本当には境界を離れなかった。ケラフは廊下から事務所へ電話した。マソンは飲まないコーヒーを取りに行った。モローはリーズに林檎をもう一切れと、チーズサンドイッチを半分食べさせた。ブレッソンは窓辺に残り、オレンヌ区画が重く、不完全なまま、安全索に囲まれて横たわる内側の船渠を眺めていた。
セギュールがリーズのそばへ来た。
書類は持っていなかった。
そのぶん、武装が軽く見えた。
「もちそうですか?」
「医学的な質問? 政治的な質問?」
「残念ながら、両方です」
「なら、どちらの答えもあなたには都合が悪い」
彼は停泊地を見た。
「大統領へ電話しなければなりません」
リーズは答えなかった。
大統領という語は予期されていたにもかかわらず、二人の周囲の空気を変えた。これまでエリゼ宮は、画面であり、伝えられる声であり、ヴォークレールの口にする役職だった。今、オレンヌを初めて承認するか否かを決められる男が、姿のないまま、リーズの胃がまだ痛み、皿の上で林檎が褐色になっている部屋へ入ってくる。
「全部知っているの?」
「全部を知っている者はいません」
「嘘のつき方を覚えるのが早いわね」
セギュールは弁解せずに受け止めた。
「一人では決められないと判断するには、充分に知っています」
「それだけでもましね」
「フランスに何が残るのか、訊くでしょう」
「ヴォークレールがもう訊いた」
「別の訊き方をします」
「どういう意味?」
セギュールは答えるまで時間をかけた。
「戦略家としてだけではありません。自国へ途方もない力をもたらしえたものの一部が、自発的に手を離れるのをなぜ認めるのか、国民に説明しなければならない大統領として訊きます」
リーズは船渠の区画を見た。窓からは、二本の支柱のあいだに灰色の角が見えるだけだった。その低い塊のどこにも、まだ途方もない力は現れていなかった。だからこそ、ほかの者がただの機械しか見なくなる前に、急いで政治的な魂を与えなければならないのかもしれない。
「あなたなら何と答える?」
セギュールは喜びのない笑みを見せた。
「フランスには、あなたを囚人として発明した国にならずに済む、唯一の機会が残るかもしれない、と」
その言葉には、思いがけない重さがあった。
発明した。
リーズは退けかけた。そして、そこには真実があると理解した。フランスが彼女を作ったのではない。だが彼女が公に何になるのか、その形を今まさに発明している。資源、保護される国民、医学的異常、脅威、協力者、創設者。言葉が変わるたび、別の人生になる。
「あまり売り文句にはならない」と彼女は言った。
「なりません」
「ヴォークレールなら、もっといいものを出す」
「もっと効果的なものを」
「あなたは?」
「おそらく、もっと長くもつものを」
休憩は二十分続いた。
ヴォークレールが最後に戻ってきた。
電話をまだ手にしていた。これ以上ものを言わせまいとするように、画面を伏せてテーブルへ置いた。
「大統領は、先行形成という形式を認めます」と彼は言った。
誰も動かなかった。
彼は続けた。
「国家承認ではない。今日はまだ。フランス共和国、先行形成の発意者であるヴァレンヌさん、そして設立後のオレンヌ暫定当局とのあいだで、主権的先行形成および保護に関する協定を結ぶ」
マソンがつぶやいた。
「整っていません」
「何一つ整ってはいない」とヴォークレールが言った。
ケラフは席へ戻った。
「指名創設者は不可です」
「なぜ?」
「彼女をすべての個人的な源にしてしまい、あらゆる圧力の恒久的な標的にするからです」
リーズは弁護士を見た。
考えていなかった。
いや、言葉にはしていなかったが、感じてはいた。
ケラフは続けた。
「こう書いてください。『オレンヌの先行形成を発意したフランス国民、リーズ・ヴァレンヌ』。指名創設者ではない。道徳的所有者でも、偶然の女王でもない」
「偶然の女王」とタルデューが繰り返した。「それ、個人的に取っておきます」
笑いは短かったが、確かに存在した。
ヴォークレールは修正を受け入れた。
それから、本当の条件を出した。
「フランスによる保障には、死活的利益に関する条項が必要です」
ケラフが目を閉じた。
「来ましたね」
「今、言っておくほうがいい」
「訳して」とリーズが求めた。
ヴォークレールより先にセギュールが答えた。
「オレンヌがフランスの死活的利益に反して利用された場合、または敵対勢力の支配下に入った場合、フランスは介入する権利を留保したい」
「誰が敵対的と決めるの?」
「そこが問題です」
部屋の奥からマレスコが口を開いた。
「その種の条項がまったくなければ、フランス軍人は、自分が何を守っているのかわからないまま、この境界を防衛することになります」
「広すぎれば?」とケラフが訊いた。
「フランスを守っているつもりで、支配の奪還を守ることになるかもしれません」
大尉は飾らなかった。
リーズは長いこと彼を見た。
「賛成なの?」
「命じられた行動がどこから始まるのか、明確であることには賛成です」
その答えは気に入った。安心できるからではない。恐怖を置くべき場所に置いたからだ。
彼らは一時間近くかけて条項を書いた。
最終的な文面では、武力による脅威、人への強制、現象の強制移転の試み、または人命への切迫した危険がある場合を除き、フランスによる保障はいかなるオレンヌ境界内への介入も正当化しないこととなった。死活的利益を援用する場合は、オレンヌ暫定当局、リーズの助言者、そして構成をまだ考案しなければならない対審機関へ通知する。
「存在しない機関です」とマソンが言った。
「また一つ増えましたね」とケラフが答えた。
リーズは条項を読み返した。
美しくはなかった。足を引きずり、穴も開いていた。
だが少なくとも、「恐ろしくなったら取り戻す」とフランスが簡単に書くことを妨げた。
最初の日としては、受け入れられる勝利なのかもしれなかった。
文書と疲労
終わる前に夜が来た。
中止すべきだった。
全員がわかっていた。だからこそ、誰もあえて口にしなかった。重大な決定は、人々が空腹で、寒く、血中にコーヒーを抱えすぎ、疲弊を重みと取り違えるに充分な恐怖を持つ部屋が大好きだ。
とうとうモローが、全員の臆病を破った。
「ヴァレンヌさんを、この部屋から出さなければなりません」
ヴォークレールは時刻を見た。
「あと少しです」
「だからです」
「先生、残りは三条です」
「身体は一つしか残っていない」
沈黙が鋭く落ちた。
リーズはモローに礼を言いたかった。同時に、黙ってくれとも言いたかった。二つの欲求は、どちらも真実で、どちらも悪いまま、互いに押し合っていた。今出ていけば、パリから来た元気な男たちや、自分より会議室を生き延びることに慣れた法律家たちが、彼女抜きで続ける。残れば、視界の縁がすでに白くなりはじめているのに、最終案へ事情を理解したうえで同意したと、あとで書かれる。
ソレルはリーズの椅子を数センチ後ろへ引いた。
ほんのわずかだった。
それで充分だった。
「休憩」と彼女は言った。
「自分で決められる」とリーズはつぶやいた。
「なら、彼らがあなたを傷めるのを手伝わないと決めてください」
ケラフは書類を閉じた。
「審議を中断します。依頼人の不在中に行われた変更は、すべて未読と見なします」
マソンが両手を上げた。
「誰も隠れて変更などしません」
「結構です。なら、議事録に書くのも難しくありませんね」
ドロネが扉を開けた。
廊下の空気は、もっと冷たく、使い古されていないように感じられた。リーズは隣の小部屋まで歩いた。肘掛け椅子、毛布、水差し、柔らかすぎる照明が用意されていた。普段は内密な面談や、研修中に気分が悪くなった者のために使われる部屋なのだろう。心理社会的リスクに関するポスターと、誰も捨てる勇気のなかった造花があった。
ソレルが付き添った。
モローも。
ケラフは扉のところに残った。
「すぐそこにいます」
リーズはうなずいた。
扉が閉まると、疲労は交渉をやめた。
一つの塊となって、彼女の上に落ちてきた。
手が震えた。首筋が痛んだ。医療用ブレスレットの留め具の下に赤い跡が残っていた。喉が渇いているのに飲みたくなく、空腹なのに食べたくなかった。そして、もしブレスト条約が本当に今夜生まれるなら、切られた林檎と、ソレルが後ろへ引いた椅子と、疲労を同意の瑕疵に変える術を知る弁護士のおかげでもあるのだと思うと、笑いたくなった。
「少し横になって」とモローが言った。
「横になったら眠る」
「医学的に興味深い可能性です」
ソレルが彼女の膝へ毛布をかけた。
リーズはほんの一秒だけ、目を閉じた。
その一秒の中で、会議室が遠ざかった。
図面、オレンヌという語、灰色のケーソン、そして父の台所、黄色いばね秤、テーブルの鋳鉄塊が見えた。もし誰かが悪趣味にも彼女の人生をこんなふうに語ったなら、主題の執拗さを露骨すぎると思っただろう。すべてが重さへ、担うものへ、拒み、あるいは受け入れる物へ戻っていく。だが、くどいと思う贅沢はなかった。彼女はその中にいた。
扉を貫いて声が届いた。
ヴォークレール。
言葉は聞き取れず、調子だけが聞こえた。
次にケラフの、より低く、より鋭い声。
ソレルが扉を見た。
「また始めています」
リーズは目を開けた。
「もちろん」
モローが言った。
「十分はここにいてください」
「だめ」
「五分」
「三分」
「七分」
「マソンより交渉上手ね」
「国家より頑固な患者を診ていますから」
リーズは思わず笑った。
七分後、会議室へ戻った。
誰も文書に触れていなかった。
その不作為が目に見えるよう、ケラフが手配していた。紙は中央に積まれ、ペンは離して置かれ、画面はロックされていた。ヴォークレールは窓の外を見ていた。セギュールは一人で座り、両手を組んでいた。マソンは、書かないことも消耗する仕事だと発見したばかりの男の顔をしていた。
リーズは席に戻った。
「終わらせましょう」
モローが口を開いた。
リーズは指を一本立てた。
「そのあとは眠る」
「ここで?」
「違う。自分の部屋で。会議も、電話も、附属書もなし」
ケラフが言った。
「加えます」
全員が冗談だと思った。
冗談ではなかった。
最後の条文は、最も単純なものになった。
「本協定の署名時から最低四十八時間、リーズ・ヴァレンヌに対し、役に立つ夜を要求し、企画し、または示唆してはならない」
ソレルが訊いた。
「本当に、示唆まで?」
ケラフが答えた。
「最も危険なのは、その動詞であることが多いので」
リーズは条約より先に、心の中でそこへ署名した。
最初の署名
彼らは、すぐにはそれを条約と呼ばなかった。
最終的な表題はこうなった。
「オレンヌの先行形成およびその自律境界の保護に関するブレスト協定」
マソンが勝ち取ったのは、ページの冒頭に条約と書かないことだった。ケラフはそれ以上を勝ち取った。ほかのすべての箇所で、フランスは自分以外の何かに対して義務を負った。
ところどころ醜い文面は残った。外部保障、戦略上の留保、まだ自分の調子を探しているフランスの義務。ヴォークレールは、拘束に使えそうな語をいくつか残した。ケラフは拒否に使える語をいくつも植えた。ソレルは、リーズの身体が中心条項になるのを防いだ。モローは休息を書かせた。タルデューとブレッソンは、法のただ中に物質を残した。ケーソン、モジュール、連結部、安全索、電源、停止閾値、午前三時にポンプを修理できる人間。
マレスコは短く、ほとんど乾いた一文を残した。
「保護対象――人、境界、または共和国の利益――を明示せずに、いかなる保護命令も発してはならない」
リーズは三つとも残すよう求めた。毎回、どれが優先されるのか見たかった。
署名は、旗のない部屋で行われた。
写真家も、声明も、歴史的な万年筆もなかった。キャップをなくしたマソンから借りた、黒いペン一本だけだった。
セギュールは、リーズが詳細を訊かなかった特別委任に基づき、フランス共和国を代表して署名した。ヴォークレールは、エリゼ宮の代表者および大統領への伝達の政治的保証人として副署した。ケラフは当事者ではなく助言者として署名した。マソンは附属書に略式署名した。モローは別紙の医療文書へ署名した。ソレルは科学附属書へ署名した。
それから全員がリーズを見た。
彼女は用意された肩書きを、もう一度読んだ。
「オレンヌの先行形成を発意したフランス国民、リーズ・ヴァレンヌ」
不完全な文言だった。
だから気に入った。
創設者とも、所有者とも、資源とも、女王とも書かれていない。
国民と書かれていた。
今のところ、ページ上で最も堅固な言葉だった。
彼女は署名した。
名前は少し震えた。
リーズ・ヴァレンヌ。
何も動かなかった。
まだそう呼ばれてはいないブレスト条約は、九ページ、三つの附属書、二つの手書き留保、そして記録することが誰の利益にもならない全員の疲労からできていた。
ヴォークレールが一部を回収した。
「パリでの正式承認が必要です」
ケラフが言った。
「署名にはすでに拘束力があります」
「否定していません」
「思ったでしょう」
「先生、私は口にしないことをたくさん考えています」
「それが私の仕事を増やすんです」
セギュールはリーズの一部をドロネに渡した。
「十八号室。暫定金庫。ケラフ先生へ複写を」
リーズが言った。
「だめ」
ドロネは動きを止めた。
彼女は手を差し出した。
「私の分は、私が持つ」
マソンが言いはじめた。
「保管上の理由から……」
ケラフが彼を見た。
彼は黙った。
ドロネはリーズの前に書類を置いた。
単純な動作だった。
単純な動作以上に、彼女を安堵させた。
悪い手の中で冷めないようにする、まだ熱い金属板のように、リーズは書類を胸元へ抱えた。宝物のようにではなく。
外は完全な夜だった。
部屋へ戻るために車を出すと言われた。
リーズは歩きたいと言った。
モローが反対した。
ソレルも。ただし、少し弱く。
短い行程ならと認められ、屋内の回廊を通った。前にドロネ、隣にソレル、後ろにコートを肩へかけたケラフ、少し離れてセギュール。ヴォークレールは来なかった。
船渠を望む窓の前で、リーズは立ち止まった。
オレンヌ最初のケーソン、その日組み上げられた実験区画が、黒い水に低く浮いていた。
投光器はケーソンに白い帯と濃い影を描いた。安全索は、まだ描き終えていない線のように水へ落ちていた。すべてが醜く、暫定的で、異議を唱えられうるものだった。
だが、もうフランスだけのものではなかった。かといって、完全に別の何かでもなかった。
二つのあいだにあるもの。縁に立つもの。
ソレルが訊いた。
「後悔していますか?」
リーズは協定を胸に強く抱いた。
「まだ」
「慎重ですね」
「正直なの」
のちに十八号室で、彼女は協定を机に置いた。黒いノートの隣に。
ノートは、前より小さく見えた。
協定は、前より脆く見えた。
靴紐をほどかずに靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろして、マリアンヌへ電話した。
妹は二回目の呼出音で出た。
「それで?」
リーズは机の二つの物を見た。
ノート。
協定。
二つの異なる筆跡で、二度書かれたオレンヌという名。
「何かに署名した」
マリアンヌが息をついた。
「重大なもの?」
「うん」
「あなたを守るもの?」
リーズは考えた。
数棟先の船渠では、灰色のケーソンが、まだ世界に属していない名前を初めて支えている。この部屋では、自分の身体が、条約を必要としない権威をもって睡眠を要求している。文書の中で、フランスは今すぐすべてを取り戻さないことに同意した。それは途方もなく大きかった。足りなかった。一日が嘘をつかずに与えられる最大限なのかもしれなかった。
「本当に守るものか確かめるために、生きていなきゃいけなくなるもの」と彼女は言った。
マリアンヌはすぐには答えなかった。
やがて言った。
「じゃあ、眠って」
リーズは微笑んだ。
「みんな、驚くほど独創的になるのね」
「それでも眠って」
通話のあと、リーズは黒いノートを開いた。
オレンヌという語の下に書き加えた。
「条約は誰も救わない。ただ、責任を問える場所を作るだけだ」
その一行を見た。
さらに下へ書いた。
「明日、誰かが入ろうとする」
それから、灯りを消した。
第19章
希少な市民権
最初の名簿
翌朝にはもう、誰かが中へ入りたがっていた。
まだ世界じゅうというわけではない。テーブルに並んだのは、たった二十七人の名前だった。役職、資格、申請されたアクセス権、そして「理由」と題された欄。
リーズは、その欄が嫌いだった。
必要なのはわかっていた。誰が来るのか、なぜ来るのか、どんな道具を持ち、どんな技能があり、どんな権利を持つのか。世界の一片を持ち去らずに帰れる人間なのか。それを知っておかなければならない。
だが理由を書く欄は、人間を、オレンヌが利用できる用途へと切り縮めてしまう。
リーズは目を通した。
タルデュー、ブレッソン、ソレル、モロー、ケラフ、ドロネー、マレスコ、マッソン。そこから先は、まだ知らない名前だった。溶接工、看護師、バラストの専門家、水とエネルギーの技術者、料理人、船員、警備員、電気工、物流担当者。
どれももっともらしかった。そこが問題だった。
この数週間で、理性はいくつもの姿を身につけていた。改良された部屋、ブレスレット、診断書、慎重な移送、慎重な条約、慎重な名簿。いつだって、きれいに洗った手で近づいてくる。
セギュールはリーズの向かいに座っていた。
右隣にケラフ。
ヴォークレールはパリから画面越しに参加していたが、背景はほとんど見えなかった。一晩のうちに、彼はまた距離を取り戻していた。首都にアイロンをかけ直されたようだった。
ソレルは、味わうでもなくコーヒーを飲んでいた。
タルデューは立ったまま、紙のほうから謝罪されるのを待つように、名簿を逆さに読んでいた。
「今後四十八時間に必要な立ち入りです」とマッソンが言った。
「立ち入り」
リーズは繰り返した。
「居住でも、所属でも、市民権でもありません」
「私が訊く前に答えるのね」
「学んでいますから」
ケラフがペンを取った。
「昨日署名された合意が設けるのは、自治的な先行整備区域です。まだ住民を生み出すものではありません」
「住民のいない区域なら、ただの施設よ」
「そのとおりです」とソレルが言った。
マッソンが鼻から息を吐いた。
「住民の受け入れを急ぎすぎれば、各国の外務当局、省庁、欧州の法律家、そして国内のあらゆる論客に、傀儡のミニ国家だ、民間の治外法権区域だ、個人的な分離独立だと騒ぐ口実を与えます」
「どうせ騒ぎますよ」とケラフ。
「ええ。だからといって、こちらから見出しまで書いてやることはない」
リーズは名簿に目を戻した。
厳密な意味で不可欠とは言いきれない最初の人物は、料理人だった。
氏名――ジュリアン・アウアド。
理由――区域内チームへの食事提供。
リーズはその行を指した。
「どうして、この人?」
セギュールが答えた。
「この区画に常駐するチームは、基地の通常系統とは別に食事を取る必要があります。彼には隔離環境で働いた経験がある」
「何のための仕事か知っているの?」
「いいえ」
「では、どこへ入るのか知らないまま入るのね」
「初日にすべてを知らされて入る者はいません」と、ヴォークレールが言った。
テーブルの端から、ケラフが彼を見た。
「その言い回しは、今後使わないことをお勧めします」
顧問は片手を上げた。
「つまり、情報は段階的に開示する必要があるということです」
「段階的でも、嘘をつかずにはいられます」
リーズが訊いた。
「断ることはできるの?」
「もちろんです」
「何を理解したうえで?」
誰も先を争って答えようとはしなかった。
リーズは、自分自身が、それが何を開くのか理解する前に受け入れてきたものの数を思った。バッジ。部屋。ブレスレット。一夜。条項。合意。一段階ごとに、まだ本当の大きさを現していないものについて、もっともらしい「はい」を求められてきた。
「ただ配属されただけの人たちで、国はつくれない」
タルデューが名簿を置いた。
「バラストのパッキンひとつ替えられない、熱意だけの志願者で実験用プラットフォームをつくることもできないけどね」
「反対しているわけじゃない」
「なら、業務上の立ち入り、居住、市民権を分ける必要がある」
マッソンが安堵したようにうなずいた。
「私もそれを提案しています」
ケラフが付け加えた。
「そして、その区別は法律家だけでなく、当事者にも理解できるものでなければなりません」
ソレルが言った。
「第一分類。限定的な技術作業または医療行為。来て、働いて、帰る。オレンヌに対する政治的義務は負わず、安全と守秘の義務だけを負う」
「第二は?」とリーズ。
「先行居住です」とマッソン。「数日を超えて区域内に滞在し、運営に加わり、内部の制約を受け入れる。ただしオレンヌを代表して発言することはない」
「第三は?」
ケラフが答えた。
「市民権です」
その言葉が、室内の空き場所をすべて占めた。
あまりにも早すぎた。
それでも、もうそこにあった。
リーズは、前日に旗を外した跡が、壁に明るい長方形となって残っているのを見た。別の何かを待っているようにも見えた。紋章。地図。過ち。場所がひとりでに象徴を生み出すまでに、どれほどの時間がかかるのだろう。
「今日、市民になる者はいません」とヴォークレールが言った。
「なるべきでもありません」とケラフ。
「意見は一致している?」
「理由は正反対でしょうけれど」
リーズが訊いた。
「私は?」
用意していた質問ではなかった。
ポケットから何かを落としたように、問いが部屋の中へ転がった。
「あなたはフランス国民です」とセギュールが答えた。
「オレンヌにとっては?」
マッソンは慎重に合意文書をめくった。
「文書上は、あなたが先行整備の発起人とされています」
「答えになっていない」
ケラフがペンを閉じた。
「ええ。あなたはまだオレンヌ市民ではありません。それでいいのです」
リーズは彼女を振り返った。
「なぜ?」
「あなたが最初の市民になれば、すべてがあなたから始まります。すべてがあなたから始まれば、すべてがあなたへ戻ってくる。政治的、道徳的、象徴的、感情的な圧力が。あなたは唯一の扉になり、やがて錠になり、最後には、誰もが複製するか壊そうとする鍵になる」
ソレルがつぶやいた。
「彼女が正しい」
「では、オレンヌは市民なしで始まるの?」
「オレンヌは、ひとつの義務から始まります」とケラフ。「魅力には欠けます。そのぶん健全です」
リーズは名簿を見た。
二十七人の名前。
まだ住民でも共同体でもない。せいぜいチームだ。組織された依存関係。
「欄をひとつ増やして」
マッソンが顔を上げた。
「何の欄です?」
「『情報開示後に拒否できる』」
「煩雑になります」
「ええ」
「全員に?」
「全員」
タルデューが、ほとんど笑みを浮かべた。
「料理人にも?」
「料理人にこそ」
ここで眠る者たち
午後、オレンヌ区画に最初のベッドが届いた。
ベッドとは気前のいい呼び方だった。実際には、トラックで運ばれ、プラットフォームの安定した一角に据えられた二棟の白いモジュールに、折り畳み式の金属製簡易寝台を固定したものだった。マットレスは新品で、倉庫の匂いがするビニールに包まれていた。毛布、クリップ式ランプ、収納箱、小さな医療棚、仮設の電熱プレート二台、水のポリタンク、消火器、簡易トイレ、ホワイトボードが設置された。
ホワイトボードは、簡易トイレに劣らずリーズを不安にさせた。
小さな共同体では、掲示板がたちまち最初の政府になる。
誰が掃除するか。誰が眠るか。誰が見張るか。誰が食べるか。誰が忘れたか。誰が修理すべきか。誰に不在でいる権利があるか。大仰な憲章が来るのは後だ。始まりの権力は、紐で結ばれた黒いマーカー一本に宿る。
リーズは夕方遅く、その区画へ上がった。
モローは反対した。
ケラフは、反対するとは具体的に何を意味するのかと問いただした。
ソレルが妥協案を出した。三十分。実験はしない。立ったまま会議をしない。同時に話す相手は三人まで。
リーズは三十分には同意し、三人までという条件はたちまち忘れた。
仮設の連絡橋が足の下で震えた。緩い傾斜で岸壁とプラットフォームを結び、黄色い手すりが付き、両端には船員が二人ずつ立っていた。空中に浮いているものは何もない。まだ世界に逆らうものもない。区画は水に浮かび、前日に許可された調整によって一部だけ軽量化されていた。作業には充分安定し、それでも全員に、いま歩いているのは草稿の上だと思い出させる程度には不安定だった。
ドロネーが付き添っていた。
「あなたが落ちたら、モローに殺されます」
「モローは誰も殺さないわ」
「あの人は、見るだけで充分です」
風がリーズの髪をさらった。暖かいコートを着てくるべきだった。海は、箱の内側にある空洞を意識させる鈍い音を立て、ケーソンを静かに叩いていた。一歩ごとに、足下から違う返事が聞こえた。金属、梁、板、水、緩衝装置、ベルト。
国というものはまず、自分たちが何の上を歩いているのか、その音を聞かせるところから始めるべきだ、とリーズは思った。
プラットフォームでは、タルデューが配電盤を固定する二人の技術者を指揮していた。ブレッソンはセンサー列のそばに膝をついていた。船員が食器の箱を運んでいた。料理人のジュリアン・アウアドは、大きすぎるパーカの下に青いエプロンをつけていたので、すぐにわかった。まだ厨房と呼べるものなど何もないモジュール内で、食材容器を一列に並べていた。
リーズは彼のもとへ向かった。
ドロネーは話し相手の人数を数えるふりをして、すぐに諦めた。
「アウアドさん?」
男は身を起こした。三十五歳くらいだろうか。短い髭、動きの速い手、詮索好きに見えないよう気をつけながら理解しようとする目。
「ヴァレンヌさん」
では、知っているのだ。
少なくとも、ある程度は。
「説明は受けましたか?」
「機密区域にある隔離ユニットへ配属されると言われました。断ることもできる。受けるなら、期限付きの誓約書に署名する。最初からすべての情報は知らされないが、研修会のサンドイッチを作りに行くのではないとわかる程度には説明する、と」
覚えた文句を、努力の匂いがするほど正確に暗唱した。
「それで、引き受けたの?」
「はい」
「なぜ?」
彼は容器を見て、それから海を見た。
「危機現場の厨房を経験しています。サン・マルタン島のサイクロン。洪水のときのナントの避難所。医療キャンプにもいましたが、それは言っていいのかわかりません」
ドロネーが答えた。
「もう言いましたよ」
「ですね」
ジュリアン・アウアドはリーズに目を戻した。
「みんなが大事なことを決めている場所って、たいてい、人にまともなものを食べさせるのを忘れるんです。そうすると、みんなが馬鹿になるのが早まる」
リーズはその答えが気に入った。
答えが気に入ったというのは手続きではない、と気づき、すぐに警戒した。
「ここに泊まりたい?」
「今夜は。三晩と聞いています。その先は、また考えます」
「家族は?」
「娘がいます。隔週で一週間ずつ。今週は母親のところです」
平坦な答えだった。それでも、そこにいない子どもと、面会の予定表と、どこかにある部屋と、オレンヌに何の借りもない暮らしが、プラットフォームの上へ入り込んできた。区域が一気に広がったのをリーズは感じた。ひとり呼び寄せるたび、その背後には何にも署名しない人々がついてくる。それでも彼らは、重さの一部を担うことになる。
「望むなら、帰れます」
彼はドロネーを見た。
「そう聞いています」
「私からも言っておく」
彼は心を動かされたようだった。リーズがほかの者より強い権限を持っていたからではない。その約束が、彼を必要としている場所そのものから発せられたからだ。
医療モジュールのそばでは、以前リーズにブレスレットを巻いた看護師が、ラベル付きの引き出しを据えつけていた。カミーユ・ルドーという名だった。それまでリーズは、彼女の顔をほとんど見たことがなかった。見たとしても、不快な物を手にして近づいてくる一対の手としてしか見ていなかった。だがプラットフォームに立つカミーユは、包帯を大きさ別に収め、壁に消毒ジェルの容器を固定し、ポケットに半分つぶれたシリアルバーを入れている、ひとりの人間になった。
「あなたも、ここで寝るの?」
カミーユは肩をすくめた。
「皆さんがいっぺんに病気にならなければ、たぶん寝ずに済みます」
「頼まれたら?」
「誰と、どんな条件で泊まるのか、基地の診療所で同僚の代わりを誰がするのか訊きます」
「誓約書は読んだ?」
「三回」
「それで?」
「あなたの弁護士があちこちに条項を足してから、ずっとましになりました」
リーズは笑った。
「そういう才能があるの」
カミーユは声を落とした。
「ヴァレンヌさん、ひとつ言っても?」
「ええ」
「ひどく間違った理由で、ここへ来たがる人が出ます」
リーズは続きを待った。
「正しい理由で来る人もいます。でも、あまり大きな役割を与えると、その理由は間違ったものに変わる」
医療棚にしまっておくには、あまりにも的を射た言葉だった。
「政治家になりたい?」
「絶対に嫌です」
「それも資格かもしれない」
カミーユは笑い、またラベル貼りに戻った。
ホワイトボードには、誰かがこう書いていた。
「第1夜――最少人数のみ滞在」
その下に、
「モジュールAの清掃――未定」
リーズはマーカーを取った。
そして書き足した。
「一度も掃除しない場所に、住んでいるとは言えない」
背後を通りかかったタルデューが読んだ。
「哲学? それとも指示?」
「時間の節約」
「文句が出るよ」
「結構」
ドロネーが電話を受け、数歩離れてから戻ってきた。
「岸壁で呼ばれています」
「誰に?」
彼はほんの一瞬ためらった。
「ナデージュ・ル・ゴフです」
その名は、静かな部屋に工具が落ちたような衝撃をリーズに与えた。
縁に立つナデージュ
ナデージュは連絡橋の向こう側で待っていた。借り物の救命胴衣を肩にかけ、首から訪問者用バッジを下げ、手には布袋を持っていた。猛烈に腹を立てているように見えた。そのことが、この二週間リーズの周りに集まっていた大半の人間より、はるかに安心させてくれた。
リーズの最初の考えは高潔なものではなかった。だが、欲望とも少し違っていた。まくり上げた袖の下の裸の前腕。怒りで固く結ばれた唇。鏡も見ずに束ねた髪。それを見たとき、彼女の中の何かが、滑稽なほど率直に応じた。ここにあるのは、彼女の睡眠に合わせて準備された身体ではない。疲労に合わせて改良されてもいない。プロトコルから正しい距離に据えられてもいない。怒り、髪を乱し、自分の足で立つ自由を持った身体だ。
半秒だけ恥じた。だが、生きた身体がほかの生きた身体をデータ以外のものとして認めたからといって、謝らなければならないと思い込ませた者たちこそ、恥じるべきなのかもしれない。
ナデージュのそばでは、警備担当の士官がタブレットを確認していた。該当する欄など存在しないと、すでに知っている男の硬さだった。
「私が何のためにここへ連れてこられたのか、教えてもらえる?」
リーズは速すぎる足取りで連絡橋を下りた。
ドロネーが言った。
「ゆっくり」
返事はせず、速度を落とした。
「こんにちは、ナデージュ」
「まだ『こんにちは』なんて言ってる段階なの?」
彼女はプラットフォーム、ケーソン、手すり、白いモジュールを見てから、リーズを見た。
「何なの、これ?」
その問いは、昨日から積み重ねられた語彙の層を、一息に突き抜けた。
「複雑なの」
「それはわかってる。男が二人、職場まで来て、ほとんど知らない人にもう一度会わなきゃならない、しかも建物の名前すら誰も口にしない場所で、なんて言われたら、新しい工程管理ツールの研修を勧めに来たとは思わないから」
リーズは顔に熱が上るのを感じた。
「こんな形で連れてきてなんて、私は頼んでいない」
ドロネーが補足した。
「ル・ゴフさんは連行されたのではありません。連絡を受けたのです」
「私の職場も、家も、娘の名前も知ってる人たちにね」とナデージュ。「私のところでは、それを丁寧な連行って呼ぶの」
リーズの後ろまで来ていたケラフが言った。
「彼女が正しい」
タブレットを持つ士官は、それが気に入らなかった。
ナデージュは弁護士を見た。
「あなた、誰?」
「丁寧な言葉を使って好き勝手するのを、止めようとしている人間です」
「ご苦労さま」
リーズが訊いた。
「どうして彼女に連絡したの?」
ドロネーが答えた。
「産業機構にも国家機関にも組み込まれていない、最初期の目撃者のひとりだからです。正式な指示なしで、効果的に嘘をついた。見たものを売ろうとせず、そのまま仕事を続けた。敵対側の保安報告書二件に、脆弱な接触点となり得る人物として名前が出ています」
ナデージュは瞬きをした。
「脆弱な接触点?」
「あなたです」とケラフが、余計な優しさを交えずに言った。
「素敵ね」
「だからこそ、別の誰かに違う話を吹き込まれたまま、ひとりで放置するより、こちらから状況の一部を説明したほうがいい」
ナデージュは布袋を握りしめた。
「私、何も頼んでない」
「だからよ」とリーズ。
自分の口から出たその言葉を耳にして、少し嫌になった。だからこそ。この言葉で、彼女の周りではどれだけのことが正当化されてきただろう。リーズは言い直した。
「帰ってもいい」
「今すぐ?」
「ええ」
彼女は士官を見、ドロネーを見、ケラフを見た。
「本当に?」
ケラフが答えた。
「本当です。ただしひとつだけ。帰る前に、情報説明の面談と、最低限の保護を提案します。面談は断れます。保護も断れますが、それについてはよく考えるよう勧めます」
ナデージュはプラットフォームを見つめた。
「残ったら?」
「飾り物の証人として置いたりはしない」とリーズ。
「私にできるのは工場の清掃よ。あなたたちのそれを統治することじゃない」
「ちょうどいい。これを統治する方法なんて、誰も知らないから」
ナデージュは乾いた笑い声を上げた。
「安心させるつもり?」
「いいえ」
二人の間を風が抜けた。プラットフォームでは、誰かがモジュールの扉を閉めた。その音は物質的な警告のように響いた。彼女たちが何を決めようと、すでに人々はネジを締め、物を片づけ、配線をつなぎ、湯を沸かし、どこで眠るかを選んでいる。
セギュールも到着した。
濡れた岸壁の上でも、歩くだけで会議の始まりを告げるような男だった。ナデージュは彼を上から下まで眺めた。
「決める人?」
「私ひとりではありません」
「昔からそうだったの? それとも最近の改良?」
リーズは笑いかけた。
セギュールは立派にも、説明を求めなかった。
「おそらく両方です」
ケラフが言った。
「問題は、ル・ゴフさんを、情報提供のための立ち入り、外部での保護、仮居住、あるいは別の何かとして扱うべきかです」
ナデージュが手を上げた。
「ル・ゴフさんは、ここにいるんだけど」
「失礼しました」
「それでル・ゴフさんとしては、仕事を失うのか、平穏な生活を失うのか、それとも午前中だけ潰れるのか、知りたい」
ドロネーが答えた。
「雇用は保護されます」
「誰に?」
「国家に」
「それ、あんまり安心できない」
「安全もです」
「ますます安心ね」
リーズはナデージュを見た。
第14棟の夜明けがよみがえった。清掃用カート。落下した試験錘を見て飛び出した悪態。腫れた指。儀式もなく受け入れてくれた嘘。名簿が好んでいう意味での希少な技能など、ナデージュにはなかった。だが別のものを持っていた。奇跡がまだ工場の異常にしか見えなかった瞬間にその場にいて、それでもリーズをひとつの事件に変えなかった。
「彼女が中に入れるようにしてほしい」とリーズ。
セギュールが訊いた。
「どの資格で?」
必要な問いだった。
それでも耐えがたかった。
「この秘密の一部を、すでに担いながら、そこから利益を得なかった人として」
書類を抱えて到着したばかりのマッソンが、最後の部分を聞いた。
「そのような分類はありません」
「なら、つくるべきかもしれない」
「感情に押されて設けた分類は、後々ろくなことになりません」
ナデージュはマッソンを見た。
「あなた、扉を閉める言葉ひとつにつき給料をもらってそうね」
連絡橋の上からタルデューが言った。
「一本取られたね」
マッソンは答えないことにした。
ケラフがメモを取った。
「自動的な居住権を伴わない、招待保護証人という資格を設けられます」
「何に招待されるの?」とナデージュ。
リーズは答えを用意していなかった。
こう言いたかった。すべてがどこから始まったのか、私に思い出させるため。頭のいい人たちが、自分たちだけを現実の所有者だと思い込まないようにするため。肩書があるからといって、自分の汚したものを掃除せずに済む者などいない世界最初の国で、モップをかけるために。
もっと簡単に言った。
「私たちが馬鹿にならずに済むよう手伝いたいか、自分の目で確かめて決めるため」
ナデージュは目を細めた。
「売り込みが下手すぎる」
「ええ」
「でも、ここに来てから初めて正直な言葉を聞いた」
彼女は連絡橋を見た。
「見てもいい?」
警備士官が口を開いた。
「まずは――」
ケラフが遮った。
「事前説明、適切な書面への署名、見学後に帰る自由。その順番です」
ナデージュが息を吐いた。
「たいした国ね、あなたたちのそれ」
「まだ存在していない」
「出だしから強烈ね」
人をふるい分ける憲章
夜、彼らは最初の居住憲章を書いた。
憲法ではない。全員がそう繰り返した。その熱心さは何よりも、憲法という言葉が扉の向こうで待っていることを証明していた。
一同は技術室へ戻っていた。リーズは、説明を受け守秘義務に同意したナデージュを、前半だけでも同席させることを認めさせた。ナデージュは一頁ずつ小声で読み、大きく、ほとんど攻撃的な字で署名した。それから紙コップのコーヒーを持ってテーブルの端に座った。権力者たちが使ったものをきちんと片づけるか、見届けるつもりらしかった。
憲章は三つの自明な事柄から始まった。ところが白い紙に黒く書かれた途端、どれも自明ではなくなった。
拘束力を持つあらゆる文書は、それによって義務を負う者が理解できなければならない。
実在する役割、明確な貢献、または認定された保護事由なしに、居住を認めてはならない。
何人も、その役割だけに還元されてはならない。
ケラフは、休息の権利、医療を受ける権利、割り当てられない時間、そして明確に定義された生命に関わる緊急時を除く離脱の権利を加えさせた。モローは、緊急性を事後に再検証する条項を求めた。マッソンがため息をついた。
「座って書いてるだけの人にしては、ずいぶん息が多いのね」とナデージュ。
そして、例の言葉がやってきた。
市民権。
セギュールは先送りしたがった。ヴォークレールも同じだった。ケラフは拒んだ。
「いま書かなければ、最初の採用時の反射的判断によって定義されます」
リーズは白紙を見つめた。その言葉はもう、身分証明書には似ていなかった。灰色のプラットフォームの縁にある小さな扉のようだった。その周囲には、なぜ自分が中に入るべきかを心得た有能な人々が集まっている。
「役に立つからという理由で、オレンヌの市民になるわけではない」とリーズ。
「なら、なぜ?」とタルデュー。
「まだわからない」
その無知が、部屋の空気を少し楽にした。憲章が自分を真理だと思い込むのを防いだからだ。
ケラフは、市民権は買えない、学位によって与えられない、政治的な恩恵として授けられない、一度きりの英雄的行為によって獲得できない、リーズとの親しさによって得られない、と書いた。
「じゃあ私は、もう駄目ね」とナデージュ。
「市民権についてはね」とリーズ。「コーヒーと嫌味については、かなりいいところまで来ているみたい」
ナデージュは笑ったが、ある一行でマッソンを止めた。
「名誉の伴わない共同作業。これは残して」
「なぜです?」
「自分で汚したものを絶対に掃除しない人がいる場所は、その人たちが、ほかの人は自分たちの後始末をするために生まれたんだと思い込む場所になるから」
それ以上の言葉を、誰も思いつかなかった。
だが罠は口を開けたままだった。憲章は、その証明手段を持たないことの多い人生に、証拠を求めることになる。正直な推薦者など生き残れない国を逃れてきた人々に、推薦状を要求することになる。
「善良な人を断ることになる」とリーズ。
「ええ」とケラフ。
「受け入れた人のなかにも、私たちを失望させる者が出る」
「当然です」
ナデージュが顔をしかめた。
「じゃあ、その希少な何とかに何の意味があるの?」
リーズはセギュールを見た。彼にはよくわかっていた。フランス共和国にも、選抜試験、学校、経歴記録、そして優秀さと入る権利を上品に取り違える方法があった。オレンヌは、それをもっと純粋な形で繰り返しかねない。
「賞賛されたいという欲を、少し遅らせるため」とリーズ。
マッソンが、それは法的基準ではないとつぶやいた。
「ええ」とリーズ。「基準を設ける理由よ」
最初の拒否
憲章が完成する前に、最初の拒否案件が届いた。
パリからだった。
ヴォークレールは不承不承、それを伝えた。アルマン・デルクール。国立土木学校出身の技師。戦略的イノベーション機関の元長官。重要インフラの専門家。巨大な人脈を持つ。オレンヌの先行整備に、産業連携担当コーディネーターとして直ちに参加したいと申し出ていた。
「非常に有能です」とヴォークレール。
その言い方だけで、もう続きが予告されていた。
それまで扉のそばに立っていたドロネーが、発言を求めた。
めったにないことだった。
「封筒を持ってきた外部コンサルタントは、彼の事務所に所属していました」
沈黙が部屋を切り裂いた。
リーズが最初に思い出したのは、朝食の盆だった。リンゴのコンポート。クラフト紙。餌にまで落とされた、父の筆跡。
ヴォークレールは答えを急ぎすぎた。
「デルクールは複数の組織を率いています。彼があの行動を命じた証拠はありません」
「あれを有用だと思わなかった証拠もありません」とケラフ。
タルデューはその名を知っていた。
「速い。頭が切れる。すでに決まったことを、技術的必然に見せかけるのがとても上手い」
リーズが訊いた。
「自分の有能さ以外に、何かを信じている人?」
タルデューは答えるまでに時間を置いた。
「わからない」
「なら、入れない」
言葉が出るのが早すぎた。リーズにもわかった。ほかの全員にも。
ヴォークレールは腕を組んだ。
「現実世界とつながりのある人をすべて拒めば、オレンヌは無力になるしかありません」
「正しい扉から入る方法を知っている人を全員受け入れたら、オレンヌは生まれない」
リーズはドロネーを見た。
「私の夢から入ろうとした人間を受け入れるなら、その名にすら値しない」
セギュールが、まだましな出口を見つけた。物理的な立ち入りを認めない外部聴聞とし、事前の利益関係申告を義務づける。ケラフは暫定当局へ議事録を提出するよう求めた。ヴォークレールも同意した。
入れない。リーズは会ったこともない男の前で、ひとつの扉を閉ざした。彼を有罪にしたわけでも、人間として裁いたわけでもない。ただ、ノーと言った。その違いは確かにあった。だが、ほとんど何も軽くしてはくれなかった。
テーブルの端から、ナデージュが訊いた。
「本人は、理由を知るの?」
マッソンが答えた。
「この種の役割には区域を開放していないと伝えます」
「じゃあ、知らないのね」
「何ですって?」
「理由はわからない。自分を締め出したのが一行の文言だとわかるだけ」
リーズはナデージュに目を据えた。
彼女は勝ち誇ってなどいなかった。きれいな言い回しで閉ざされた扉を知る女の顔だった。
「すべてを話さずに、真実を伝えることはできる」とソレルが提案した。
ケラフが書いた。
「立ち入り、居住、参加に関するすべての拒否は、区域および個人の保護に厳密に必要な秘密を除き、当事者に理解可能な理由を付さなければならない」
「長すぎる」とナデージュ。
「ええ」とケラフ。「でも必要です」
夜が深まっていた。オレンヌにはいまや、最初の名簿と、暫定憲章と、料理人と、看護師と、すでに彼らの言葉遣いを拒む保護証人がいた。そして、連絡橋に足をかける前から締め出された、ひとりの才人も。
希少な市民権は、まだ一枚の紙にすぎなかった。
それでも、すでに人を傷つけていた。
リーズはひとりで、数分だけプラットフォームへ戻った。モローは渋々許可し、背後にはドロネーの視線があった。風は強くなっていた。モジュールAでは、ジュリアン・アウアドが、玉ねぎと米と胡椒の匂いがする何かを作っていた。カミーユ・ルドーは医療用ベッドの上にランプを取りつけていた。タルデューは短すぎるケーブルに悪態をついていた。ブレッソンは箱に腰掛け、センサーが話しかけてくるのを待つように眺めながら、リンゴを食べていた。
ナデージュはホワイトボードのそばに立っていた。
リーズが書いた一行の下に、こう付け加えていた。
「掃除当番を決めること。特別扱いなし」
リーズは読んだ。
「残るの?」
「今夜は帰る。娘もいるし、明日は早いし、あなたたちの浮かぶ工事現場で寝たくない」
「明日は?」
「明日は、また来るかもしれない」
「どうして?」
ナデージュはマーカーにキャップを戻した。
「このボードを偉い人たちに任せたら、三日で誰もゴミ袋の場所を知らなくなるから」
リーズは笑った。
笑うと楽になった。だが、笑いはすぐにほどけた。
連絡橋を、岸壁を、まだ行き来できる世界を見た。いまのところ、境界は作業用の線にすぎない。やがて、その向こうで人々が待つようになる。書類と、果たした功績と、本物の苦しみと、見事な理由を携えて。ひとりの人間を問題として扱わないために生まれたオレンヌは、その人々にイエスかノーかを答えなければならない。
その夜、リーズは悟った。希少という言葉は、かけがえがないという意味にもなれば、ただこういう意味にもなるのだ。私たちは、もっと高潔に扉を閉ざす方法を見つけた。
マーカーを取り、ナデージュの言葉の下に書いた。
「すべての国境は、誰のためにあるのか説明できなければならない」
ナデージュが肩越しに読んだ。
「きれいね」
「気に入らない?」
「私はゴミ袋のほうが好き」
それでもリーズは、その文を消さなかった。
そして、その下に小さく書き足した。
「そして、誰を疲れさせるのかも」
第20章
最良の者たちの避難所
申請箱
世界は、大挙して押し寄せてはこなかった。
書類の束となってやってきた。
最初は三件。リーズが知りたいとも思わなかった、フランス外務省の経路から。続いて九件。役に立つ人材を取り次ぐだけだと言い張る、各省大臣官房から。さらに二十七件。緊急度、国籍、専門領域、取得可能な資格、家族への圧力の危険、囲い込みの危険、イメージ上の危険によって分類されていた。
危険というものは、実に想像力が豊かだった。
岸壁に最も近い建物の一室が専用にあてられた。まだオレンヌの上ではない。大きなテーブル、二台のセキュリティ端末、耐火金庫、それに高すぎて、海を色としてしか眺められない窓があった。マッソンはここを適格性審査室と呼んだ。勤務を終えたあと、毎日二時間だけ来る許可を得たナデージュは、人間を入れる箱と呼んだ。
リーズはナデージュの名のほうが好きだった。
テーブルの上にあるのが、応募書類でも資源でもないことを、よく表していた。
人間だった。
その朝、最初に開いた書類は、中欧のフランス大使館から届いていた。四十歳の電力網技術者。爆撃後の復旧を専門とし、フランス語、英語、ウクライナ語、ロシア語を話す。夜間外出禁止令の下で変電設備を修理した経験があり、八歳の息子の保護を求めていた。手紙は短かった。偉大さも、運命も、新世界も語っていなかった。ただ、誰も電力の復旧を信じなくなった地区で、灯りを守る術を知っていると書いてあった。
「こういうのが、本当にできる人よ」とタルデューが言った。
二件目は、マルセイユの大病院からだった。整形外科医。災害医療の経験があり、機動医療班に所属。評判は申し分ない。民間寄付者の意向で決まる優先順位を拒み、病院上層部と激しく対立していた。オレンヌに必要なのは式典より先に現場医療だ、と書いていた。
テーブルの端にいたモローは、その一行を二度読んだ。
「間違ってはいない」
三件目は、タンジェの港湾労働者だった。重要人物からの推薦はひとつもなく、信頼に値する人たちなら誰もが推薦していた。三人の現場監督、二人の水先案内人、ひとりの労組員、船乗りの未亡人、退役したフランス人士官が、彼は荷と人間と事故とストライキの日々を、多くの埠頭責任者よりよく知っていると書いていた。市民権は求めていなかった。技術者たちが港を図面だと思い込むのを防げる人間を、オレンヌが必要としているか確かめたい、とだけ書いていた。
ナデージュがテーブルに肘をついた。
「この人には会いたい」
マッソンが咳払いした。
「ル・ゴフさん、好感だけで決めるわけにはいきません」
「受け入れろとは言ってない。会いたいって言っただけ。あなたたちが履歴書を気に入れたときは、みんなそれを専門的判断って呼ぶじゃない」
ケラフは書面から目を上げなかった。
「また一本取られましたね」
マッソンは次の書類へ移った。
リーズは、名前がひとつずつ並んでいくのを眺めていた。ある言語学者は、法律に従わされる者がその言葉を理解できなくなった瞬間、法律は暴力になると書いていた。ある気候学者は、所属研究所にデータを葬られる前に公表した。吊り上げ用ワイヤーの職人は、職業証明書と一緒に、間違って自分の両手の写真を添付していた。職業高校の教師は、オレンヌは、まだ希少には見えない人々も育てるのかと訊いていた。
誤って分類されたフォルダーの中に、インフラ投資ファンドから来たメモが紛れていた。三行だけ。あまりにきれいなスキャン。オレンヌの港湾利用の可能性について、非公開評価を求めていた。応募でも、立ち入り申請でも、居住申請でもない。ただ、すでに入口を探し始めている関心の匂いがした。マッソンはそれを対象外申請に分類し、フォルダーは有用人材の書類の下に消えた。
世界は最良の人材を送り込んできた。そしてもう、質の悪い要求も。
その言葉は、警報のような鮮明さでリーズに訪れた。最良という言葉が気に入らなかった。何にとって最良なのか。誰が決めるのか。いつまでなのか。
ちょうどそのとき、画面のヴォークレールが言った。
「きわめて優秀な人材が集まっています」
ナデージュが鼻で息を吐いた。
「人材」
「ル・ゴフさん……」
「いいの、続けて。集めてるから」
ヴォークレールは取り合わないことにした。
「歴史的な機会です。オレンヌが最も確かな技術的良心を引き寄せれば、フランスに依存する実験基地とは違うものとして誕生できる」
「ここを去る余裕のある人しか集まらなかったら?」とリーズ。
沈黙の形が変わった。
リーズは電力網技術者の書類を手に取った。
「彼女は、向こうで灯りを直している。ここへ来たら、誰が代わりをするの?」
「その理屈では、誰も出発できなくなります」とマッソン。
「違う。性急に自画自賛することを禁じているだけ」
窓辺に座るソレルが腕を組んだ。
「脆弱なシステムが最初に失うのは、まだそれを支えられる人です」
「ありがとう」とナデージュ。
「格言のつもりではありません」
「よかった。格言は最後には壁に貼られるから」
リーズはホワイトボードを見た。国境についての一行は残っていた。ナデージュが掃除当番を付け加え、その下には誰かがこう書いていた。
「外部立ち入り申請――A群」
もうこの場所は、ふるい分けることを学び始めていた。そして、ふるい分け方を知らないものはテーブルの下へ落ちていった。
できる者たち
最初の面談は、本人を呼ばずに始まった。連絡橋を渡ることも、握手も、プラットフォームに顔を見せることもない。
声。ときには映像。たいていは不安定な回線。数秒の遅延。あまりにもきれいな言葉に直してしまう通訳。ケラフの前に開かれた資料。マッソンの前にもう一部。ドロネーの前に三部目。外交官、軍人、法律家、高級官僚以外を面談するときには、ナデージュも同席させるようリーズは求めた。
「どの資格で?」とマッソン。
「テーブルの前で誰かが自分を小さくするとき、その音を聞き取れる人として」
ナデージュは礼を言わなかった。
ただ、椅子を引き寄せた。
タンジェの港湾労働者は、サミール・エル・アムラニという名だった。幅の広い顔。ごま塩の髭。明るすぎる色のシャツ。映像になることを拒むように、画面を見据えていた。フランス語で挨拶し、スペイン語で言い直し、それから自分で笑った。
「立っているほうが、うまく話せます」と通訳が訳した。
「じゃあ、立てばいい」とナデージュ。
マッソンが口を半分開けた。
サミールは立ち上がった。
呼吸が楽になったのが、全員に見て取れた。
彼はオレンヌを理想郷として語らなかった。予定されている保管区域はいくつあるのか。許容重量を誰が決めるのか。再び重くなり始めたモジュールをどう知らせるのか。埠頭作業員を誰が訓練するのか。技術者を通さずに「止めろ」と言う権利を誰が持つのか。そう訊いた。
タルデューはメモを取った。
面談の最後に言った。
「ここにいる何人かより先に、もう理解してる」
「わかります」とマッソン。「ただし、行政上の資料が弱い」
「何が欠けているの?」
「高等教育の学位。公的機関による推薦。資格認定の見込みが不確か。対立の多い労組活動歴」
ナデージュが首を傾げた。
「つまり、この人を忘れていない人たちがいるってことね」
「そうは言っていません」
「私にはそう聞こえた」
リーズが訊いた。
「危険な命令を拒める人?」
タルデューが答えた。
「拒める」
「なら、資料は弱くない」
結論は出なかった。
サミール・エル・アムラニは、短期待機に回された。
短期待機。その言い方がリーズを傷つけた。ひとりの人生の時間を、手頃な大きさの箱にしまえるとでもいうようだった。
次の面談は、もっと滑らかだった。カナダの憲法学者。明瞭な声、完璧なフランス語。彼女は、すぐに来ることを拒んだ。
「守りの文書を書ける人が全員、守られた場所へ移ってしまえば、残された人々には弱い文書しか残りません」
外部から協力することを提案し、さらにひとつの原則を示した。ケラフはすぐに書き留めさせた。専門性それ自体は、いかなる居住権も生まない。
三人目の面談は、もっと短かった。
スイスの億万長者が、居住モジュール三棟、研究所、医療ユニット、研究財団への資金提供を申し出ていた。その見返りに、家族が滞在する権利を求めていた。本人は出てこなかった。代理の弁護士が、高すぎる本棚と、おそらくオレンヌの厨房モジュールより高価な花瓶のある部屋から話した。
「特権を求めているのではありません」と弁護士。
ナデージュが天井を見た。
「ああ」
「長期的な提携をご提案しています」
ケラフは書類を閉じた。
「お断りします」
「先生、まだ提案の詳細をお聞きになっていません」
「聞きました。あなたはそれを家族と呼んだ」
弁護士は職業的な間を置いた。
「ライス氏には二人の子どもがおり、うちひとりは希少疾患を患っています」
希少という言葉が、リーズの胸を斜めに横切った。
ケラフは目を伏せなかった。
「ならば、そのお子さんには医療を受ける権利があります。国家を得る権利ではありません」
回線はきれいに切断された。
画面が黒くなるまで、リーズは待った。
「モジュールだけ受け取ることもできた」とヴォークレール。
「父親も一緒についてきます」とケラフ。
「必ずしもそうとは」
「必ずです」
朝からずっと黙っていたセギュールが言った。
「それを別の名前で呼ぶ術を知っている者に、場所を売るところからオレンヌを始めるわけにはいかない」
ナデージュがテーブルを指で叩いた。
「それも書いておけば」
誰かを連れてくる者たち
次の罠には、金ほどの優雅さはなかった。
家族の姿でやってきた。
ギリシャ人の生物学者は、六か月の居住を受け入れるが、記憶を失いつつあり、もう施設では暮らせない母親なしには行けないと言った。レバノン人の物流専門家は、世界中どの港でも救援物資の供給網を組めたが、すべてが本人のものではない借金のため脅されている弟を連れてきたいと求めた。三つの人道支援機関と二人のフランス市長から推薦された下水処理の専門家は、パートナーと、書類上は息子ではないが九年間育ててきた十六歳の少年を伴いたいと言った。
マッソンは区域を語り、ケラフは権利を、ドロネーは危険を、モローは部屋を、ナデージュはベッドを語った。
多くの場合、ナデージュが勝った。ベッドと言えば、それ以外のすべてが抽象論ではなくなるからだ。
「先行居住だって、あなたたちは言う」と、五件目の家族案件のあとナデージュは言った。「いいわ。人は誰と一緒に住むの? 履歴書と?」
「近親者を全員受け入れることはできません」とドロネー。
「全員なんて言ってない。鍋を持つ人、薬を持つ人、子どもやおばあさんの手を引く人、あるいはただ一日の終わりを一緒に支えてくれる人がいるから立っていられる人について、どこで線を引くのか訊いてるの」
リーズは目を閉じた。
マリアンヌを思った。解決策としてではない。証拠として。
人は決して、ひとりで部屋へ入ってはこない。身体がひとつでも、台所、電話、死者、約束、守るために嘘をついた人、黙ることで裏切った人を連れてくる。
「欄をひとつ増やして」とリーズ。
マッソンが疲れた仕草を見せた。
「またですか?」
「生命を支えるつながり」
「曖昧です」
「ええ」
「法的に脆い」
「たぶん」
「悪用できます」
「人間に関わるものは、何でも悪用できる」
ケラフがペンを取った。
「別の表現にできます。強制的に引き離すことで、本人の同意、健康、安全、または現実に居住を続ける可能性が著しく損なわれる者」
ナデージュが顔をしかめた。
「長い」
「ええ」
「でも、わかる」
「なら、いつもよりは失敗していません」
少しだけ笑いが起きた。
すぐに消えた。
欄が追加された。
すべてが複雑になった。
書類は、整然とした行であることをやめた。マルセイユの外科医には、交互に両親の家を行き来する娘と、糖尿病の父親がいた。電力網技術者には、鉄塔の絵を描き、明かりがなければ眠れない息子がいた。サミール・エル・アムラニには、二人の姉妹と、テトゥアンに暮らす母親と、彼が人を指揮するより船を修理していると思っている三人の甥がいた。言語学者には、ジュネーヴを離れたくない伴侶がいた。公立学校で教えており、言葉へ到達する権利を守るために、四月に生徒たちを見捨てるのは妙なやり方だと言っていた。
ひとつの名前から、一本の糸が伸びていた。
その先には、暮らしがあった。
ついにヴォークレールが、何人かの胸にあったことを口にした。
「ここまで範囲を広げれば、最初の輪の規模を制御できなくなります」
「広げなければ」とリーズ。「つながりを断ってでも入れる人ばかりを引き寄せることになる」
「そういう人は、動きやすい場合もあります」
「そして、ときには最も危険でもある」
ソレルが顔を上げた。
「全面的な専従を求めるシステムは、選別を誤ります。献身と、つながりのなさを混同する」
ナデージュが笑った。
「ほらね。物理学者」
「物理の話ではありません」
「あなたの場合、何だって最後には持ちこたえるか壊れるかでしょう。それなら同じよ」
ソレルは答えなかった。
紙の端に何かを書き、線を引いて消した。
リーズは何を書いたのか訊かなかった。
誰もが、早く渡しすぎないよう胸にしまっている言葉を、少しずつ見分けられるようになっていた。
磁石となる言葉
午後、セギュールは廊下で電話を受けた。戻ってきたとき、会議で使う声とは少し違っていた。
「外国人の気候学者が保護を求めています。所属研究所がデータを葬ろうとしている。資料を持って来ると言っています」
「ここに住みたいんですか?」とマッソン。
「自分の知っていることを、どこかで生き残らせたいそうです」
その後も連絡は続いた。脚注の中で死にたくないという行政裁判官。公式写真を撮る前に疲労を数えてくれる場所を求める災害看護師。居住者の子どもだけに教育を限らないという条件で、オレンヌ最初の見習いたちを育ててもいいという職業高校の教師。
ナデージュは最後の書類を脇へよけた。
「大人を選び終わる前に、もう子どものことを考えてる」
ケラフもうなずいた。
「よい兆候です」
「基準にはなりません」とマッソン。
「ええ」とリーズ。「思い出すための印よ」
それでも大統領府は、短い文書を求めた。ヴォークレールは「重要人材への誘引効果」という表現を提案した。ケラフはその用語を拒んだ。
「重要人材では、人間が緊急搬入すべき資材になってしまいます」
最終的に、文書の表題はこうなった。
「オレンヌ区域による初期誘引効果」
有資格者が保護、立ち入り、提携を求めていること、その要求が、元の組織に対する道徳的な疲弊からも生じていることが記されていた。何よりも、フランスは人材の囲い込み、他国の不安定化、技術貴族制との非難に備える必要があると記されていた。
リーズは、言葉が働くに任せた。
「これが危険なの」
セギュールは文書を置いた。
「オレンヌを支えられる者を受け入れないことも、危険です」
「そこが心配なのよ」
苛立ちを交えずに言った。ジュリアンが食数を数え、カミーユが包帯を収め、タルデューが物質を支え、ソレルが証拠を支え、ケラフが法を支え、ナデージュが、一部の付属文書より堅固な憲法原則のようにゴミ袋を支えているのを、リーズは見てきた。場所は意図によって生まれるのではない。何かをする術を知る人々が、同じ場所でそれをすると決めるから生まれる。
問題はそこにあった。
最良の者を求める場所は、最後には自分に都合のよい方法で、最良の者を見分けるようになる。
「退出の原則が必要」とリーズ。
マッソンが顔を上げた。
「退出?」
「ええ。来た者は誰でも、裏切り者扱いされずに去れること。そして不可欠な業務を離れて来る者は、自分が何を後に残すのか説明すること」
「罪悪感を抱かせるように聞こえます」
「違う。質問するだけ」
ナデージュがうなずいた。
「本当の質問なら、それだけでも痛いことはある」
ヴォークレールが異議を唱えた。
「申請を認める前に、自国を救えと求めるわけにはいきません」
「国を救えと言いたいんじゃない。誰がその出発の代償を払うのか、訊きたいの」
ケラフが書き留めた。
誰も止めなかった。
外に残る者たち
夜、リーズはひとりで書類室に残った。
ほんの数分だけ。
モローが「ひとり」という言葉に条件をつけた。扉は開けておく。ドロネーは廊下にいる。テーブルに水を置く。十五分を超えない。ケラフは、十五分は法的な時間ではないと言った。モローは、医師にとっての時間だと答えた。ケラフは、自分がどの職業から出てきたかを知っている言葉が好きだったので、認めた。
リーズは、却下された書類をひとつ開いた。
億万長者でもない。スパイと思われる人物でもない。危険な男でもない。
三十二歳の女性。地方都市で数学を教えている。マッソンが使う意味での希少な技能はない。取得できそうな資格も、政治的な危険にさらされた経験もない。危機対応の経験も、研究所も、人脈も、特許も、港も、船も、犯罪歴も、目を引く推薦状もない。本来なら存在しないはずのアドレスへ手紙を送ってきた。誰かを知る誰かが、技術者を知る誰かから教わったアドレスだった。手紙は一枚きりだった。
自分がどこにおいても秀でてはいないと、気づくのが遅すぎた、と書いていた。
だが、たいていの場所で信頼には足る。
ゆっくり説明することができる。
互いに憎み合っている生徒たちを、一緒に作業させられる。
食べていない子、文字が動くせいで問題文を読めない子、書かなくて済むよう皆を笑わせる子を見抜ける。
市民になりたいのではない。
新しい場所が、ほかの人々の輝きに感心し終える前に、普通の人間を必要とすることはないのか。それだけを訊きたい。
マッソンは書類を単純却下に分類していた。
理由――
「現段階では、該当する需要なし」
リーズは、その一行を何度も読んだ。
理解できる文章だった。
正しくさえあった。
現段階で、オレンヌには学校がなかった。居住する子どもも、教室も、新学期も、校庭も、忘れられたノートも、遅すぎる時間に面談を求める保護者もいなかった。現段階で必要なのは、溶接、係留、法律、警備、医療、調理、気象学、構造、そしてフランス国家と他国とオレンヌ自身が、互いを丸呑みにしないよう止められる人々だった。
現段階。
リーズはペンを取った。
却下を取り消しはしなかった。
ただ、こう書き加えた。
「オレンヌが、自らの緊急事態以外のものを受け入れると称した時点で再審査すること」
それから、書類を閉じた。
廊下でドロネーが動いた。
「大丈夫ですか?」
「いいえ」
彼は待った。
リーズは思わず笑った。
「それは医学的な答え? それとも政治的な答え?」
「正直な答えです」
「なら、そのままでいて」
ドロネーは入ってこなかった。
リーズはそのことに感謝した。
ホワイトボードには、帰る前にナデージュが最後の一行を残していた。
「役に立つ人たちが、自分こそ世界だと思い込むのをやめたら、次は誰を入れる?」
リーズは二度読んだ。
マーカーを取った。
手がためらった。
文法を直すこともできた。もっと受け入れやすい言葉にすることもできた。法の言葉に変えることも。
ただ、その下にこう書いた。
「外に残る者たちも、数に入る」
単純だった。単純すぎたかもしれない。
だがその夜、卓越性の証拠ばかりが積み上がる明るすぎる部屋で、その一行は、ほかの何よりも守るのが難しいものに思えた。
第21章
フランスという鏡
国が目にしたもの
オレンヌは、一度に姿を現したわけではない。断片となって外へ漏れた。
最初は、湾内で長く減速しすぎたフェリーから撮られた、ぼやけた一枚の写真だった。ケーソン、連絡橋、クレーン、真新しいコンクリートの帯。その中央には、単なる造船所にしては清潔すぎる造船現場のようなものが写っていた。写真は赤い矢印や丸印を描き込まれて拡散した。インターネットで海図を見たというだけで自信を深めた人々の仮説とともに。
次に、文書の抜粋が流れた。三行だけ。理解するには足りず、傷つけるには充分だった。
「オレンヌ先行整備区域。立ち入りには双方の承認を要する。業務居住資格は市民権と区別する」
あとは、市民権という言葉がすべてを引き受けた。
新しい名と、軍用埠頭と、まだ誰も顔を公表していない女。その隣にこの言葉が現れただけで、国じゅうが、自分の家から一部屋奪われたかのように語り始めた。
最初に報じたニュース専門局は、地図を使った。青、白、灰色の端正な図で、オレンヌはブレスト沖に浮かぶ小さな染みにすぎなかった。キャスターは言った。
「フランスの実験的な自治主体です」
出演した憲法学者が訂正した。
「入手した文書が正しければ、フランスの保証下に置かれた先行的枠組みです」
「それは、どういう意味でしょう?」
彼は疲れた笑みを浮かべた。定義を与えるために番組へ招かれる男たちの笑みだった。この国は定義より、怒りを好むというのに。
「どう呼ぶべきなのか、まだ誰にもよくわからないという意味です」
別のスタジオでは、言葉が陣営を探していた。民主主義の実験室。贅沢な分離独立。特権区域。そして誰かが、フランスは自分に属するものを手放す権利などない、と断じた。
もの。
リーズは、セギュールが画面を設置させた小部屋で、その言葉を聞いた。他人に要約される前に、何が言われているか自分で見たほうがいいと彼は考えた。ケラフも賛成した。モローは反対し、それから音量と時間とぬるい水と背もたれ付きの椅子について交渉した。
部屋には六人いた。リーズ、ケラフ、セギュール、ヴォークレール、ドロネー、そして、まだ湿った上着を着て、清潔な着替えの入った袋をテーブルの足元に置いたナデージュ。自分がなぜここにいる権利を持つのか、ナデージュは訊かなかった。この頃にはもう、ひどくきれいな理由で人を締め出しておきながら、もっと不可解な理由で呼び戻すことがあると理解していた。何かの役に立つなら、利用してやろうと決めていた。
画面の中で、赤いスーツを着た女が訊いた。
「誰がオレンヌ人になれるのでしょうか?」
字幕にはこうあった。
「オレンヌ――選別を通過した者たちのフランス?」
ナデージュが息を吐いた。
「見つけるのが早いわね」
「何を?」とセギュール。
「痛いところ」
ケラフが何かを書きつけた。セギュールはその手を見た。
「法的意見書に、ニュース番組を引用するつもりですか?」
「いいえ。それが利用している傷を引用します」
ヴォークレールは、離れた場所から会話を正せるとでもいうように、画面へ身を乗り出した。
「問題は、漏洩情報の中で、事実と、不完全な事実と、捏造が混ざっていることです」
「鏡はどれもそうでしょう」とケラフ。
リーズは地図の小さな染みを見つめていた。そこでは、オレンヌが実物より単純に見えた。明るい形。輪郭。名前。周囲の水。フランス全土は、習慣どおり画面を埋め尽くしていた。病室も、県庁も、工場棟も、地方港も、職業高校も、駅の近くにある高すぎる住居も、低賃金の人間と立派な言葉でどうにか持ちこたえている公共サービスも、そこには映らない。
映るのは、見慣れた塊と、新しい約束だけだった。
新しい約束は、小さいというだけで、より誠実に見えた。
「消して」とリーズ。
モローはいなかったが、ドロネーが従った。
沈黙が、部屋を本来の大きさに戻した。
「オレンヌを、フランスを見下す手段にはしたくない」とリーズ。
セギュールは時間をかけて答えた。
「私たちが望もうと望むまいと、そうなります。少なくとも、一部の人々にとっては」
「なら、そうするのを難しくしなければ」
ヴォークレールがリーズを見上げた。
「どうやって?」
リーズは、黒い画面の淡い反射の中に、まだ読める字幕を見た。
「小さいものは、その美徳によって清潔なのだと思わせるのをやめる」
小さく切り取られたフランス
翌日、首相府は、ほとんど冗談のような題名でパリの関係者を集めた。
「オレンヌ・モデルに対する国民認識」
リーズはブレストから安全回線で参加した。黙っているか、遠隔出席するか、どちらかを選べと言われていた。ケラフが第三の選択肢を加えさせた。本人を見ずに、あまりに近いところで本人について話されたときは、口を挟む。
パリのテーブルには、各省庁の局長、二人の県知事、社会政策顧問、財務省の男、国民教育省の代表、首相府顧問、ヴォークレールが座っていた。リーズの隣にはセギュールがいた。マッソンは少し後ろに控えていた。事実より言葉のほうが危険になると、すでに知っている男のように。
首相府顧問は、自明なことから始めた。
「オレンヌが人々を魅了するのは、国家が大きな規模で支えきれないものを、小さな規模なら解決できるように見えるからです」
窓辺に座る女性知事が、乾いた笑みを浮かべた。
「人々が惹かれるのは何より、オレンヌにはまだ、年金生活者も、商業地区も、県道も、工事中の中学校も、行政への異議申立ても、建築許可に反対する隣人も、三世代分の破られた約束を抱えてやって来る家族もいないからです」
「まさに、それを説明しなければなりません」とヴォークレール。
「いいえ」と知事。「嫉妬する前に、私たち自身が思い出さなければならないことです」
リーズは、知らないその女性を好きになった。フランスを、動作の遅い古いソフトウェアのように扱いかねない部屋へ、現実を持ち込んだからだ。
国民教育省の代表が手元の紙を見た。
「却下された数学教師の申請が、歪められた形で出回っています」
リーズは身を起こした。
「どういう形で?」
「ごく普通の教師が入域を求めたところ、オレンヌは『該当する需要なし』と答えた、とされています。文書が本物かどうかは確認できていません」
リーズは手の中に、あの却下書類を、ペンを、余白を感じた。その恥を、書類の中にしまっておけると思っていた。もう誰かが取り出してしまった。
「本物です」
パリの部屋の温度が変わった。
「それなら」と国民教育省の代表は続けた。「教師たちは、技術的な卓越性が教育より優先される証拠だと受け取っています。事務職員は、新しい場所が、時間をかけて物事を修復する職業を求めていない証拠だと。労働組合は、国家が才人だけを選び、辛抱強い者たちを共和国に置き去りにする、と言い始めています」
リーズの背後で、ナデージュがつぶやいた。
「辛抱強いって、先生にもぴったりね」
ケラフが、その言葉を書き留めた。
首相府顧問は、聞こえなかったふりをした。
「議論が道徳論になるのは避けなければなりません」
知事が小さく笑った。
「手遅れです」
セギュールは両手を組んだ。
「一部の行政幹部は、オレンヌの暫定原則を、なぜフランス全土に適用できないのかと問い始めています。迅速な意思決定、不透明な資金提供の禁止、平易な言葉による資料閲覧、理由を示して回答する義務、離脱の権利」
「どうしてできないの?」と、ブレストからナデージュが言った。
誰もたしなめなかった。あまりに簡単な問いで、避けようがなかった。
女性知事が答えた。
「国というものは、客が来る前に片づける一部屋ではないからです。でも、だからといって部屋を汚いままにしていいわけではありません」
リーズは彼女をもっと注意深く見た。
「お名前は?」
「デルフィーヌ・ルーです」
「オレンヌに来たいと申請しましたか?」
少し驚いた沈黙が、パリを走った。
ルー知事は微笑んだ。
「いいえ。私はすでに、複雑な国の中にいますから」
リーズは、安堵に似た何かを隠すために目を伏せた。
辱められた職業
怒りは、職業ごとにやってきた。
訛り、制服、メール特有の言い回し、打ち間違い、すでにすべてを奪った一日のあとで書かれた長すぎる文章。それらを伴って。数百通が届き、さらに増えた。マッソンは分類したがった。ケラフは読みたがった。セギュールは要約したがった。ナデージュは、せめて声を聞いてから分類に変えろと言った。
そこで、読み上げる場を設けた。
式典ではなかった。書類室で一時間。印刷された紙の束。開いたパソコン。三脚多すぎる椅子。睡眠不足の役所の味がするコーヒー。モローは、リーズがいつでも退室できることを条件に認めた。リーズは、いつでも残ることもできると答えた。モローは、その違いは医学的だと言った。ケラフは政治的だと言った。二人は互いに険しい顔をすることで合意した。
ナデージュは、県庁職員のメッセージから始めた。
「あなたたちは、断り方が上手いから仕事が速いと思っている。良心が痛まずに済む書類だけ選べるなら、私たちだって速くなる」
彼女は顔を上げた。
「刺さるね」
「続けて」とリーズ。
北部の病院で働く夜勤看護師は、こう書いていた。
「希少な市民権という話を読みました。ここでは、市民権は希少ではありません。人は痛いから、年老いているから、かかりつけ医がいないから、待ちすぎたから入ってくる。選ばなければならないのはわかります。ただ、それをあまり早く正義と呼ばないでください」
ケラフはペンを置いた。
部屋は数秒、その言葉を通り過ぎさせた。
次にドロネーが、サン=ナゼールの港湾労働者たちからの手紙を読んだ。彼らは何も求めていなかった。タンジェの港湾労働者が、技術者に架空の港を描かせないという理由で入れるのなら、フランスが自分自身を、岸壁もトラックも疲れた身体もない国として描くのを、長年にわたって防いできた者たちも招くべきではないか、と書いていた。
「そのとおりよ」とタルデュー。
技術確認のために来て、許可も求めず椅子に座っていた。彼女がいると、部屋の空気が変わった。国家の技術者たちは、物質世界が代表を送り込んできたかのように、いつもと違う話し方をした。
「何が正しいんです?」とマッソン。
「日常の技能は、壊れるまで見えないってこと」
ナデージュが笑った。
「あなたのこと、しまいには好きになりそう」
タルデューは笑わずに答えた。
「急がないほうがいい」
四通目は、職業高校からだった。クラス全員で書いていた。文章の出来は揃っておらず、教師が直したとすぐわかる箇所もあれば、そのままの箇所もあった。下には署名が並んでいた。丸い字の名前。角張った字の名前。クレーンの絵が二つ。トラック。小文字の「i」の点に描かれたハート。
「オレンヌさんへ」と、ある生徒は書き出していた。
リーズは目を閉じた。
ナデージュはすぐに続きを読まなかった。
「飛ばしてもいいけど」
「駄目」
そこで、彼女は読んだ。
「すごくできる人たちを集めていると聞きました。僕たちは、そこそこできる人になるために勉強しています。それでも役に立てますか。それとも、飛び抜けた人になるまで待たないと、手伝えませんか」
ほとんど正しい綴りと、耐えがたいほどの優しさをたたえた問いが、そこに残った。
セギュールはリーズを見た。官僚としてではない。その文章が扉を開いたのか、傷口を開いたのか、見届けようとする人の目だった。
「返事をして」とリーズ。
「何と?」
「それも数に入る、と」
「オレンヌの名で?」
リーズはためらった。
オレンヌの名で答えれば、約束になる。リーズの名なら、私的な感情になる。フランス国家の名では、パンフレットになりかねない。ケラフはためらいに気づき、それが正しい場所へ落ちるまで待った。
「先行整備組織の名で」とリーズ。「そして私の名前で署名して」
マッソンは口を開き、閉じた。
電話で参加していたヴォークレールが、正確な文面を読み上げるよう求めた。セギュールが読んだ。受話器から、わずかな呼気の音がした。笑いだったのか、疲労だったのか。
「期待を生みますよ」
「ええ」とリーズ。「人に話しかけるというのは、そういうことでしょう」
返事はその日の夜に送られた。
多くは語らなかった。委員会に感銘を与える人間だけが、助ける資格を持つのではないこと。学び、修理し、繰り返し、伝え、華やかさのない場所を支える仕事が、いつの日かオレンヌがその名に値するなら、そこでも大切にされること。先行整備区域にはまだ学校がないが、学校がなぜ存在するのかを、すでに思い出す必要があること。
送信前に、ナデージュが読み直した。
「いいと思う」
「足りない」
「足りない善意が、いいことの始まりになる場合も多いよ」
リーズは彼女を見た。
「いつから楽観主義者になったの?」
「礼儀正しくするのを諦めてから」
三十分後、プラットフォームで低い警報音が鳴った。
主権とは関係なかった。
汚水警報だった。
衛生モジュールの排水が止まっていた。床に近すぎる位置でネジ留めされた板の向こうで、灰色のポンプが咳き込んでいた。熱いプラスチックと漂白剤と、冷めたスープの匂いがした。図面上では迅速かつ整然と施工され、現実ではそれほど整然としていなかった。誰かが仮設の流しで米をすすぎすぎて、ストレーナーが詰まった。そしてオレンヌが市民権について語ることを可能にしていたすべてが、場所というものは、あふれ出さないことからも始まるのだと突然思い出した。
タルデューはもう膝をついていた。ヘッドランプを斜めにかけ、スパナを手にしていた。ジュリアン・アウアドがバケツを持っていた。カミーユ・ルドーは手袋とガーゼ、それに夜勤の不機嫌さを持ってきた。ナデージュは、誰に言われるでもなくモップを見つけ、厳しく、ほとんど優しい目で光景を眺めていた。
「これね」と彼女。「あなたたちの最初の制度」
リーズは扉のそばに立った。
「手伝える?」
タルデューが目も上げず、ランプを差し出した。
「照らして。それから理論は考えないで」
リーズはランプを持った。
手が震えていたので、光も少し震えた。板の下で管が断続的に振動し、病んだ喉のような音を立てていた。ジュリアンがバケツを据えた。しずくが袖に飛んで、カミーユが悪態をついた。世界の天才たちがオレンヌを国際的な浄化槽に変える前に、流しへ捨ててはいけないものの一覧を作る必要がある、とナデージュが宣言した。
すぐには誰も笑わなかった。
やがてジュリアンが笑い、ほかの者も続いた。
詰まりは、柔らかな音を立てて一気に抜けた。汚水がバケツへ落ちた。その率直さは、その日書かれたどの文書にもなかった。タルデューは急いで下がりすぎてリーズの膝にぶつかった。カミーユがバケツを受け止めた。ナデージュは、不可欠な修正案を提出するようにモップを置いた。
数分のあいだ、オレンヌはモデルでも、選別装置でも、自らの遅さに辱められたフランスの約束でもなかった。ポンプを囲む四人と、米のことを謝る料理人と、乾いた手袋の価値を知る看護師と、袖に灰色の水を浴びた技術責任者と、下手な照らし方をしながらもそこを離れないリーズだった。
安心するには足りなかった。
ほんの少しだけだった。
優等生たち
エリート層の称賛は、彼らの怒りより不穏だった。
怒りは何かを取り戻したがっていた。称賛は、汚れずに中へ入りたがっていた。
戦略メモ、出向の提案、匿名の論説、市民財団、真新しい場所から国家を考え直すことを急に望み始めた元高級官僚たち。そんな形で届いた。ケラフは容赦なく要約した。
「古い規則から充分に利益を得た人々ほど、新しい規則が必要だと真っ先に言い出すものです」
掲載前から各省官房を巡っていた論説があった。若手国家公務員の集団による署名で、題名はこうだった。
「オレンヌ――ふたたび厳格さを取り戻した共和国」
文章は華麗だった。だからこそ危険だった。コンドルセ、レジスタンス、官僚エリート、発明の境界としての海、義務としての能力。すべてが、誤りになるには充分なほど正しかった。執筆者たちは、最良の公務員を数年間オレンヌで働かせ、その後フランスの行政を変革するために帰還させるべきだと主張していた。
「徳を磨く研修にしたいのね」とナデージュ。
ヴォークレールが答えた。
「息をつきたいのかもしれません」
「両方は両立する。だから腹が立つのよ」
論説は、公表前から影響を生んだ。大臣顧問たちは、それと認めずに参加したがった。官僚養成校は講演を求めた。民間コンサルティング会社は、制度移行を支援すると申し出た。ケラフはその表現を三重に囲み、余白に「初期寄生者」と書いた。
セギュールのもとには、かつての同僚二人から電話が来た。スピーカーにはしなかったが、返答を聞けば、空きがあるのか訊かれているとリーズにもわかった。具体的な職ではない。歴史の中の席だ。あとになって、最初からいた、と言える場所。
二本目の電話を終えると、セギュールは画面を伏せて携帯電話をテーブルに置いた。
「全員が卑しいわけではありません」
「そうは言ってない」とリーズ。
「充分大きな声で、そう考えていましたよ」
リーズは思わず笑った。
「かもしれない」
彼は言い訳もせず、その一撃を受け入れた。
「物事の進め方そのものに疲れ切った人間も知っています。本気で公共への奉仕を信じていた人々です。オレンヌを見て、長いあいだ引っかいてきた壁に扉が開いたように感じている」
「あなたは?」
彼は窓を見た。
「私は、その壁をつくる側に関わりすぎた。最初に扉から入る資格はありません」
リーズは、その正直さをどう受け取ればいいかわからなかった。
テーブルの上では、論説がまだ力を保っていた。それは優等生たちに、優等生であったことは間違いではなかったと告げていた。知性、労働、誠実さ、明晰さが、いつかようやく惰性に負けずに済む部屋が、どこかにあるのだと。
そこが罠だった。オレンヌは冷笑家の逃げ道であるだけではない。誠実な人々にとっても誘惑になりつつあった。
論説にざっと目を通したタルデューが、指で押しやった。
「フランスを汚れた機械、オレンヌを高級部品だけ直す清潔な工房みたいに書いてる」
「それで?」
「機械が汚れていたって、高級部品だけ抜いたりはしない。そんなことをしたら、残りがもっと早く壊れる」
明快な比喩だったので、全員が気に入った。
本当だったので、すぐに気に入らなくなった。
ヴォークレールは、論説の執筆者たちに非公式な返答を用意するよう求めた。セギュールは慎重な案を出した。オレンヌは、国家から最も有能な職員を徴取するためではなく、後に公共のため役立つ形を実験するためにある。ケラフは、徴取するを削除するよう求めた。セギュールはすぐに応じた。その言葉は、否定しようとした事柄を、あまりにも正確に言い表していた。
最終的にはこう書いた。
「オレンヌでのいかなる奉仕も、名誉ある脱走を正当化しない」
ナデージュは、論説ほど洒落ていないと言った。
「それで結構」とケラフ。
残される国
高校生への返事をリーズが読み返していると、マリアンヌから電話がかかってきた。
邪魔ではないかとは訊かなかった。何をしても常に誰かの邪魔になるようになってから、その質問をやめていた。
「テレビで、あんたの島を見た」
「島じゃない」
「はいはい。水に囲まれてて、島じゃないって人が説明してる、あんたのあれ」
リーズは電話を耳に当て、部屋を出た。ドロネーは別のほうを見るふりをした。それは、三メートル離れてついてくるという意味だった。リーズは湾を望む窓まで歩いた。低く、灰色で、いかにもブレストらしい光だった。この角度からは、外のオレンヌは見えない。クレーンの動きと、警戒線らしきものが見えるだけだった。
「怒ってる?」とリーズ。
「それだけじゃない」
「つまり、怒ってはいるのね」
「どの怒りが正しいか、選ぼうとしてるってこと」
リーズは待った。
マリアンヌは、沈黙を埋めるために話すことはめったになかった。黙っているときは、なるべく嘘にならない言い方を探していた。
「周りの人たちは、二つのことを言ってる。あんたに好意的な人は、やっと優秀な人たちが無能な人間に邪魔されない場所ができたって。あんたを嫌ってる人は、ほら見ろ、優秀な連中が自分たちの国をつくって、無能な連中をこっちに押しつけたって。どっちも最低だと思う」
「私も」
「よかった。どっちの場合も最後には、出発点が悪かった人、正しい言葉を持てなかった人、正しい身体じゃなかった人、正しい疲れ方をしていない人を、無能って呼ぶことになるから」
リーズは目を閉じた。
数学教師を思った。看護師の手紙を。知事たちを。港湾労働者たちを。「そこそこできる人」になろうと学んでいる生徒たちを。父親を思った。彼は、普通の男という言葉を見下すように向けられるのを嫌っただろう。それでも生涯、頭のいい人々が目を向けもしないものを支え続けた。
「何て言えばいい?」
「大げさなことは何も。でも、フランスに対して自分が正しいと証明できるからオレンヌを称賛するような人には、気をつけたほうがいい。フランスって、見下すには便利だから。返事がいつも遅すぎる」
「ひどい返事をすることもある」
「そう。でもときには、夜勤の看護師や、くたびれた教師や、県庁にいる女の人や、中学校のボイラーを直す男や、子どもを預かる隣人や、橋を架け直すのに三年かかっても最後には架け直す自治体の姿で、返事をする。清潔じゃない。地図の上ではきれいじゃない。でも、そこにある」
「ケラフみたいなことを言うのね」
「じゃあケラフが正しいんでしょうね。きっと、すごく癪だけど」
リーズは笑った。笑うと、同時に楽になり、苦しくなった。
「それで、あんたは?」とマリアンヌ。
「私が何?」
「フランス人なの? オレンヌ人なの?」
大きすぎ、早すぎ、あまりにメディア的な問いに聞こえるはずだった。だが何より、姉妹の問いだった。マリアンヌは立場を訊いているのではない。肩書をすべて剥がされたとき、リーズがどこに立つのかを訊いていた。
「疲れてる」
「その答え、採用」
「それから、怖い」
「もっといい答え」
少し離れたところで、ドロネーは靴に目を落としていた。会話が彼の職務には親密すぎるものになると、いつもそうした。
マリアンヌが続けた。
「お母さんが何て言ったか、知ってる?」
「知らない」
「こう言ったの。あのオレンヌっていうのがそんなに優秀なら、土曜日にスーパーのレジへ並びに来て、どうやって人を選り分けるのか説明してみればいいって」
リーズは口元に手を当てた。
「元気?」
「娘が台所を片づけるより、国の関心を集めていると知った人らしく過ごしてる。つまり、威厳を保ちながら、かなり駄目」
「電話する」
「記者に、娘さんを誇りに思いますかって訊かれる前にね」
柔らかな残酷さを持つ言葉が、リーズを貫いた。
「もう来たの?」
「まだ。でも、来る」
外では、岸壁で短いサイレンが鳴った。緊急ではない。ただの作業信号だった。それでもリーズは警告として受け取った。動かすべきもの、固定すべき荷、守るべき扉、保護すべき名前が、いつだってある。
電話を切ったあとも、リーズはすぐ部屋へ戻らなかった。ドロネーは数歩ぶんの沈黙を与え、それから訊いた。
「歩きますか?」
「フランスに、私を答えみたいに見るのをやめてほしい」
「それは無理です」
何度も口にしてきた、使い古された同意が喉まで出かかった。リーズはのみ込んだ。
ドロネーは続きを待った。
「わかってる、という意味。でも、それを宿命として受け入れはしない」
彼はうなずいた。
「長くなりましたね」
「そのほうがいい」
二人は部屋へ戻った。テーブルには、セギュールが新しい書類を置いていた。まだ開いてはいなかった。表紙には、こうだけ記されていた。
「国内への影響――残されるフランス」
リーズは指先で厚紙に触れた。
「誰が書いたの?」
「私です」とセギュール。
「残されるフランス?」
「仮題です」
「そのままにして」
彼は驚いたようだった。
「残酷な題です」
「ええ。だから見えるところに置いておくべきなの」
リーズはフォルダーを開いた。
中にはすでに三つの小分類があった。公共サービス、日常の職業、志願していない地域。ケラフは鉛筆でこう書き足していた。
「要求がないことを、道徳的権利がないことと混同しない」
リーズは何度もその頁を読んだ。
安堵はなかった。ただ、より輪郭のはっきりした、ほとんど役に立つ形の疲労があった。鏡が反転したのだ。オレンヌがフランスに映してみせたのは、フランスがなりたかった姿だけではない。迅速で、明快で、廉潔で、勇敢で、不要な妥協から解放された姿だけではない。誰に見られるかを選べる共同体が、何になるのかも映していた。
軽くなり、清潔になり、全員はいないフランス。
リーズはケラフのペンを取った。
三つの小分類の下に書き足した。
「何も求めない者たちも、それでも代表されなければならない」
それからフォルダーを閉じた。
廊下では、声が絶えず行き交っていた。公開用の返答、非公開の返答、大統領へのメモ、知事たちへのメモ、メモを避けるためのメモが、もう準備されていた。フランスという機械は、オレンヌの周りでまた、その遅さ、慎重さ、防衛反応、そして真実に届く小さな可能性を生産し始めていた。
この数日で初めて、リーズはそれをただ耐えるだけではなかった。
働く様子を見つめた。
そして思った。オレンヌが存在に値するためには、まず、自分を生んだ国が、オレンヌより重く、不公平で、辛抱強く、生き生きとしていることを受け入れなければならないのかもしれない。
その夜、夢が戻ってきた。
だが、つくるべき形は何も与えなかった。
セラミックの輪も、ずらした冠も、ケーソンも、水へ開く穴もなかった。
海のない虚空の上に、とても長い連絡橋が架かっていた。人々は、自分が示すべきだと思うものを手にして、その上を進んでいた。学位記、バッジ、救急鞄、家族手帳、子どもの写真、薬箱、推薦状、工具、成績表、雇用契約書、在留許可証、何も持たない手。
橋の端には、テーブルが待っていた。
裁判所の机ではない。
食堂のテーブルだった。刃物の傷と、グラスの輪染みが残っていた。
誰かが訊いた。
「あなたに価値があると、何が証明してくれますか?」
誰ひとり、充分な答えを返せなかった。
誰が落ちるのかを見る前に、リーズは目を覚ました。
第22章
完璧な不正義
どの欄にも入らない少年
最初の異議申立ては、かつての税関事務所で行われた。灰色の絨毯には、軽油と濡れた羊毛と温め直したコーヒーの匂いが染みついていた。
オレンヌへの入域を求めながら、まだその姿を見ることすら許されていない者を迎える場所としては、ほかにましな施設が見つかっていなかった。建物は港の外れ、仮設フェンスの向こうにあり、すべての窓を汚して見せる霧雨の下に立っていた。廊下には金属製の椅子が壁沿いに並べられていた。ひとつの掲示は非常口を示し、別の掲示は区域内でいかなる録音・録画も認められないと告げていた。
ヤニス・アズージは、列の端に座っていた。
十六歳。ずぶ濡れのスニーカー、詰めこみすぎたリュック、膝にはひびの入ったタブレット。それを、ごく普通の年齢であることの壊れやすい証拠のように抱えていた。視線は靴紐に落ちていた。隣では、サミラ・ベクーシュがパートナーのエリーズ・フェレイラと小声で話していた。オレンヌが求めていたのはサミラだった。排水処理の専門家で、キャンプや港、水没した都市、まだまともな下水道すら持たない若いプラットフォームのために、数日で仮設処理系統を設計できる。三つの人道支援機関が彼女を推薦していた。フランスの二人の市長は、彼女が自分たちの自治体を、黴と浸水した地下室と住民の怒りから救った、と書いていた。
サミラは、エリーズとヤニスも一緒に来ることを望んだ。
エリーズは規定の欄に収まった。届け出済みのパートナー、同居の事実、十分な証明。便宜的な虚偽を疑う理由はなかった。
ヤニスは、どの欄にも収まらなかった。
サミラの息子ではない。里子でもない。後見下にもない。エリーズの亡くなった姉の息子で、その後、二人の女性に引き取られた。だが二人には、暮らしを紙へ変えるための時間も、金も、行政手続きに挑む勇気も、生物学上の父親の同意もなかった。九年間、二人は彼を中学校へ行かせるために起こし、看病し、叱り、歯医者へ連れていき、体育館の前で待ち、一度は警察署まで迎えに行き、何度も慰めてきた。オレンヌの暫定規則が認めるのは、配偶者、血縁・養子縁組・司法判断によって確定した子、扶養を要する直系尊属だった。
家族がすでに行政に勝っている場合、規則はその家族をきわめてよく認識した。
それ以外は、見えなかった。
最初の意見書にはマッソンが署名していた。
「現状では、付随居住の申請は受理不能。第三者に対抗しうる法的関係を欠く」
ケラフは即時の異議申立てを求めた。
リーズは十分早く着き、すぐに帰りたいと思った。よく眠れなかった。渡り廊下の夢が、まだ両手に残っていた。ここ数週間、彼女は物に本当に触れる前から、その物を感じる癖がついていた。ドアノブ、ペン、書類、空の椅子。委員会の前でヤニスが座るはずだった椅子には、ほとんど肉体的な不快感を覚えた。
「一人では聴取しません」
すでにテーブル脇に立っていたマッソンが、書類から目を上げた。
「直接の当事者です」
「未成年です」
「だからこそです」
ケラフがペンを閉じた。
「十六歳の少年に、自分が愛されるに値すると証明させるつもりはありません」
マッソンは身を硬くすることなく、その一撃を受けた。候補者名簿が膨らみ始めてから、彼の顔は以前より灰色がかり、自信も薄れていた。残酷になったわけではない。それがかえって不穏だった。働きすぎ、眠らなさすぎ、触れるものすべてを汚す素材のなかで、汚れのない基準を探していた。彼の言葉が個人的な冷酷さから出ているのではないと、リーズにもわかっていた。嘘をつかずに扉を守ろうとする必要から出ていた。
「申告された愛着だけで付随居住を認めれば、巨大な抜け穴を作ることになります」
窓際に座っていたナデージュが訊いた。
「国家が名前をつけられない相手と、暮らしたことがありますか」
「それは論点ではありません」
「論点になるかもしれませんよ」
呼ばれる前に、サミラ・ベクーシュが入ってきた。扉越しに十分な言葉を聞き、自分がどこへ落とされたか理解していた。背は高くない。それでも立ち姿には、詰まり、滞り、恥じて隠されたものを押し流すことに一生を費やしてきた人間の気配があった。配管、予算、議員、習慣。
「ヤニスは私たちと一緒に行きます」
すぐには挨拶をしなかった。厚く、紙で膨れた緑のファイルをテーブルに置いた。両手は寒さで赤かった。濃い色の防水ジャケット、その袖口には、泥とも古い油脂ともつかない染みがあった。
「ベクーシュさん」とマッソンが切り出した。
「字は読めます」
沈黙の形が変わった。
彼女は最初の意見書を指した。
「第三者に対抗しうる法的関係を欠く。ずいぶんきれいですね。枕にして眠れそうです」
マッソンは彼女から目をそらさなかった。
「便宜的な申告から、準備機構を守らなければなりません」
「私は、水を得るために地籍を偽造する人間もいる国々で、下水処理施設を造ってきました。便宜について講義しないでください」
タルデューなら、この女性を気に入っただろう。リーズはばかばかしいほど鮮明にそう思い、それだけでもう判断が歪んでいるのではないかと疑った。オレンヌには、いるだけで承認したくなる人間が集まっていた。まさにそれが危険だった。
ケラフが訊いた。
「何をお持ちになりましたか」
サミラは緑のファイルを開いた。
在学証明、住所を証明する書類、教師たちの証言、処方箋、ハンドボール登録証のコピー、エリーズ宛てに中学校から送られたメール、サミラが署名した欠席届、眼鏡の請求書、二通の納税通知、普通紙に印刷された写真。小さすぎる自転車に乗るヤニス。歯列矯正器具をつけたヤニス。腹に猫をくっつけ、ソファで眠るヤニス。見た目の年齢にしては蝋燭の多すぎる誕生日ケーキを前にしたヤニス。
リーズは写真を見た。
夢のなかの食堂のテーブルが、不意に戻ってきた。並べられた証拠。震える手。世界の果てが、一束の紙に縮められている。
「父親は?」とセギュールが穏やかに訊いた。
サミラはうなずいた。
「どこかに。物事を邪魔するときだけ、自分が父親だと思い出します。やるべきことがあるときは、一度も」
セギュールはそれ以上訊かなかった。
扉の枠にヤニスが姿を見せた。
「話してもいいですか」
サミラが勢いよく振り向いた。
「だめ」
「話す」とヤニスは言った。
声にはまだ思春期の亀裂があった。子どもと男のあいだ。話し終えるまでは泣かないと決めた者の、あの硬さを帯びていた。廊下でその後ろに立つドロネは、止めようとはしなかった。ただ扉まで付き添ってきた。自分で間違える権利を持つ者に付き添うように。
委員会全体が身を縮めるのを、リーズは感じた。
「無理に話さなくていいのよ」
「問題なのは僕だから」
「違う」
「書類では、そうだよ」
ケラフは両手をテーブルに置いた。
「規則の書き方を間違えた大人たちに、答える義務はないわ」
ヤニスはサミラを見、エリーズを見、それからリーズを見た。オレンヌを制度として恐れるには、まだ知らなさすぎた。彼が恐れていたのは、もっと単純なことだった。持ち主が違うという理由で、岸壁に置き去りにされる荷物になること。
「書類では、サミラは僕の母親じゃない。でも本当の生活では、学校から電話が来たら来るのはサミラだ。流しの下で水を止める方法を教えてくれたのもサミラ。部屋が臭かったら、香水を撒くんじゃなくて、どこから臭ってるのか探せって言うのも」
ナデージュは目を伏せた。
サミラは動かなかった。もっと脆い女なら泣いたかもしれない。彼女は泣かなかった。ただ、いっそう重くなったように見えた。
マッソンがメモを取った。
その仕草だけで十分だった。
「やめて」とリーズが言った。
彼は顔を上げた。
「記録のためです」
「だからよ」
数秒間、誰も口をきかなかった。
リーズは、自分が矛盾したことを悟った。記録がなければ痕跡がない。痕跡がなければ権利もない。だが記録されれば、少年は証拠の一項目になる。不正義はもはや誤りのなかに隠れてはいなかった。その誤りを正そうとする細心さ、そのもののなかにあった。
彼女が理解したことを、ケラフは見抜いた。
「そういうことです」と静かに言った。
サミラは緑のファイルを閉じた。
「ヤニスが乗れないなら、私も乗りません。規則はそちらでどうぞ。下水道を造るのを忘れる国なら、もうよく知っています」
彼女は写真だけを取り戻し、証明書は置いていった。
そのことが、リーズには痛かった。
愛の証明
書類は、食堂のテーブルで再び開かれた。
本来の会議室は、一通の安全保障文書とパリからの三本の電話に占領されていた。ケラフは待つことを拒んだ。緑のファイル、マッソンの意見書、暫定規則を持ち、建物の食堂で、給水機と配膳カートのあいだに陣取った。リーズもついていった。ナデージュも。セギュールはためらった末、コーヒーと、悪い部屋がときに良い決定を救うことを知る男の顔を持ってきた。
食堂には、湿ったパン、業務用洗剤、残り物のマッシュポテトの匂いがした。隣のテーブルでは、二人の警備員が一行を見ずに食べていた。秘密の近くで働きながら、それを自分のものにしようとはしない人間の、慎ましい規律だった。窓の外では、雨が水溜まりに点線を描いていた。
ケラフは一枚の紙に、三つの欄を引いた。
「既存の権利。確立した生活。詐欺の危険」
「もうこの紙が嫌い」とナデージュが言った。
「私もです。だから埋めなければならない」
マッソンがバインダーを持って合流した。場所が変わったことには抗議しなかった。ただ、サミラとエリーズとヤニスがまだ建物内で待っているかと訊いた。ドロネがそうだと答えた。外へ出て空気を吸うことも勧めたが、三人は断った。ヤニスはホットチョコレートを頼み、結局飲まなかった。
「継続的養育関係という区分を設けられます」とセギュールが言った。
「区分を作っても、正義は生まれません」とケラフが返した。
「ええ。しかし、現実の暮らしを記入ミスとして扱わずには済む」
「その暮らしに、今度はテーブルの上で裸になれと要求しないなら」
リーズは欄を見た。必要だった。おぞましかった。自分の黒い手帳、封印、相反する読解、自分を奪われないために証拠を求め続けたことを思った。あらゆる保護は、どこかで裸にすることから始まる。問題は、どこまで慎みを残してよいか、誰が決めるのかだった。
マッソンがバインダーを開いた。
「申告された養育上の愛着を根拠にヤニスを認めれば、明日には兄弟姉妹、姪、隣人、教え子、法的資格なしに保護されている者が来ます。誠実な申請もあるでしょう。入域を得るため仕組まれたものもある」
「ええ」とケラフは言った。
「では、危険を受け入れるのですか」
「存在を認めるのです。同じことではありません」
ナデージュはヤニスの写真を一枚、ケーキの写真を手に取った。
「この子を断ったら、何を守れるんです?」
「規則です」とマッソン。
「規則もさぞ感謝するでしょうね」
リーズはケラフの紙を取り、四つ目の欄を加えた。
「証明が生む羞恥」
ケラフは読み、うなずいた。
「法的基準ではありません」
「せめて警報にはなるべきです」
彼らは、嘘の少ない言葉を探した。安定した養育関係、生活共同体、日常的な世話、未成年者の利益、重大な分断の危険。どの表現も扉を開き、たちまち錠をどこへ置くかと問い返してきた。
モローがコーヒーを取りに通りかかった。ケラフは彼を呼び止めた。
「誰かを守るために、その人の私生活を語らせたことは?」
「毎日です」
「どうするんです?」
「選択肢がなければ、下手にやります。本人が何を話さないか決められるなら、少しましに」
リーズはそれを余白に書いた。
サミラとエリーズとヤニスが戻ってきたとき、テーブルの様子は変わっていた。紙は告発のようには積まれておらず、分けて置かれていた。写真もなくなっていた。ケラフが別の封筒へ戻していた。
「これは使いません」
サミラは驚いたようだった。
「なぜ?」
「印刷された誕生日の数で、家族を測るつもりはありません」
ヤニスの呼吸が少し楽になった。
暫定決定は数行に収まった。オレンヌは、居住を認められた者に同行する未成年について、継続的な生活共同体、日常的な養育行為、子ども自身の直接的利益によって確立された養育関係を認める。家族の私生活について、厳密に必要な範囲を超える提出は求めない。各案件は、受入れ担当班の外部にいる法律家と、要求された証明が生む不必要な羞恥を評価する担当者が再審査する。
「重い仕組みです」とマッソンが言った。
「子どもですから」とサミラが返した。
それ以上の答えを、誰も見つけられなかった。
ヤニスには暫定的な付随居住が認められた。
その決定に、誰もが一分間だけ安堵した。丸々一分、ほとんど穏やかな時間。規則は折れずに撓み、オレンヌは自らを正すことで、少しましになったように見えた。リーズは疲労が肩から抜けていくのを感じた。
するとナデージュが訊いた。
「サミラみたいにテーブルを叩いてくれる人がいない子どもたちは?」
安堵は引いていった。
その下に、もっと冷たい真実が残った。今しがた救われたのは、オレンヌに不可欠な大人を持ち、分厚い書類を持ち、怒れる弁護士と、同席する創設者と、自分を見せるのに足りる言葉を持った子どもだった。
ほかの者たちは、まだ別の場所にいた。
明白な候補者
マエル・ドレゼンは二日後、丸めた地図を小脇に抱え、ズボンの裾に乾いた泥をつけてやって来た。
名乗るより先に泥のことを詫びたので、タルデューが微笑んだ。本当に水と仕事をしている人間には、よくこのばかげた礼儀正しさがあった。現実を連れてきたことを謝るのだ。
マエルは地方自治体の技師だった。堤防、揚水施設、地図から忘れられた側溝、百年に一度の洪水は同じ人間の記憶のなかで二度は起きないと約束する議員たちを知っていた。オレンヌが、自らの汚水の上に置かれた輝くプラットフォームにならないためには、彼女のような人材が必要だった。
彼女はテーブルに地図を広げた。オレンヌの地図ではない。フランス沿岸部の地図だった。青い線、斜線で示された区域、低地を走る道路、水路に近すぎる場所に描かれた家々。彼女はひとつの水門を指した。
「ここ。扉が破れれば、二つの自治体への進入路を失います」
指を移した。
「ここでは古い橋が水を堰き止めます。何年も前からわかっている。けれど工事に適した時期が一度も取れず、継ぎはぎで直している」
灰色の長方形を示した。
「ここが学校です」
リーズは、黒い手帳の図面を見るときと同じように地図を見た。ごく単純な形のなかに、災厄の全体が収まっているような感覚。
「なぜオレンヌを?」とセギュールが訊いた。
マエルは肩をすくめた。
「水が話すとき、あなたたちは耳を傾けるから」
「光栄です」
「褒めていません。今のところ、そう見えるというだけです」
タルデューがはっきり笑った。
マエルは奇跡を約束しなかった。水が計画書に従うなどとオレンヌが思いこまないようにする、と約束した。
書類は申し分なく、本人も申し分なかった。だからこそ、ほとんど息が詰まった。
面談の途中で、デルフィーヌ・ルーがセギュールに電話をかけてきた。知事はまだ味方になったわけではない。しかし適切な瞬間の一本の電話が、長い文書より重くなりうることは理解していた。セギュールがスピーカーにしてよいかマエルに訊くと、彼女はうなずいた。
澄んだ疲れを帯びた知事の声が部屋を満たした。
「そちらにいるのは、地図が嘘をついたとき、水がどこを通るかをまだ知っている、この県では数少ない人材です」
マエルは目を閉じた。
「デルフィーヌ」
「攻撃しているわけじゃない」とルー。「説明しているだけ」
セギュールは動かなかった。
「彼女が去れば危険が生じるとお考えですか」
「考えているのではありません。確信しています。でも断ってくれと頼めば、全員の怠慢を彼女一人に払わせることになる。受け入れてくれと頼めば、彼女を失う自治体に対して嘘をつくことになる。どの卑怯を選ぶか決めてください、セギュールさん。私はまだ、自分の卑怯を見つけていません」
スピーカーがざらついた。
マエルの手は地図の上に置かれたままだった。
「何もないところへ警告し続けるのに疲れました。海に許可はいらないと説明するのにも。まともな報告書が、水自身に読み返されるより先に資料庫行きになるのを見るのにも」
「オレンヌへ来ても、それは治りません」とリーズが言った。
「ええ。でもここなら、扉を交換すべきだと言ったとき、先送りする文句ではなく、扉を探す人がいるかもしれない」
言ったことは単純だった。
だからこそ、ひどく痛んだ。
ケラフが訊いた。
「あなたの部署は?」
マエルは楽しげでない笑いを漏らした。
「九人分の仕事を三人でやっているから持っています。私が残れば、ひどい状態で持つ。出れば、もっと持たなくなる。差は目に見えます。けれど正直な差ではない」
「どういう意味ですか」
「私を取れば、何かを壊すと思うでしょう。でも、もう壊れている。私が出れば、壊れていることが見えやすくなるだけです」
明確な任務もないまま同席していたナデージュが、つぶやいた。
「新しい場所って便利ね。古い壁を支えきれなくなった人を、引き取れる」
マエルには聞こえていた。
「不公平です。ええ」
「それでも来るんですか」
「来ます」
その答えに、皮肉はまったくなかった。もっと悪かった。彼女は、自分の知識に見合う仕事をようやくするために来るのだ。残ることもまた、裏切りになりうるから来るのだ。
委員会は夜まで決定を延期した。
セギュールは時期をずらした受入れを提案した。六か月の移行期間、元の部署に二つの職を新設する資金、後任の育成、県へのオレンヌ方式の提供。ヴォークレールは政治的に提示可能だと判断した。マッソンは弁護可能だとした。ケラフは、よりましな悪手だと考えた。マエルは、行政上の補修では人間一人を作れないと知る者の顔で受け入れた。
デルフィーヌ・ルーは一行だけ送った。
「退職の道徳的な買い戻しを発明しましたね。何もしないよりはましです。それがまた問題でもあります」
リーズは三度読んだ。
夜、ヤニスはサミラとエリーズと食事をしていた。マエルは外の庇の下で電話をしており、筒に入れた地図を肩に預けていた。二件の受入れ。それぞれに用心と修正と、できるだけ傷つけまいとする真摯な努力が添えられていた。
すべてが真剣で、ほとんど正しかった。それでもオレンヌは、自分に必要な人間の縁ならば、まだ使い道のわからない人間の命より、巧みに救えることを証明したばかりだった。
窓口の女
ミレイユ・コルディエには、歴史との約束などなかった。
窓口の予約があった。それは、はるかに正確なものだった。
翌日、彼女は黒い買物袋と、くたびれたコートと、右手の中指にインクの染みをつけて現れた。五十八歳。三十年以上、県庁職員として、自動車登録、団体、外国人、過剰債務審査を渡り歩いてきた。紙を多すぎるほど持ってくる人、何ひとつ持たない人、人生全体が一枚の不足書類に吊り下げられたため膨れ上がる怒りを相手にしてきた。申請書類は薄かった。論文も特許もなく、国際経験もなく、当初の選考表が考える意味での希少な職能もなかった。
二ページの手紙を書いていた。
ナデージュは前日にそれを読み、しばらく何も言わなかった。
手紙のなかでミレイユ・コルディエは、オレンヌに報いてほしいのではない、と説明していた。新しい国家に、書類の持ち方だけで、反論の術を学んだ者と、すでに諦めた者とを見分けられる人間の居場所があるのか知りたいのだ、と。よい窓口とは、行政が人々へ身を低くしてやる場所ではない。自分に選別される者から見返されることを、行政が受け入れる場所なのだ、と書いていた。
最初の意見書は申請を却下していた。
「市民行政上の実務経験は認められるが、現段階では不可欠な機能を特定できない。現所属機関への残留が望ましい」
ミレイユ・コルディエは、却下の理由を直接聞きに来たいと申し出た。
「こういうことを書くとき、皆さんがどんな顔をするのか見たくて」
リーズ、ケラフ、マッソン、セギュール、ナデージュの向かいに座った。気圧された様子はない。傲慢だからではなかった。誰かが最後には必ず、残念な状況です、と言う事務室に長くいた者の習慣だった。
「コルディエさん」とセギュールが切り出した。「異議申立てはきわめて真剣に検討しています」
「それが私の役に立つかは疑わしいですね」
「理由を再検討します」
「もう理解しています」
「では、何をお求めですか」
彼女は買物袋から、輪ゴムで留めた三冊の厚紙ファイルを取り出した。
「私の手紙を読んだあと、意見を聞くために匿名化した却下案件を三件、送ってきましたね。読みました」
マッソンは驚いたようだった。
「正式な依頼ではありませんでした」
「自分の名前を恥じている依頼でも、依頼だとわかります」
ケラフが笑みを隠した。
ミレイユは一冊目を開いた。
「これは、断って正解です。嘘をついています。能力についてではなく、動機について。奉仕したいと言うけれど、書類全体が免責を求めている。皆さんは気づいた。でも書く勇気がなかった」
二冊目を開いた。
「こちらは間違いです。経歴に一貫性がないと書いている。十五年間、他人の時間割に従って生きた女性ですよ。子ども、親、短期契約、病気の夫。一貫性がないのではありません。立派に見える痕跡をほとんど残せなかった人生です」
三冊目を開いた。
「これは、わかりません。皆さんの間違いは、今すぐわかるべきだと思っていることです」
室内の注意が研ぎ澄まされた。
ミレイユは自分のために弁論していたのではない。仕事をしていた。書類が落とす影を読むという、自分にできると言ったことを、まさにやっていた。十分もしないうちに、華やかな名前を持たないため当初の選考表には入らなかった技能を示した。機械も、法律も、堤防も、医療手順も、主権の建築も生み出さない。ただ不正義が、あまりに早く秩序へ変装するのを妨げるだけだった。
罠が静かに閉じるのを、リーズは感じた。
「受入れ委員会に入るべきです」とマッソンが言った。
ミレイユは彼を見た。
「その委員会に、たった今、断られたところです」
「だからこそです」
「いいえ。だからこそ、ではありません。私がこの部屋で皆さんにうまく話せるから、役に立つと今気づいただけでしょう。それは、ここへ入る前からしていた仕事を認めることとは違います」
ナデージュが両肘をテーブルについた。
「この人の言うとおり」
マッソンの顔が赤くなった。
「そういう意味では……」
「そうするつもりがなくても結構です」とミレイユ。「窓口だって、人を辱めるつもりなどありません。それでも辱めます」
セギュールが慎重に口を開いた。
「外部任務を検討できます。今の部署に残り、オレンヌの却下案件を定期的に閲覧する権利を持つ」
ミレイユはファイルを閉じた。
「非常勤の良心ですか」
「均衡を保つ役です」
「邪魔になりすぎないときだけ呼ばれる均衡役」
ケラフが訊いた。
「何をお望みですか」
ミレイユはリーズを見た。
「あなた方の最初の選考表が、自分たちの目に必要な人間となる術を、すでに知っている者を好むと認めてほしい」
リーズは答えなかった。
「サミラ・ベクーシュは、あなた方が造る世界の水をきれいにできるから入る。その少年は、彼女が入るから入る。マエル・ドレゼンは、プラットフォームを水没させないために必要だから入る。私には、外にいるほうがよく役立つと言う。たぶん本当でしょう。それこそが暴力なんです」
部屋はその言葉を受け止めた。
ミレイユは声を上げずに続けた。
「フランスの行政サービスを空にしたくないのは正しい。技術的緊急性から始めるのも正しい。偽の申請を恐れるのも正しい。ほとんどすべてにおいて、あなた方は正しい。だから、この却下はよくできているんです」
その言葉がゆっくりと巡った。よくできている。
リーズは、うまく働きすぎる物を思った。音もなく閉まる錠。誰も傷つけず、傷を別の場所へ移す術を覚えた機械。
「あなたを受け入れられます」とリーズは言った。
ケラフが彼女へ顔を向けた。
「リーズ」
「創設者特例を求められます」
「ええ」とミレイユ。「できます。それこそ、私が不安に思う特権です」
静かな平手打ちのように、答えを受けた。
ミレイユは三冊のファイルを買物袋へ戻した。
「私の言葉に心を動かされたから入れるのなら、私が批判している扉から私を通すことになる。断るなら、窓口の向こうで一生を過ごした女に、そこに居続けるからこそ大切なのだと書くことになる。どちらも醜い。私にも、ましな答えはありません」
立ち上がった。
礼儀から、セギュールも立った。
「まだ最終決定ではありません」
「私もです」とミレイユ。「ただ、何をしているかわかっているか、確かめたかっただけです」
ケラフと握手し、次にナデージュと握手した。リーズの前ではためらった。
「工房から来たそうですね」
「ええ」
「なら、きれいな事務室には気をつけなさい。手は汚れにくいけれど、痕跡はずっとよく残します」
そして去った。
廊下で、ドロネが無言で扉を開けた。
きれいな手紙
コルディエ案件の決定には、もっとも手がかかった。
三つの別々の部屋で書き直した。置き忘れられたカップ、借りたペン、誰も気に入らない何通もの草案。ケラフは、ミレイユの真の有用性を名指ししながら、それを慰めに変えない却下文を求めた。セギュールは、オレンヌが行政窓口の仕事を軽んじている印象を避けたかった。マッソンは基準の一貫性を守ろうとした。ナデージュは、扉に都合がよいことを一貫性と呼ぶのをやめさせようとした。
リーズは、嘘をつかない一行が欲しかった。
見つからなかった。
最終稿にはこうあった。
「あなたの経験は、制度の日常的な正義に不可欠なものとして認められます。しかし現段階において、オレンヌ準備機構は、学ぶべき対象である既存の行政サービスをさらに弱体化させてまで、あなたの居住を正当化することはできません。そこで、居住義務を伴わない、有償かつ独立した却下案件再審査職と、公に警告を発する権利を提案します」
ケラフはその紙をリーズの前に置いた。
「法的にはきれいです」
「あなたがそう言うの、大嫌い」
「私もです」
ナデージュは文面を声に出して読んだ。「制度の日常的な正義」で言葉に詰まった。
「弔花の匂いがする」
「では、どう書きます?」
「手紙に収まるような案はない」
マッソンは眼鏡を外した。
「彼女を受け入れれば、巨大な区分を開くことになります」
「ええ」とリーズ。
「受け入れなければ、私たちの前で希少な存在になれる普通の人間だけに、機会があると確定する」
「ええ」
彼は老けて見えた。
「では?」
リーズは紙を見た。夢の渡り廊下を思った。必要な女に強く愛され、その女が力ずくで認めさせられたから受け入れられたヤニス。まるで出発を丈夫な紙で包めるかのように、周囲に補修を施されて受け入れられたマエル。彼らより先に仕組みを理解したミレイユ。
「署名します」
ナデージュが信じられないという目を向けた。
「本気ですか」
「わからない」
「安心できませんね」
「私もよ」
ケラフは動かなかった。待っていた。
「今、あの場に揺さぶられたからという理由で彼女を入れたら、正しい部屋を揺さぶる術を持つ者だけが例外を得られると認めることになる。自分の恥を基準にしたくない」
セギュールが一瞬、目を閉じた。
「弁護はできます」
「弁護できる、なんてきれいな言葉じゃない」とナデージュ。
「最後に残るのは、たいていその言葉です」
リーズは署名した。
ペンは何の抵抗もなく滑った。それが何より彼女を動揺させた。震えも、逆らう力も、身体の警報もない。暴力的な決定が、静かな手を通っていく。過失には見えなかった。よくできた仕事に見えた。
ミレイユ・コルディエは、決定書を手渡しで受け取りたいと求めた。
夕方、買物袋を持たず、まだ濡れた黒い傘だけを手に戻ってきた。リーズは同席を望んだ。ケラフは認めた。意外にもマッソンも残った。少なくとも一件は、却下を最後まで見届けるべきだと言った。
ミレイユはゆっくり読んだ。
報酬にも、警告権にも、約束された独立性にも触れなかった。弱体化させてはならない行政サービスについての一節を読み直した。指がその行の下で止まった。
「外に残すほど、私は大切だという説明ですね」
誰も訂正しなかった。
「よく書けています」と付け加えた。
「言い訳にはなりません」とリーズ。
「ええ。だからこそ強い」
手紙を二つに折り、さらに二つに折った。紙が鋭い音を立てた。
「再審査の任務は引き受けます」
マッソンが驚いて動いた。
「受けるのですか」
「もちろん。あなた方が自分たちの却下を愛さないようにする人間が必要です。私も、新しい場所が古くなる前に学べるか見届けたい」
手紙をコートの内ポケットへ入れた。
「でも、許しません」
リーズはうなずいた。
「求めません」
「それなら結構」
ミレイユは雨のなかへ出ていった。
廊下の窓から、リーズは彼女が駐車場を横切るのを見た。傘を風に傾け、足早に歩いていた。まだ列車があり、職場があり、窓口があり、待っている人々がいる者の能率的な足取りだった。その人々は、オレンヌについて、大きすぎる名前として以外には、決して聞くこともないだろう。
ナデージュが隣に立った。
「できましたね」
「ええ」
「非の打ちどころのない却下を作った」
「ええ」
「どんな気分です?」
リーズは駐車場から目を離さなかった。
「全部やり直したい」
「できませんよ」
「ええ」
「では、どうするんです?」
リーズはテーブルに残った定型文を見た。余白を埋めるケラフの筆跡、セギュールの削除線、マッソンの注記、ナデージュが残したコーヒーの染み。手抜きはなかった。誰も楽なほうを選ばなかった。オレンヌは軽蔑や怠慢や露骨な利害から動いたのではなかった。それこそが最悪だった。不正義は清潔なシャツを着て、理由を読み直し、異議申立てを設け、補償を提案し、人を尊重し、遺憾の意とともに署名した。
リーズは新しい紙を取った。
上部に書いた。
「不在者と拒まれた者の権利」
その下に続けた。
「すべての受入れは、それによって別の場所に生じる損害を検討しなければならない。
すべての却下は、その受入れに何の利害も持たない者によって再審査されなければならない。
何も求めていない者には、私たちが当事者ではないと決める前に、弁護者が与えられなければならない。
有用な者との近さが、私たちの目に役に立たない者の尊厳より多くの権利を与えてはならない」
最後の言葉で手を止めた。
役に立たない。
肩越しに読んでいたケラフが言った。
「残してください」
「ひどい言葉です」
「だからです」
セギュールも加わった。彼も読んだ。
「すべての受入れが複雑になります」
「ええ」
「それでも足りない」
「ええ」
彼は慰めの言葉を探さなかった。
食堂で誰かが大声で笑った。皿が落ちた。ほとんど陽気なまでに単純な音が、廊下を抜けてきた。オレンヌは造られ続けていた。ポンプ、地図、子ども、手紙、条項、食事、過ち、補修。困惑するたびに現実になった。ときには、より尊いものに。より危険なものにも。
道徳的な貴族制は、他者を軽蔑する必要などないのだと、リーズは思った。
彼らは別の場所に必要だ、と書き送るだけでよかった。
第23章
フランスの試験
学校に入る水
水は、中学校のトイレから入ってきた。
最初は一階の便器に褐色の水がせり上がり、蛍光灯の下でばかげた水音を立てただけだった。泥と冷たい洗濯水と、開け放した地下室の匂いがした。用務員は詰まりだと思った。吸引カップを手に取り、生徒たちを罵り、三年前から延期されている工事を罵り、黒ずんでいく目地を罵り、町の外れの低すぎる場所に建つ古い校舎を罵った。
それから、体育更衣室のシャワー口から水が出てきた。
目に見える怒りなどなかった。ただ上がり、目地や排水口や亀裂を探した。これまで何の勲章も求めず役目を果たしてきたため、誰も見ようとしない通り道を探した。
サン=ロルメルのジャン・ゼ中学校は、前日から低地にある三つの自治体の避難所として使われていた。体育館には簡易ベッド、食堂にはテーブル、壁沿いには延長コード、生活指導室の机の後ろには医薬品コーナーが設けられた。家族たちはスポーツバッグを持ち、禁止されながら車内なら黙認された犬を連れ、書類箱、充電器、毛布、反射的に畳んだ洗濯物の籠を持ってきた。子どもたちは最初、ほとんど面白がっていた。学校で眠ること。先生たちが紙コップを手に走るのを見ること。校長が市役所を相手に、式典用とは違う声で話すのを聞くこと。
朝には、校庭が灰色の水面の下へ消えていた。
グラン・プレ揚水場が夜のうちに停止していた。発電機は土嚢を積んだにもかかわらず、下から浸水した。ラ・アル通りの堤防はまだ持っていたが、強度より習慣で持っているようなものだった。県道は一本寸断されていた。マエル・ドレゼンが地図上で指したあの古い橋では、橋脚に流木が詰まり、まさに水を遅らせてはいけない地点で流れを堰き止めていた。
中学校の校長は市役所へ電話し、市役所は県庁へ電話し、県庁は人数を確認するため市役所へ折り返した。そのあいだ用務員は、便器の前へモップを並べた。何かをしているのは、腕を垂らして立っているよりましだという、何の役にも立たない執念で。
県庁にいるはずのない時間に、ミレイユ・コルディエはいた。
勤務を終えて二時間が経っていた。だが緊急窓口に着信が積み上がるのを見て、コートを椅子へ戻した。彼女は、混乱と一覧表の違いを知っていた。混乱は叫ぶ。一覧表なら、まだ誰が足りないか見える。
螺旋綴じのノートを取った。
「氏名、自治体、電話番号、要介護者、治療、車両、階、寸断された進入路」
若い契約職員が、どのソフトを開けばよいか訊いた。
「何も。まず、聞いてください」
彼は赤くなり、それから聞いた。
デルフィーヌ・ルーが、濡れた髪、曲がったスカーフで到着した。消防、民間防衛、内務省、泣いている市長、全国放送のカメラに連絡したか知りたがる議員と、すでに話した知事の顔をしていた。
「サン=ロルメルは?」とミレイユは顔を上げずに訊いた。
「中学校が危険域に入っています」
「何人?」
「建物内に百四十二人。うち子ども二十七人、高齢者十一人、酸素吸入中が四人、妊娠八か月の女性が一人」
ミレイユは書いた。
「道路は?」
「西側は寸断。東側も危うい。消防の大型車は通れますが、救急車は無理です」
「揚水場は?」
「水没」
「マエルは何と書いていました?」
知事は一秒、目を閉じた。
非難する問いではなかった。もっと悪かった。正確な問いだった。
「揚水場が止まり、古い橋が流木を堰き止めれば、水は地下管路へ流れこみ、もっとも低い公共施設から逆流する、と」
「つまり中学校」
「つまり中学校」
それに続く沈黙は、ほんの一瞬だった。室内では電話が鳴り続け、地図の読み込みは遅く、誰かが無線機の電池を求め、通信状態の悪い消防隊長が大声で話していた。複雑な国が、混乱のなかで再び働き始めていた。
デルフィーヌ・ルーは私用の電話を手に取った。
「ブレストへ電話を」とミレイユ。
「今かけています」
「最高の人材を頼むためではなく」
知事は彼女を見た。
ミレイユがようやく目を上げた。
「そのほかの人たちのために」
正しかった地図
オレンヌで、マエル・ドレゼンは食堂にいるとき電話を受けた。
片手にはコーヒー。丸めた地図は椅子に立てかけてあった。去ることを受け入れてなお、向こうにいることをやめられない人間特有の疲れがまだあった。デルフィーヌ・ルーに挨拶はしなかった。ただ聞いた。顔が少しずつ閉じていった。
リーズは、彼女がカップを置くのを見た。
紙コップのコーヒーが震え、やがて静まった。マエルの最初の言葉より、その細部にリーズは引きつけられた。現象が起きてから、彼女はいたるところに、自分の水位を探す物を見ていた。
「サン=ロルメル?」
それから、
「揚水場が止まったの?」
それから、
「橋はまだ持ってる?」
目を閉じた。
「だめ、デルフィーヌ。橋が壊れるまで待っていたら、問題が二つになって、道路までなくなる」
周囲の部屋が静まった。ジュリアン・アウアドはトレーを片づける手を止めた。ガーゼの箱を数えていたカミーユ・ルドーは、同じ行に指を置いたままにした。数学の宿題をしていたヤニスは、まだ理解できずにサミラを見た。そしてサミラの顔を見て、抽象的な大人の話ではないと悟った。
マエルは食堂のテーブルに地図を広げた。
乾いた、ほとんど乱暴な動きだった。パン屑とコーヒーの染みと置き忘れたナイフのあいだに、沿岸部が現れた。リーズはその地図を覚えていた。水門。古い橋。学校。青い線。低地。
「ここ」
マエルの指が紙を打った。
「ここが中学校」
指を動かした。
「ここが揚水場。ここが橋。ここが高い道路。橋の負荷を減らして、次に水位が上がる前に仮設ポンプを動かせれば、数時間は稼げる。できなければ、夜、水の上から避難させることになる。酸素吸入中の人たちと、もう怯えている子どもを」
「何が要る?」とタルデューが訊いた。
マエルの声を技術上の警報のように聞きつけ、入ってきたところだった。
「大型ポンプ一基、金属製の管渠二本、荷重分散板、水没した道路を通れる機械」
「つまりクレーン」
「ええ」
「そんなものは来ない」
「来ない」
タルデューは地図を見、それからリーズを見た。
「十分に軽くすれば、道路には重すぎる荷物でも移動できます。テレビで言われているように飛ばすわけではない。動かす。置く。導く」
ソレルが訊いた。
「どのモジュールで?」
タルデューは地図から目を離さず答えた。
「稼働状態にある作業用モジュール二基、黄色いフレーム、小型制御盤。問題は揚力ではなく環境です。水、泥、衝撃、周囲の人間、悪い視界」
「問題はリーズでもあります」と扉からモローが言った。
誰も呼んでいなかった。疲労が他人にとって有用になり始めると、医者は必ず現れた。
「睡眠が足りていない」
「誰だって足りていません」とマエル。
モローは、一歩も譲らない穏やかさで彼女を見た。
「それは医学的根拠ではありません。場の空気です」
リーズは抗議しなかった。地図を見ていた。ジャン・ゼ中学校は灰色の長方形にすぎなかったが、テーブル、鞄、子どもたち、書類を抱えてきた人々がもう見えていた。水が上がると、人はたいてい紙を持って逃げる。身元が救命胴衣になるかのように。
セギュールが電話で話しながら入ってきた。
「ええ、知事。ええ。伝えます。いいえ、通常の支援ではありません。ええ、浸水した自治体で『実験的』という言葉が何を意味するか、正確に理解しています」
電話を切った。
数分後、壁の画面にヴォークレールが現れた。落ち着いて見せる時間すら取らなかった。
「要請は民間防衛とマティニョンを通じて上がっています。大統領にも報告されます」
「中学校にも報告されるんですか」とナデージュ。
いつからいたのかわからないまま、ヤニスの近くに座っていた。
ヴォークレールは間を置いた。
「つまり」と彼女は続けた。「水に足を浸けている人たちは、言葉遣いの承認待ちだと知らされるんですか」
「誰も故意に遅らせてはいません」
「たいてい、そうやって結局は遅れるんです」
遠隔で招集されたケラフは、条件を文書化するよう求めた。声は硬かった。だがリーズはもう、彼女が恐れているとわかる程度には、その声を知っていた。
「厳密に民間救助目的。公開実演は不可。メディア利用は不可。班の管理外へのモジュール移送は禁止。リーズの同意を再確認。モローが身体状態に問題ありと判断すれば即時中止」
「きれいな文面を待っていたら」とマエル。「水が条件を読み終えてしまいます」
ケラフはひるまなかった。
「救助を妨げているのではありません。人を救うその最中に、救助が別のものへ変わるのを防いでいます」
誰も笑わなかった。余計な言葉だとは、誰も思わなかった。正確さは堤防だった。もうひとつの、脆く、必要で、不十分な堤防。
リーズは地図に手を置いた。
「行きます」
モローは鼻から息を吐いた。
「あなたは民間防衛の車両ではありません」
「ええ」
「疲れています」
「ええ」
「自分は現場へ行かず、使用を許可することもできます」
タルデューが首を振った。
「技術的には違います。モジュールは既知の手順には応答します。でも現地で調整が必要なら、彼女がいなければならない。さもなければ、ばかげた危険を受け入れることになる」
モローはソレルを見た。
物理学者は逃げなかった。
「それが事実なのは、心底いやです」
リーズはミレイユ・コルディエを思った。コートのなかで折られた言葉。別の場所に必要だと判断される人々。フランスの試験は、文書のなかではなく、中学校の便器を逆流してやって来た。
「誰のために行くんです?」とリーズが訊いた。
セギュールは意外そうだった。
「危険にさらされた人々のためです」
「もっと正確に」
美しい答えを求めているのではないと、彼は悟った。錠を求めていた。
「そこにいる人々のためです。把握されているか否か、有用か否か、候補者か否かを問わず。そして彼らをすでに支えている地域の行政サービスのために」
画面のケラフは目を伏せ、書き留めた。
「それです」とリーズ。「それを書いて」
高い道路
一行は高い道路を通って出発した。
軍用地図の道路でも、整然とした車列の道路でもなかった。水没した畑、満ちた側溝、玄関を水が叩くあいだ二階へ上がって眠る気になれず、一階に明かりをつけたままの家々。そのあいだを走る県道だった。先頭車は民間防衛隊の車両だった。その後ろで、トラックが防水布に覆われた黄色いフレームを運んでいた。稼働中のモジュール二基は灰色の箱に収められ、センサー、ケーブル、停止装置と、脆い心臓より多くの用心に守られていた。
リーズはソレルとドロネのあいだに座っていた。
モローは彼女の後ろに陣取っていた。彼女の反対も、ほかの全員の反対も押し切って。膝には医療バッグ。バッグひとつでは足りないと知りながら、それでも来た男の威厳で抱えていた。
前方にはマエルとタルデューがいた。ほとんど話さなかった。同じ緊急事態を見分けるために、同じものを愛する必要はない二人の女だった。
進むにつれ、フランスは抽象でなくなった。
省庁の地図でも、論説でも、テレビ討論の怒りでも、「残余フランス」という書類でもなかった。半ば水に沈んだ速度制限標識。ごみ袋でいっぱいになったバス停。毛布を積んだ手押し車を長靴で押す男。家の前で電話をする女。足首まで水に浸かり、震えないために大声で笑っている。オレンジのベストを着た自治体職員が、通行止めに使うのか、警告に使うのか、それとも恐怖に形を与えるためだけに使うのかもわからないまま、柵を運んでいた。
板で守られた閉店中の薬局。それでも開いているパン屋。マットレスを満載した荷台を引くトラクター。ペットフードの袋を運ぶ二人の少年。国家の任務を果たすように真剣だった。
リーズは思った。書類を持たない人々がここにいる。
サン=ロルメルの手前で、高い道路は高くなくなった。
水が素早い膜となって舗装を越えていた。車両は速度を落とした。黄色いフレームを載せたトラックが唸り、変圧器を囲んで土嚢を積んだロータリー付近で停止した。消防隊長が迎えに来た。窪んだ顔、肩の無線機、必要以上にはリーズを見ない独特の態度。
「オレンヌの方ですか」
ばかげていて、正確な問いだった。
リーズは答えた。
「私一人ではありません」
彼に笑う暇はなかった。
「中学校は持っていますが、管路から水が上がっています。弱い人から裏手のボートで避難させています。道路が不安定すぎて救急車は通れない。橋が詰まっています。こちらの重機では、岸を崩す危険なしに撤去できません」
マエルはもう水のなかに長靴を入れていた。
「見せて」
「ドレゼンさん?」
「そうです」
彼女の名前が奇妙な作用を及ぼした。有名人を見たときの反応ではなく、側溝が溢れる前からそれを知る者が来たという、はるかに実用的な安堵だった。
「もう辞めたんですよね?」
「見たところ、まだ足りなかったみたい」
消防隊長は彼女を、ボンネットにラミネート地図を広げた車両へ案内した。デルフィーヌ・ルーが県庁から映像通話で参加し、副官の持つ画面に荒い顔を映していた。背後では電話と声が聞こえ、誰かが名前を一文字ずつ確認していた。
「マエル」と知事。
「デルフィーヌ」
その二つの名には、無視された報告書、無益な会議、資金不足の小さな勝利が長年分こもっていた。リーズが割って入れるものではなかった。一歩後ろに残った。いつものようにドロネはその距離を理解し、彼女のために守った。
タルデューは地面を調べた。
「ここにはフレームを置けない。柔らかすぎる」
「どこなら?」とマエル。
「あそこ。低い壁の近く。基礎が持つなら」
「持つ。今までは」
「今までは、データじゃない」
「十五年間、フランスが私にくれたデータはそれだけ」
タルデューは、手に入る資材としてその答えを受け入れた。
計画は雨のなか、立ったまま組み上がった。
大型ポンプ一基と二本の管渠を、部分的に水没した道路から揚水場まで運べるだけの時間、軽くする。その後、近くの工事現場から流されて橋脚に挟まった金属梁を、まだ持っている部分を壊さないよう軽くして、古い橋の詰まりを除く。すべては救えない。数時間を稼ぐ。おそらく半日。中学校を秩序立てて避難させ、前線医療所に再び電力を供給し、水が下から戻るのを防ぐには十分だった。
「見栄えはしませんね」とイヤホンのヴォークレールが言った。
リーズには、彼女へ言ったのかセギュールへ言ったのかわからなかった。
「よかった」と答えた。
マエルが顔を上げた。
「ここでは何ひとつ、見世物にしてはいけない」
中学校では、要介護者から避難を始めると発表された。校長は落ち着いて話そうとした。「順番」という言葉で声が震えた。小さな女の子が、詩を書いたノートも持っていけるか訊いた。誰も答えを見つけられなかった。女性の監督員が、いいよ、とすばやく答えた。ポケットに入るほど小さな世界だから、救うように。
その光景を、リーズ自身は見なかった。あとで聞いた。
そのとき彼女に見えたのは、防水布から現れる黄色いフレームと、雨の下で開かれる灰色の箱だけだった。
モジュールは、この場所にはきれいすぎた。
汚してやりたくなった。
少なすぎる重みを保つ
最初の持ち上げは失敗しかけた。
北側のモジュールが荷重を受け、失い、振動を伴って再び受けたため、全員が後退した。荷台から数センチ浮いたポンプが、ゆっくり自転し始めた。飛翔ではなかった。質量の悪い逡巡だった。吊り帯が軋んだ。消防士が罵声を上げた。タルデューが回転を止めろと叫んだ。ソレルは、知らぬ間に近づいていた者たちをさらに下げるよう求めた。
リーズは制御盤に手を置いていた。
世界のことも、フランスのことも、オレンヌのことも考えなかった。ポンプの実際の重量、トラックの下の泥、畳み方の悪い防水布を掴む風、雨の県道など一度も想定しなかった古い夜の図面を考えた。黒い手帳の形は、空のアパートやブレストの一室、監視された試験槽で生まれた。ここで出会ったのは、長靴、砂利、かじかんだ指、雑音を立てる無線機、中学校にいる妊婦、水没した揚水場、土嚢に囲まれた変圧器だった。
現象は曖昧さを好まなかった。
暮らしも同じだった。
「三つ下げて」とリーズ。
タルデューが訊いた。
「何を三つ?」
「わからない。あなたたちの言葉で三つ」
ソレルが先に理解した。
「軽減量を下げる。地面に重さを残して」
タルデューが指示を伝えた。
ポンプが少し下がった。台車の車輪が接地を取り戻し、それでいて道路に呑まれない程度。荷は回るのをやめた。
「そう」とマエル。「まだ世界に重みをかけていないと」
リーズは彼女を見た。
マエルは狙って言ったのではない。無言の領域ではよくあった。ほかの者たちが、自分でも気づかず正確な言葉を見つける。
車列は歩く速さで進んだ。
二人の消防士が低い手振りで車輪を誘導した。タルデューはフレームのそばを歩き、吊り帯から目を離さなかった。ソレルは数値を追った。モローはリーズを追った。ドロネは人間から生まれうる脅威をすべて追った。それが、不可能な状況を愛する彼なりの方法だった。
途中で、一人の女が家から出てきた。
薄すぎるウールのコートを着て、薬の箱を詰めたビニール袋を持っていた。何かを叫んだが聞き取れなかった。消防士が近づいた。中学校の人たちのあとで夫も避難させてもらえるか知りたがっていた。ボイラーの電源を落とすまでは家を出ないと言い張っているのだという。普段は分別のある人なんです、と何度も繰り返した。消防士は行くと答えた。いつ、と訊かれた。時刻では答えなかった。
「できるだけ早く」
リーズは聞いた。
意思決定の部屋では、「できるだけ早く」は弱さだった。ここでは、腕一本で辛うじて支える約束だった。
午後半ば、揚水場に着いた。
低い建物は敷居まで水に浸かっていた。長年預けられてきたものを吐き戻すと決めたように、扉から水が流れ出ていた。第二の車両で技術班と到着したサミラ・ベクーシュは、ポンプ、ケーブル、開口部を見てからジャケットを脱いだ。
「電源を落としたのは?」
自治体職員が手を挙げた。
「私です」
「よし。裏のマンホールを知ってる人は?」
誰も答えなかった。
サミラはマエルを見た。
「知ってる?」
「うん」
「でしょうね」
二人は消防士二名とライトを連れ、膝まで水に入っていった。カミーユの監督下で車両近くに残っていたヤニスが、ついていこうとした。サミラは柵より確実に彼をその場へ固定する一瞥を投げた。
「そこにいなさい」
「手伝えるよ」
「私を早死にさせる理由を、これ以上増やさないで」
ヤニスは残った。
リーズはその顔を見た。少年の恐怖には、大義の高貴さなどなかった。生々しく、腹立たしく、ほとんど恥じていた。自分を見える存在にしてくれた者の役に立ちたかった。二日前、オレンヌは彼を受け入れた。今日フランスは、受け入れられても、愛する者が水へ入るのを見ずには済まないと教えていた。
最初のポンプが、金属の喉を鳴らすような音で始動した。
数分間、何も変わらなかった。
やがて水位の上昇が止まった。
勝利ではなかった。
敗北の中断だった。
無線の声色がたちまち変わった。中学校の避難速度を落とせる。東側から救急車を通せる時間ができるかもしれない。市役所は、バ・シュマン地区を今すぐ避難させるべきか、待つべきか訊いてきた。デルフィーヌ・ルーは、今すぐ、と答えた。議員が抗議した。もう一度、今すぐ、と言った。その背後でミレイユは、名前と治療内容をノートに書いていた。
古い橋がまだ残っていた。
橋脚に挟まった梁は、道路工事現場のものだった。管理の甘い資材置場から流れ、側溝を越え、柵を薙ぎ倒し、ついには行政上の過失が重い物体になったように、そこへ詰まっていた。急に取り除けば、流木が一気に流れ、下流の岸を打つ。そのままなら、上流の水位が上がり続ける。
タルデューが言った。
「持ち上げない。軽くして、回転させる」
「赤い揺り籠みたいに」とリーズはつぶやいた。
ソレルには聞こえた。
「赤い揺り籠とは違います」
「見たから」
言葉が早く出すぎた。リーズはすぐに、それが会話を閉ざす昔の反射だと感じた。言い直した。
「違いはわかってる、という意味」
ソレルはうなずいた。
モジュールは補助吊り帯に固定された。自治体の重機が岸から引いた。消防士は見物人を遠ざけた。とはいえ見物人などではなかった。自分たちの通りを脅かす物が動くか、見届けたい住民だった。柵の向こうで信じろと要求される者を呼ぶ、もっとましな言葉がないため、見物人と呼ばれた。
リーズは、タルデューが望むより軽減量を低く設定した。
「少なすぎる」とタルデュー。
「まだ抵抗していないと」
「時間を失う」
「ええ」
梁は最初、動くことを拒んだ。
水が白い板となって砕けた。枝が震えた。青いビニール袋が一本の山形鋼に引っかかり、ばかばかしく、猥雑だった。やがて金属が動いた。一センチ。二センチ。重機が引いた。モジュールが軽くした。梁はゆっくり回転し、岸を剝がさずに水の通り道を開けた。
誰かが歓声を上げた。
リーズは倒れると思った。
本当に倒れる前に、モローが腕を取った。
「休憩です」
「だめ」
「いいえ」
「中学校が」
「避難しています」
「橋が」
「動きました」
「終わらせないと」
モローは、危険な曲線を見るときのように彼女を見た。
「何を終わらせるんです? 二十年間やられなかったことを、午後の数時間で全部救うつもりですか」
答えようとした。
答えが見つからなかった。
雨脚が強まった。
無線のスピーカーから、酸素吸入中の最初の一人が中学校を出たという声が流れた。
リーズは目を閉じた。
数秒間、その知らせ以外は何も背負わなかった。
決して求めなかった人々
中学校の避難は、夜までに完了した。
優雅さも、速さも、事後検証報告書めいたものもなかった。一人の女性が薬の袋をなくし、あとでテーブルの下から見つかった。子どもがボートで吐いた。老人が妻の写真なしには出ないと言い張り、二人のボランティアが体育館を探し、ビニールケースに入った写真を見つけた。校長は体育用具室の裏で泣き、その後、もうよく書けないペンを手に名簿へ戻った。
最後の一団が出るころ、リーズは建物へ入った。
モローは抗議したが、声は弱かった。リーズが見なければならないと理解していた。覗き見のためではなく、負債として。
一階の廊下には汚水と消毒薬の匂いがした。生徒たちの掲示物が壁の上で波打っていた。世界の川についての発表を並べたパネルがあった。切り抜かれた写真、フェルトペンの題名、教師の手で直された誤字。食堂では椅子がテーブルの上に上げられていた。隅には紙コップが浮いていた。赤い筆箱が暖房器具の上に置き忘れられていた。
リーズはトイレの前で止まった。
もう水は出ていなかった。
それだけで、床に座りこみたくなった。
ミレイユ・コルディエがデルフィーヌ・ルーとともに、中央廊下へやって来た。コートを着たままで、街履きの靴は駄目になっていた。螺旋綴じのノートをまだ胸に抱えていた。
「来たんですか」とリーズ。
「外にいるほうが役に立つと言われましたから」
残酷になりうる言葉だった。だが残酷ではなかった。リーズがすでに裂けている場所を、ミレイユが叩く必要はなかった。
「今日は、外がここだったんです」
リーズはノートを見た。
「名前は?」
「見つけた人。探している人。水が入るまで助けを求めなかったせいで、どの名簿にも載っていなかった人」
デルフィーヌ・ルーは濡れたスカーフを外した。
「起こりえた事態を考えれば、暫定結果は良好です」
「どう良好なんです?」とナデージュ。
彼女も来ていた。正式な役割は誰にも与えられていなかった。午後じゅう毛布を配り、長すぎる命令を短く翻訳し、泣いている女性を地元記者に撮らせず、何人もの公務員が敬意を払うほど効率よく、だめ、と言い続けていた。
知事はその質問を受け入れた。
「中学校では死者なし。二人が入院。バ・シュマン地区で一人行方不明ですが、おそらく電話を持たず姉妹の家へ避難したものと思われます。漏電火災で一軒が全焼。揚水場は部分的に再稼働。橋は監視中。避難を完了できるだけの時間は稼ぎました」
「だから良好」とナデージュ。
「昨夜、起こるはずだったほどひどくはない、ということです」
ミレイユが加えた。
「その違いは大切です」
リーズは三人の女を見た。知事、窓口職員、ナデージュ。オレンヌの最初の選考表なら、誰一人簡単には受け入れられなかっただろう。希少性が足りない。結びつきが強すぎる。重い意味で、あまりにフランス的だった。土地や時間割や地域の怒り、記入の悪い書類、何かが溢れたときにしか見えるようにならない人々と結ばれていた。
マエルも入ってきた。腰まで濡れ、髪は額に貼りついていた。
「ポンプは数時間持ちます」
「その後は?」とセギュール。
彼女は彼を見た。
「その後は、修理です」
言葉は単純に落ちた。
修理する。救うでも、実証するでも、創設するでもない。修理する。
すべてはこの言葉から始まり、この言葉を決して失うべきではなかったのかもしれない、とリーズは思った。
一行は市役所へ案内された。議場が調整拠点になっていた。公式肖像は湿気を避けるため、戸棚の上へ移されていた。ボランティアがテーブルに魔法瓶を置いていた。議員が掲示板に頭をもたせ、座ったまま眠っていた。壁の自治体地図は、赤い線と付箋で覆われていた。
ヴォークレールから電話が来た。
セギュールはスピーカーにした。
「大統領は各班へ謝意を表しています」とヴォークレール。「マティニョンが短い声明を準備中です。オレンヌへの言及は、民間防衛活動への技術支援に限定します」
「だめ」とリーズ。
全員の顔が彼女を向いた。
あまりに疲れていて、慎重な言い回しを探す力がなかった。
「技術支援とは書かないで」
「どういうことです?」
「フランスの行政サービス、自治体、消防、職員、住民、それからオレンヌ準備機構が一緒に働いた、と書いてください。順番はそれでも別でもいい。でもオレンヌだけにはしないで」
ヴォークレールはすぐには答えなかった。
「政治的には、この仕組みが機能することを示す必要があります」
ミレイユが鋭い音を立ててノートを閉じた。
「機能したのは、鍵や弁の場所、年老いた病人、嘘をつく道路、直し方の悪い橋、車のない家族を、すでに知っている人がいたからです。それを声明に書けますか」
スピーカーはエリゼの沈黙を保った。
デルフィーヌ・ルーが笑みなく笑った。
「その文面なら署名します」
マエルも言った。
「私も」
ナデージュが手を挙げた。
「私は署名しなくていいけど、大声で賛成できます」
リーズは笑いかけた。
ようやくヴォークレールが言った。
「文案を送ってください」
「ミレイユ」とリーズ。
ミレイユは彼女を見た。
「何です?」
「書いて」
「私はあなたのスピーチライターではありません」
「ええ。だからです」
ミレイユは目の前のコンピューターではなく、市役所の便箋を取った。ゆっくり書いた。デルフィーヌ・ルーが二か所訂正を提案した。セギュールが三か所目を。ナデージュは式典の匂いがする言葉をひとつ削った。マエルは揚水場の名前を加えた。危うく壊れかけた場所は、名前で呼ばれるに値した。
最終稿は短かった。
サン=ロルメルでの活動は、救助機関、自治体職員、地域技術班、県庁が、オレンヌ準備機構の限定的支援を受けて実施した、と記していた。目的は一度も力を示すことではなく、避難、排水、修理のための時間を稼ぐことだった、と。得られた知見は関係自治体と共有される、と。最後に、被災住民には管轄機関が支援を行う、とあった。ナデージュはこの文言を削りたがったが、ミレイユが残した。
「どうして?」とナデージュ。
「本当に必要になるから」とミレイユ。「少なくとも、私たちに突きつけられる文言くらいは渡しておきましょう」
リーズはそれを気に入った。
文言そのものが重要なのではない。これから要求しなければならない人々が、掴みどころとして使えることが重要だった。
夜が落ちるころ、オレンヌはもう新品には見えなかった。
黄色いフレームは泥まみれだった。モジュールは拭かれ、点検され、ほとんどばかげた優しさで箱へ戻された。タルデューは手に切り傷を負っていた。サミラは椅子で十五分だけ眠り、壁に頭を反らせていた。ヤニスは隣でスープのカップを守っていた。マエルはまだ地図の前で自治体職員と話していた。モローはようやくリーズを座らせることに成功した。
服は湿り、髪はうなじに貼りつき、口が渇いていた。手は思ったほど震えていなかった。よい知らせではない。身体が例外を普通の一日だと思い始めているということだった。
セギュールが隣に座った。
「これが何を生むか、わかっていますか」
「要請?」
「たくさん来ます」
「怒り?」
「それも」
「原則論?」
「明日から」
リーズは室内を見た。カップ、地図、コート、無線機。座ったまま眠る人々。別の場所で水位がまだ上がり続けているため、話し続ける人々。
「なら、あの人たちより先に書きましょう」
「何を?」
手帳を探した。なかった。ドロネが無言で、縁の湿った市役所のメモ帳を差し出した。
リーズは書いた。
「オレンヌは、模範的な事例として自らを示せる状況、人間、地域にだけ、その力を与えてはならない。
救助はまず、誰が値するかを問うものではない。
何が壊れ、誰がその下にいて、誰がすでに支えているかを問う」
手を止めた。
セギュールが読んだ。
「危険な原則です」
「ええ」
「はるか遠くまで、私たちを縛りかねない」
リーズは最初の行を見た。手が震えているため、文字も少し震えていた。
「それが問題なんだと思います」
外でサイレンが町を横切った。全体警報ではなかった。一台の車両が、別の通り、別の地下室、誰かが名前で呼ぶまで家を出ようとしない別の頑固者のもとへ向かっていた。
リーズは目を閉じた。
初めて、世界の重さが上から来るものには思えなかった。
下から来ていた。
第24章
世界を支えるもの
汚れた箱
一行は夜明け前、車輪の下に泥をつけ、服に濡れた体育館の匂いを染みこませてオレンヌへ戻った。
車列は式典用の入口を使わなかった。重量物の搬入、機材箱、分別廃棄物、ねじ類のパレット、洗濯物の袋が通る業務用ランプを上がった。黄色いフレームを載せたトラックは、格納庫の扉の前であまりに静かにブレーキをかけた。数秒間、誰も動かなかった。ワイパーは、日の差さない朝の灰色の内側しか映さなくなったフロントガラスを、なおも払い続けた。
タルデューが最初に降り、防水布を開いた。
黄色いフレームは、ところどころしか黄色くなかった。泥が支柱の上で板状に乾いていた。枯葉が隅に貼りついていた。土嚢か仮設柵から千切れた青い紐が、まだ取っ手から垂れていた。ひとつのモジュールには、浅いが長く、目に見える傷が走っていた。手の届かないものだと信じていた物体についた引っかき傷のようだった。
「写真を撮るまで、何も洗わないで」とタルデュー。
布を手にした技師がためらった。
「泥もですか」
「泥こそ」
技師は布を置いた。
リーズはトラックの入口に立っていた。長靴がステップに重い音を立てた。帰路で二十分眠った。窓に頭をつけたまま、休息にはならない眠りだった。穴のように呑みこまれ、目の奥の痛みと、身体がまだ消防無線を聞き続けている感覚とともに吐き出された。
モローが下で待っていた。
「医務室へ」
「モジュールを見たい」
「逃げませんよ」
「私も逃げません」
「それを確かめるのではありません」
笑わなかった。命令より、そのことに説得された。リーズは従った。
サン=ロルメルのあとでは、医務室へ続く廊下が清潔すぎた。灰色の床、安定した光、番号のついた扉、無臭に近い石鹼。新しい場所には、そういう無意識の傲慢さがあった。人が理解するより早く、痕跡を消してしまう。リーズは自分の長靴が床に褐色の跡を二つ残すのを見た。謝りかけた。だが、謝る気がなくなった。
小さな診療室で、モローはジャケットと長靴と湿ったセーターを脱ぐよう言った。看護師が体温、血圧、血中酸素、体重を測った。リーズが素直に質問へ答えたため、モローは数値と同じくらいそれを警戒した。
「寒いですか」
「いいえ」
「痛みは?」
「いつも以上ではないです」
「吐き気は?」
「少し」
「めまいは?」
「急に立つと」
「昨日の昼から何か食べましたか」
リーズは記憶を探った。
「スープ」
「訊いたのはそれだけではありません」
「パンも少し」
モローは記録した。ペンを置き、測定用のバンドを取った。画面に曲線が現れた。すぐには何も言わなかった。その沈黙に、リーズは顔を上げた。
「何?」
「脈がきれいすぎます」
「礼儀正しい心臓だと問題ですか」
「今やってきたことの後なら、問題です」
リーズは曲線を見た。上がり、下がり、自らを修正し、目立った乱れはない。彼女が感じている身体とはまるで違った。身体のなかでは、小さな部品がずれ、脚は重く、掌は空洞になり、歯の奥が唸っていた。
「わかりません」
「身体が、例外を通常運転として取りこみ始めているのかもしれません。代償動作が早すぎる。黙るのが早すぎる。これは平静ではありません。火事が終わっていないのに鳴らなくなった警報です」
看護師はガーゼのトレーへ目をそらした。モローは患者の前で事態を大げさに言うことを嫌った。そうしたということは、自分の言葉の重さからリーズを守るのをやめたということだった。
「入院させる?」
「経過観察します」
「そのほうが上品ですね」
「そのほうが正確です」
毛布を差し出した。
リーズは受け取った。指が白い布に灰色の跡を残した。
「モジュールが汚れています」
「あなたもです」
「いいえ。あっちのほうがいい」
モローは待った。
彼女は毛布を身体に引き寄せた。
「やっと何かの役に立ったように見える」
彼は答えなかった。
しばらくして、最初の写真を持ったタルデューが医務室へ来た。リーズはベッドに座り、まだ湿った髪で、冷めた紅茶のカップを手にしていた。タルデューは写真をシーツの上に置いた。
泥、箱、フレーム、青い紐、傷、制御盤に残った手袋の跡。
「採取しました」とタルデュー。「土、水、炭化水素、植物片。どの汚れがどこから来たか、全部わかります」
「嬉しそうですね」
「ええ」
否定するふりもしなかった。
「今までは実験室、試験槽、枠を決めた試験ばかり。砂を二キロ入れて扇風機を回せば、汚れた条件だと思っていた。今回はモジュールの周りに本物の世界があった。きれいな試験を十回するより、ずっと多くを学べます」
「私も?」
タルデューは写真を見た。
「あなたも」
廊下で音がした。早足、それを抑えた足音。セギュールが開いた扉をノックした。まだサン=ロルメルで皺になったジャケットを着ていた。朝の無精髭で、地位が少し低く見え、思いがけず誠実そうだった。
「お邪魔ですか」
「ええ」と背後のモロー。
セギュールはそれでも入った。ただし一歩だけ。
「マティニョンが一時間以内に状況報告を求めています。エリゼもです。関係省庁は最初の枠組みを欲しがっています」
モローは腕を組んだ。
「彼女は眠っています」
「起きています」
「それは行政上の違いです」
リーズはカップを置いた。
「もう書いたの?」
セギュールは一瞬の何分の一か、ためらった。
「複数の草案が出回っています」
「見せて」
モローが、だめだと言った。
リーズは声を上げなかった。
「私が眠っているあいだに書く。眠るのはその後」
「あまりに多くの夜、そう言い続けています」とモロー。
彼の口から出ると奇妙な言葉だった。比喩を好む人間の言葉ではなく、診療記録と、連続する夜と、表と、日付と、例外から出たものだった。タルデューは思わず微笑んだ。
リーズは笑わなかった。
「二十分。そのあと、ベッドでも封印下でも、好きなところへ入れて」
モローはセギュールを見た。
「二十分。一分も超えないこと」
セギュールはうなずいた。
だが二十分は、脆い堤防がいつもそうであるように、文書を開いた瞬間から崩れ始めた。
きれいな紙
最初の草案には、暖房の効いた事務室と、現実を外へ締め出した匂いがした。
安全なタブレットに届いた文書には、赤い帯、三省庁の頭文字、そしてあまりにも少ない泥があった。セギュールは診療室の移動テーブルに置いた。リーズは手に取るのを拒んだ。印刷してほしいと言った。
「なぜ?」とセギュール。
「紙なら汚せるから」
事務区画の廊下でプリンターが見つかった。文書は温かく、斜めにホチキス留めされて出てきた。リーズは汚れた指で受け取った。
「民間防衛活動を支援するオレンヌ準備機構による、管理下での技術介入」
最初の一行を二度読んだ。
「だめ」
「たたき台にすぎません」とセギュール。
「もう、アイロンのかかった嘘です」
タルデューが紙を覗きこんだ。
「管理下?」
「マティニョンの言葉です」
「なら、マティニョンは雨の下にいなかった」
下には「管理された運用原則」「国家的承認系統」「運用継続性の実証」とあった。「救助」という言葉は一度しか現れず、制度的安定の後ろにしまいこむ文章のなかに置かれていた。
リーズはモローのペンで線を引いた。
「運用継続性の実証」という言葉を横切る線は、紙が破れかけるほど強かった。
「力を抜いて」とモロー。
「抜いてます」
「いいえ」
「なら、目は覚めてる」
セギュールは顔を手で撫でた。きれいな紙が、指のあいだで少し震えていた。
「この文面を擁護しているわけではありません。パリはいくつもの扉を同時に閉じようとして、声明を袋小路の廊下にしてしまっている」
「一番閉めているのは、サン=ロルメルの人たちが入ってきた扉です」
窓辺の画面から、ケラフが会話に加わった。顔は疲れ、背後には書類があり、結び方の悪いスカーフが、身なりを整える暇もなかったことを語っていた。
「原則的にはリーズが正しい。この文書は救助活動を運用実績へ変えています。法的に危険です」
「何もかも危険です」とセギュール。
「ええ。なら、正しい危険を選ぶべきです」
数分後、リーズの知らない部屋からヴォークレールが画面に現れた。背後ではフランス国旗が、公式な象徴にしかできない不可能な慎み深さで画面の隅を占めていた。
前置きなしに始めた。
「大統領が避けたい物語は二つです。オレンヌが国家に代わってフランスを救うという物語。国家が威信のためにオレンヌを捕獲するという物語。そのあいだに一本の線が必要です」
音もなく入ってきてコーヒーを手にしていたナデージュが訊いた。
「人々が水を汲み出した、という物語は?」
ヴォークレールは一秒、目を閉じた。
「ル・ゴフさん」
「まだ意地悪は言ってませんよ」
「承知しています」
「いいえ。そう願っているだけです」
モローは時計を見た。
「あと十二分です」
誰も動かなかった。
リーズは紙を取った。マティニョンの草案を読み直し、次に市役所のメモ帳へ書いた三行を読んだ。メモ帳は隣に置かれ、波打ち、隅には雨の跡があった。その対比はほとんど滑稽だった。片方はきれいな紙。もう片方は湿った紙。一方はすでに記録資料に見えた。もう一方は、まだ汚れることのできる物に見えた。
「オレンヌを、フランスの空飛ぶ良心にはしたくない」
ヴォークレールが答えた。
「誰も望んでいません」
「いいえ。大勢が望むようになる。完璧な申請を出せる人にだけ使えと言う人も出る。遠く、高いところに置き、選ばれた者だけのものにしろと言う人も出る。どれも自分たちが思うほど違っていません」
セギュールが訊いた。
「では、何を提案しますか」
すでに整った規則で答えたかった。
そんなものはなかった。
逆流するトイレ、すばやく救われた詩のノート、暖房器具の上の赤い筆箱、サミラが水に入るときのヤニスの顔、ノートに置かれたミレイユの手、タルデューの切り傷、モローが機械の欠陥のように見つめていた、きれいすぎる脈。それしかなかった。
「まず、自分たちが何を示したかについて話すのをやめること」
「何について話すんです?」
「何が私たちを動かさずにおかなかったか」
ヴォークレールはカメラへ近づいた。
「義務は、生まれたばかりの国家を殺しかねません」
「国家は、見ることを拒んだものによっても死にます」
ケラフが余白に何かを書いた。
モローが言った。
「時間です」
「あと一分」
「だめです」
リーズの手から紙を取った。
その仕草によって、一秒間、全員の意見が彼に反対することで一致した。だが彼は紙をテーブルに置いた。閉じも、取り上げもしなかった。
「二時間眠ります。そのあいだ、彼女を病気にしない言葉を探してください。二時間は貴重です。活用してください」
強引な手つきでケラフの画面を切り、ヴォークレールには医務室ではなくセギュールへかけ直すよう求めた。ヴォークレールには、抗議しないだけの知性があった。
部屋から人がいなくなると、リーズは礼を言おうとした。
モローが止めた。
「礼儀を浪費しないでください」
「曲線を測る人にしては、ずいぶん直接的ですね」
「曲線のほうが、人間より嘘をつくのが下手ですから」
リーズは横になった。
すぐには眠れなかった。扉の向こうでまだ足音、声、書き直される紙の音がした。目を閉じた。ひとつの像が浮かんだ。箱のなかのモジュール。汚れ、写真を撮られ、重量を測られ、試料を採取され、自分たちのために準備されたのではない何かにようやく触れたことで、以前より理解されている。
その考えとともに眠りへ落ちた。
物は、世界から遠ざけたからといって純粋になるわけではない。
ただ、学ばないままでいるだけだ。
要請
目覚めると、要請の受信箱は性質を変えていた。
数週間前から存在はしていた。オレンヌには、提案、応募、覚書、敬意で包んだ脅迫、技師たちの夢、不可能な契約、病人からの手紙、港の計画、巨額の資金提供、祈りという名を自ら拒む祈りが届いていた。だがサン=ロルメルが扉を動かした。人々は中へ入るためだけに書くのではなく、オレンヌを外へ出すために書くようになった。
セギュールは一部を印刷させていた。
リーズの前では、それを「一部」とは呼ばなかった。
「いくつかの代表的事例です」
ナデージュが答えた。
「代表的と言うときは、もう叫び声を大きさで選別したあとですよね」
彼は一撃を受け入れた。受けて当然だった。
会議室ではなく、モジュール工房に集まった。リーズが望んだ。汚れた箱はまだ架台の上で開かれていた。タルデューが二人の技師と黄色いフレームを囲んで作業していた。乾いた泥が手袋をした指の下で砕けた。薄い泥の匂いが、金属とコーヒーに混じって空気に残っていた。
「ここで」とリーズ。「ほかではなく」
誰も異議を唱えなかった。
最初のメッセージは地方の病院からだった。有名な大学病院でも、名前だけで省庁が動く病院でもない。古い建物。漏水の後で移された新生児科病棟。故障したエレベーター。挿管された二人の乳児には危険すぎると判断された移送計画。病院側は、一時的な軽量化によって仮設発電機を移動し、地元の技師たちがそれ以上の荷重を拒む床版に載せられないかと訊いていた。
「これはフランス国内です」とマッソン。「保健省経由になるでしょう」
「ベルギーだったら?」とナデージュ。
マッソンは答えるのが遅すぎた。
二つ目はイタリアの谷から。地滑り、道路の寸断、停止したケーブルカー。集落には二十七人がおり、一人は透析を受けていた。市長がイタリア語で書き、近隣住民がフランス語への自動翻訳を添えていた。翻訳文にはこうあった。「私たちは重要ではありませんが、とても閉じこめられています」。誰も笑わなかった。
三つ目は、気まずさを含んだ経路から届いたばかりだった。アンデス山脈の鉱山会社が、坑道に三人閉じこめられ、構造が不安定だとして、秘密裏の技術支援を求めていた。文面はロンドンの法律事務所が作成していた。資産、責任、企業秘密、株式市場の日程について書かれ、岩盤が何より声明文を脅かしているかのようだった。
だが粗くスキャンされた添付資料には、三人の名前があった。マテオ・アルバレス、ロシオ・メナ、ルイス・イバラ。作業員二名と、地元の地質学者一名。鉱山にその存在まで吞みこませまいとする誰かが、名前を書き加えたように見えた。
ページの下部には、スキャンで切れた四行目があった。削れた名と頭文字、性急に翻訳された二語だけが読めた。旧坑道。ロンドンの法律事務所はそれに触れていなかった。
「断りましょう」とナデージュ。
「待って」とソレル。
「鉱山を助けたいの?」
「マテオとロシオとルイスが生きているか知りたいんです」とソレル。
四つ目は知事からだった。デルフィーヌ・ルーではない。別の知事。サン=ロルメルを見て、自分の県の橋を次の増水までに補強すべきだと書いていた。実現可能性調査を求め、この装置が希少であることは理解していると述べ、「自地域を国家的優先事項のなかに位置づけたい」と望んでいた。
リーズは紙を置いた。
「これは壊れる前に頼んでいる」
「よいことではあります」とセギュール。
「ええ。でも今、誰に話せばいいか知っているから頼める。機転の利く知事がいない橋は待つことになる」
何週間も画面と電話の向こうにいたケラフが、その日は室内にいて、紙を二つの山に分けた。
「差し迫った緊急事態。予防的対応」
リーズに頼まれ、朝の連絡船で来たミレイユ・コルディエが、断りもなく三つ目の山を作った。
「書き方が悪く、緊急事態を隠している可能性のある要請」
イタリアの手紙と鉱山案件をそこへ置いた。
マッソンはその山を見た。
「鉱山案件の窓口は企業法務の弁護士です」
「作業員と地質学者は違います」とミレイユ。
「疑わしい要請をすべて追うわけにはいかない」
「追えとは言っていません。誰が下にいるか、確認しろと言っています」
その言葉がリーズを止めた。
誰が下にいるか。
前日、疲労のなかから当然のように書いた言葉だった。ミレイユはそれを事務作業の動きへ戻した。原則は、汚れた申請書のなかでも生き残らなければ意味がなかった。
ソレルはペンを取った。
「技術的に、すべてには応えられません。使用可能な稼働モジュールは少ない。劣悪環境での挙動には、まだ不安定な部分がある。訓練された班もない。リーズを世界のコールセンターにはできません」
「ありがとう」とモロー。
「まだ終わっていません。今、外部向けの規則を作らなければ、どの却下も道徳的、外交的、商業的な選好と解釈されます。どの承認も、統制のない前例になる」
「つまり選別する」とマッソン。
ナデージュが彼を見上げた。
「その言葉、大好きですね」
「いいえ。耐えているだけです」
「似て見えることもあります」
タルデューが、乾いた泥の欠片を載せた小皿を手にテーブルへ来た。
「救助工房が必要です」
全員が見た。
「何ですって?」
「原則論じゃなく、本物の工房。もっと壊れにくいフレーム。水、埃、衝撃から守られたモジュール。すぐ開く箱。消防、港、病院の機材に適合する固定点。三人の技師とリーズがいなくても読める説明書。それなしで原則を書くなら、私たちが安心するためだけの約束になります」
セギュールは書き留めた。
「費用は?」
「莫大」
「時間は?」
「足りない」
「実現可能性は?」
「あります」
重い部品をテーブルに置くように、ある、と言った。
次にモローが、もっと低い声で口を開いた。
「生物学的コストは?」
その表現が室内を冷やした。彼自身も気づいた。
「言い直します。リーズが払う代価です」
「ありがとう」とケラフ。
「高くなります。救助用の稼働モジュールを一基増やすたびに、夜、試験、調整が必要になる。サン=ロルメルでわかったのは、疲れていても彼女にはできるということ。それこそが危険です。身体が抗議すべきときにも持つことを、今しがた知った。オレンヌが外部への義務を負うなら、その隣に、リーズは使用可能な燃料ではないと明記しなければならない」
沈黙。
燃料という言葉は残酷だった。だが、きれいな言葉よりましだった。
遠隔参加のヴォークレールが、間を置いて話した。
「問題はおわかりでしょう。作ろうとしている規則は、持っていない手段、存在しない班、不確かな外交的保護、そしてすでに憂慮すべき適応兆候を示す一人の女性を巻きこみます。責任ある国家は、保証できないことを義務の土台にはしません」
リーズは答えた。
「国家は、自分が確実に管理できることだけを義務の土台にしても、死ぬことがあります」
「うまい表現です」
「いいえ。今日という一日が話しているんです」
ヴォークレールは受け止めた。
ミレイユは三つ目の山、書き方の悪い要請をリーズへ押した。
「この人たちは、決して正しい形式を手に入れられません。それが普通です。梁の下、古すぎる病棟、道のない谷、自分に代わって話す弁護士の後ろにいるとき、よい申請書なんて書けない。あなたの原則がそれを見ないなら、すでに書き方を知っている人を褒めるだけになります」
リーズは顔を手で撫でた。
まだ回復していなかった。モローにはわかった。ケラフにも。誰も止めなかった。
慎重さが先送りにすることを、疲労が口にする場合もあると知っていた。
「一部を設けないと」とリーズ。
セギュールが訊いた。
「何の一部です?」
「全部の。モジュール、班、時間、資金、私が引き受ける夜、訓練、政治的危険。その一部を、オレンヌの住民、オレンヌの市民、オレンヌに有用な人々、もっとも近い同盟国、もっともよく書かれた申請だけのものにしない」
「救助用の備蓄ですか」
「違う。備蓄は、他人に与える価値があると判断するまで取っておくものです。共有分が欲しい」
誰もすぐには繰り返さなかった。
共有分。
美しい言葉ではなかった。だが使える言葉だった。
そのほうがよかった。
ケラフは書き留めた。
「定義してください」
リーズは汚れた箱を見た。
「通常の手段では間に合わない軽量化に人命がかかっている場合、オレンヌの力の一定割合を外部救助に充てる義務。オレンヌへの有用性を条件としない。模範性を条件としない。あらかじめ外交上の利益を求めない」
ヴォークレールが即答した。
「維持できません」
「いいえ。費用がかかるんです」
「国家の規模では、ほとんど同じです」
「下にいる人にとっては違う」
彼は目をそらした。エリゼの顧問は弱さから目をそらさない。反論が正しく、まだ受け入れられないときにそらす。
セギュールがゆっくり続けた。
「共有分。物的基準は、生命を脅かす、または回復不能な危険。通常手段が明白に不足していること。期待される効果が救助または緊急修理に限られること。地元の行政サービスが公に活動主体として明示されること。介入の軍事的、商業的、メディア的利用の禁止」
「公に、だけでは足りません」とミレイユ。
「何です?」
「報告書でも、地元の行政サービスへ帰属させること。そうしないと、カメラから消えたあと、書類のなかでも人々が消えます」
セギュールは書き加えた。
ナデージュが訊いた。
「書き方の悪い要請は、誰が確認するんです?」
ミレイユが手を挙げた。
「私みたいな人」
「引き受けるんですか」
「そうは言ってません」
「もうやってますよ」
「だから警戒してるんです」
リーズはわずかに笑いかけた。
議論に終わりはまだなかった。
だが、テーブルの中央に置けるものはできた。
共有分。
正義ではなかった。
それでも、掴みどころにはなった。
書かれた共有分
共有分の条項は、工房で書かれた。
ケラフは法務会議室へ戻ることを拒んだ。初稿ができるまで、言葉を汚れた箱のそばに置くべきだと言った。モローは、議論の合間にリーズが組立台へ横になることを条件に承諾した。タルデューは、その台は清潔な部品を置くためのものだと抗議した。モローは、汚れた物の科学的価値はたった今、確認されたばかりだと答えた。
タルデューが折れた。
クッション、毛布、三本の延長コード、二台のコンピューター、紙コップ、サン=ロルメルの写真が運びこまれた。工房のテーブルは、生まれかけの条約の混沌になった。法律文書、濡れた地図、試料の小皿、モジュールの在庫表、予算項目、病院名、橋梁番号、声明の草案、避難者名簿。
オレンヌで初めて正直な事務机だ、とリーズは思った。
ケラフが初稿を読んだ。
六行に収まり、すでにきれいすぎた。
緊急救助、人命保護、通常手段の不足について書かれていた。どの言葉も正しく見えた。どの言葉も、到着を遅らせるために使えた。
法律家たちより先にナデージュが気づいた。
「まだ正しい欄に入っていない人たちは?」
サン=ロルメルから参加したマエルが、ほとんど即座に答えた。
「脅威が完璧になるまで待っていたら、水のあとに着きます」
その後の沈黙は、一ページの注釈より価値があった。
ヴォークレールは、オレンヌと協定を結んだ地域に条項を限定しようとした。リーズは拒んだ。
「協定を条件にしすぎれば、政府が悪い国の人々を見殺しにします」
セギュールは、自動的な介入義務ではなく、審査義務を提案した。美しさには欠けたが、奪い取られにくい。ケラフは、オレンヌに居住していないこと、その利益に奉仕しないこと、模範的な存在として自らを提示できないことを理由に、何人も排除してはならないと書いた。
ミレイユが読み直した。
「うまく届かない要請を読む人間が必要です」
「どう、うまく届かないんです?」とマッソン。
「書き方が悪い。翻訳が悪い。送り方が悪い。弁護の仕方が悪い。よい要請はもう、よい扉を見つける方法を知っています」
今度は誰も、表現を整えようとしなかった。
この明白な事実を中心に、小さな暫定班が作られた。技師、医師、外部の法律家、書き方の悪い要請を担当する者、可能な場合は現地の代表。リーズは、自分の名前を必須の決定者として記すことを拒んだ。
「すべてから身を引くことはできません」とセギュール。
「引いていません。苦痛を受理可能にするための判を押す役になるのを拒んでいるんです」
タルデューが汚れた手でモジュールから戻ってきた。
「道路、病院、港、学校を知る人が要ります。私たちだけではなく」
「外部依存のネットワークを作ることになります」とセギュール。
「違います」とタルデュー。「すでに存在していたと認めるんです」
ミレイユが加えた。
「サン=ロルメルでうまくいったのは、誰かが誰かを覚えていたからです」
その一文で十分だった。
ヴォークレールは、さらに静かな声で話した。
「この共有分は、世界じゅうに期待を生みます。すべての却下が過失になる。すべての承認が、不十分なものになる」
「ええ」
「領土が安定する前に、政治的にあなた方を殺しかねません」
リーズは組立台の上で身を起こした。毛布が肩から落ちた。
「称賛され続けられる場所でしか強さを引き受けないなら、オレンヌはもう死んでいます」
ケラフは顔を上げなかった。だがペンが止まった。
ヴォークレールは長い時間をかけて答えた。
「条項を送ってください」
条項はテーブルに残った。重く、不完全で、攻撃の余地があった。それでもすでに、一人の子ども、一つの学校、一つの谷、一つの病院、三人の名前、異国の山の下で途切れた一行を背負っていた。
支えるもの
夕方、マリアンヌから電話が来た。
リーズは自室へ戻り、翌日まで下へ降りることを禁じられていた。禁止令は文書化され、モローが署名し、ケラフが副署し、ナデージュがマスキングテープで扉に貼った。ドロネは非常に重大な措置だと考えたらしい。入退室管理を追加しようとまで言い、リーズの視線を受けてやめた。
部屋からは、停泊地の一部と、設備橋の一部が見えた。光が弱まっていた。格納庫の窓の向こうを人影が通った。下で彼らが書いている言葉を背負うには小さすぎた。汚れた箱はどこか下にあった。リーズの視界からは消えていたが、頭からは消えていなかった。
マリアンヌは、元気かとは訊かなかった。
学んだのだ。
「母さん、映像を見たって」
「どんな映像?」
「姉さんじゃない。長靴とか、消防士とか、市役所とか。オレンヌが助けたって説明してる男とか。姉さんも泥のなかにいたのかって訊いてた」
「何て答えたの?」
「たぶんいたって」
リーズは目を閉じた。
「怒ってる?」
「何より誇らしくて、腹を立ててる。母さんの場合、そういうときはスープになる」
「スープ?」
「朝からずっと作ってる。不安を食べさせて、動かなくしようとしてるんだと思う」
リーズは笑った。短く、ほとんど痛む笑いだった。身体が驚いた。脇腹に手を置いた。
「元気だって言って」
「いや」
「マリアンヌ」
「生きてる、見張られてる、疲れてる、前より少し嘘が下手になった、って言う」
「どうもありがとう」
「私の共有分」
リーズは答えなかった。
言葉はもう工房を出た。
生きていける。
マリアンヌが続けた。
「姉さんたちが何をしようとしてるのか、全部はわからない」
「私も」
「でもサン=ロルメルの件で、ひとつわかった。テレビでは、オレンヌを汚れのない道具みたいに話してた。それから村の女の人が、消防士が夫の薬を見つけてくれたって言った。そしたらスタジオの全員が居心地悪そうな顔になった。本当の話は、カメラには小さすぎるみたいに」
「小さくなんかなかった」
「そういうこと」
電話の向こうで鍋の音がした。ジャンヌが離れた場所から何か訊いた。まだ話している、とマリアンヌが答えた。リーズは台所を思い浮かべた。タイル、テーブル、椀、母のスープ、小さすぎる音でついたラジオ。条項を書かずに不安でいることを許された世界に、まだ属しているすべての物。
「帰ってくる?」とマリアンヌが訊いた。
思ったより激しく、問いがリーズを貫いた。
「すぐには帰らない」
「明日って意味じゃないよ」
「わかってる」
マリアンヌは沈黙を置いた。
「帰れなくなる国を造らないで」
リーズは目を開いた。
外では技師が、洗浄済みの部品を載せた台車を押していた。ゆっくり進んでいた。完全には自分のものではない何かを運び、それでも責任を負う者の注意深さで。
「だから条項が要るのかもしれない」
「帰るために?」
「国が一人で上がっていかないように」
マリアンヌは、自分にできるより早く理解しようとはしなかった。
「なら、短くして」
「失敗した」
「じゃあ、本当のものにして」
二人はしばらく電話をつないだまま、あまり話さなかった。最後にジャンヌが電話を代わり、温かいものを食べ、眠り、国家の専門技術みたいに皆を怖がらせるのはやめなさい、とリーズに言った。リーズは三つのうち二つを約束した。どれかは言わなかった。
電話のあと、黒い手帳を開いた。
すぐには描かなかった。
白いページが、何かを借りていると知っているページの意地の悪い忍耐で、リーズを見返した。テーブルには手帳と並んで、共有分条項の写しがあった。全面的な作業禁止にもかかわらず、ドロネが持ってきたものだった。これは道徳的文書であって行政作業ではない、と主張していた。リーズが告げ口すれば、モローはおそらくその権利を取り上げただろう。
読み返した。
共有分。
審査義務。
模範的な存在として自らを示す術を持たない者。
リーズの状態の保護。
最後の一行でつまずいた。ケラフが要求した。モローも。ソレルが支持した。タルデューも、救助用モジュールが最初の鎖よりさらに暴力的な、優しい鎖にならないために必要だと考えた。
全員が正しいと、リーズはわかっていた。
同時に、この共有分が重みを持つには、自分も何かを払うと受け入れなければならないとわかっていた。
だが、すべてではない。
それは新しい限界だった。以前は何より、奪われまいと闘っていた。今は、開くという名目で自分自身を差し出さないために闘わなければならない。寛大さは、拒むことがさらに難しい収奪になりえた。救われた人々の顔をしているからこそ。
手帳に書いた。
「共有分の代価にならないこと」
その下に加えた。
「それを閉ざす口実にしないこと」
二行は互いを見つめ、和解しなかった。
それはよい兆候かもしれなかった。
ページをめくった。
夢はまだなかった。だが形が探していた。より強力なモジュールでも、大規模な浮上構造でもない。むしろ、開いた、不完全な部品。すでにあるものに取りつけられる形。橋、梁、病院のベッド、台車、扉、小さすぎるクレーン、もう使えない階段。周囲の手に取って代わらず、その手が動き続けるのに必要なだけ、重さを取り去る形。
最初の弧を引いた。
次に、もっと低い弧を。
ページは、閉じることを拒む鉤に似始めた。
リーズはペンを置いた。
今しがた起きたことに名をつけろと誰かに求められても、そのために手帳を開きはしなかっただろう。本当の名前は、たいてい遅れてやって来る。物事がもう、自らの重さを選んだあとに。
停泊地を見た。格納庫の灯りを。共有分条項の写しを。親指が毛布に残した灰色の跡を。
世界を支えるものとは、世界を落下させないものではなかった。
切り離せば何もかも簡単になるとき、それでもつながったままでいることを引き受けるものだった。
リーズは明かりを消した。
闇のなかで、未来のモジュールは形を探し続けた。
第25章
浮揚の代償
開いた鉤
鉤の形は、夜明け前に生まれた。
大がかりなモジュール製造の夜でもなければ、センサーに囲まれたクリーンルームでもない。試験結果を待つように奇跡を待ち受ける視察団の目の前でもなかった。換気装置の吐息と、廊下を通り過ぎる台車の音。そのあいだに落ちた、短く、心もとない眠りのなかで、それは現れた。
リーズが見たのは構造ではなく、手だった。
持ち上げる手ではない。重さを自分のものにしようとせず、その下へ差し入れられる手。すでにそこにいる者たちにとって、重さをほんの少し残酷でなくするだけの手。形が閉じるたび、それは美しくなった。精密になり、ほとんど使いものにならなくなった。すべてを引き受けてしまう。他人に代わって、動作を完結させてしまう。
開いたままなら、震えた。
支えが要った。帯が、ジャッキが、置き場所を誤った腕が要り、その腕を直さなければならなかった。純粋さには欠けた。脆かった。生きていた。
リーズは脚にシーツを絡ませたまま目を覚ました。
黒い手帳が床に落ちていた。共同枠の文書の写しは、三人の異なる手で書き込みをされ、角を折られたままテーブルに載っていた。身を屈めて手帳を拾おうとした瞬間、鋭い痛みが肋骨を締めつけた。息が戻るまで待たなければならなかった。
戸口でドロネが身じろぎした。
「モローを呼びますか。それとも私が呼びましょうか」
「どちらもなし」
「医学的には、かなり疑わしい返事ですね」
「図面なの」
「このところ、その図面も、あなたを傷つけるもののひとつになっています」
リーズは手帳を開いた。
最初の線は定まっていなかった。昨日の弧を描き直し、その下にもうひとつ描いた。それから、わざと線を途切れさせ、中央に空白を残した。このモジュールには、欠けた部分が必要だった。これまで彼女が作ったものはすべて、完全に支えることを目指していた。担い、相殺し、保持し、それを押し潰しているものに物体が縛られなくなるまで、重さを取り除く。開いた鉤は、その逆をした。
動作の完結を拒む。持ち上げるのではない。荷重を分かち合う。
彼女は速度を上げて描いた。一度ペン先が滑り、余白に長すぎる黒い線を残した。ドロネには図面の意味がわからなかった。しかし、その速さの意味はわかった。扉を開けた。
「タルデューを呼びます」
「モローは呼ばないで」
「来てから本人と交渉してください」
タルデューは作業ズボンにシャツとセーター、髪を慌ただしく束ねた姿でやって来た。挨拶もせず、リーズの手から手帳を取ると、ランプへ傾けた。それから二秒ほど、呼吸の仕方を忘れた。
「何、これ」
「サン=ロルメルより前に、作っておくべきだったもの」
「役に立つ人間らしい答え方をしてくれる?」
「重さを取り除かないモジュール。分配できる重さにする」
タルデューは図面を読み直した。断絶した線を、持ち手のありえない角度を見た。
「どう分配するの?」
リーズは言葉を探した。図面ほど速くは出てこない。
「クレーンの代わりにはならない。担架の代わりにも、チームの代わりにもならない。物が人の手に残るだけの重さは残す。でも、その手を押し潰すほどは残さない」
「松葉杖ね」
「違う」
「生きた滑車」
「少し違う」
「リーズ」
痛みに耐えながら、彼女は笑った。技術者としての忍耐が尽きたときだけ、タルデューは彼女をそう呼んだ。
「開いた鉤」
タルデューは手帳をテーブルに置いた。
「それは手帳のなかでだけ通じる名前。工房で使う名前じゃない」
「なら、あなたが考えて」
モローがノックもせずに入ってきた。
シャツは皺だらけだった。めったに訪れない眠りから引きずり出された者の目をしていた。そして怒りだけは、すでに立ち上がっていた。
「駄目です」
まだ誰も何も頼んでいなかった。
「何に反対しているのかも知らないでしょう」とリーズが言った。
「進歩したんです。以前なら、知るまで待っていた」
タルデューが手帳を彼に向けた。
モローは図面を見なかった。リーズを見た。
「何時間眠りました?」
「これを見つけるには充分」
「それは単位じゃない」
「二時間くらい」
「なら、充分じゃない」
続いてソレルが来た。肩にコートを掛け、眼鏡は傾き、顔を固くしていた。許可も求めず手帳を取り、弧を、断絶を、欠けた部分を目で追った。
「対称性が減っています」
「ええ」
「閉じ方も弱い」
「ええ」
「あなた自身も少ない」
リーズはすぐには答えなかった。
物理学者が目を上げた。
「すべてを解決する場所に自分をしようとしていない、初めての図面かもしれません」
モローは喜びのない短い笑いを漏らした。
「素晴らしい。六週間後のためのアイデアとして取っておきましょう」
「六週間もない」とタルデューが言った。
すでに別の紙を取り、角度を書き写していた。
「鉱山の案件が、夜のうちに別物になった。弁護士からの要請だけじゃない。三人の存在が確認された。作業員が二人、現地の地質学者が一人。救助隊は側坑道まで到達したけど、横梁が動いた。声は聞こえる。でも、いまにも崩れそうな支保梁を軽くしないかぎり、救出できない」
「どこ?」とリーズが訊いた。
「コルディエラ山脈。国境地帯。ものすごく遠い」
遠いという言葉に劇的な響きはなかった。ただ、病室のなかに越えようのない距離を置いた。
セギュールは数分後に到着した。ドロネから連絡を受けたのか、あるいは、どんな非常事態もやがて閉ざされた扉を通り抜ける、あの密かな伝播によって知ったのか。彼は仰々しさを交えず詳細を伝えた。私営鉱山。疑わしい事業者。報道を懸念する現地政府。すでに動き始めた複数の法律事務所。有能だが、装備の足りない現地救助隊。まだ生きている三人。予測不能な残り時間。次に動かせば崩落する危険。
「それで、オレンヌを求めているんですか?」とモローが言った。
「役に立つものなら何でも求めています」
「同じではない」
「ええ」
県庁へ戻る列車のなかから電話で参加したミレイユが、まだ誰も口にしていなかったただひとつの問いを投げた。
「三人の名前を確認したのは誰ですか?」
セギュールが書類を見た。
「現地救助隊の責任者。それと鉱山労組です。会社だけではありません」
「では、要請は受けられます。ただし、名簿に載っていない者がいないかも確認してください」
その言葉が宙に残った。
モローはベッドへ歩み寄った。
「これまでのような夜を、もう一度繰り返すのは認めません」
「私もよ」
彼は足を止めた。
「では、どうするんです?」
リーズは図面を見た。弧は閉じていない。空白が、ほかの手を必要としていた。
「短い夜にする。制限を設ける。持ち上げるためじゃない。ひとりでは最後までやれない形を残すために」
壁面スクリーンのヴォークレールが訊いた。
「それが機能すれば、オレンヌの独占に大きな穴を開けることになります。それは理解していますか?」
「いいえ」とリーズは答えた。「穴を、あるべき場所で閉じるんです」
外では、朝の光が泊地に触れ始めていた。クレーン、渡り廊下、窓、洗浄中のモジュールを抱え、オレンヌが夜から姿を現していく。朝が来れば許されると思い込む、新しい場所特有の脆い思い上がりとともに。
タルデューが図面を持っていった。
オレンヌの最後の大仕事は、浮揚から始まるのではない。
工房のテーブルに置かれた、未完成の部品から始まるのだ。
名前を与えられなかった女
最初の鉤は十一時間で作られた。失敗した試験の連続を、製作と呼んでよければの話だが。
最初のコアは加熱が速すぎた。二つ目は停止を拒んだ。三つ目は試験荷重を受け止めたあと、乾いた音とともに一気に放した。全員が二秒ほど動けなくなった。タルデューはこれを「急ごしらえ」と呼び、その直後、ほかの者がその言葉を使うことを禁じた。技術者たちは三台の作業台に分かれ、備蓄から出した部品や、試験設備から引き剥がしたセンサー、微細な粉塵を防ぐ即席の覆い、民間防衛隊が持ち込んだ救助用の帯を使って作業した。さらに、ソレルが「恥さらし」と評したまま採用した読み取り装置もあった。
その鉤には、世界を変える発明の美しさなどなかった。慌ただしく作られ、三度手直しされ、使われる前から汚れた道具にしか見えなかった。
タルデューは、それを誇らしくさえ思っていた。
「止まり方を知らない物は、不道徳な物よ」
測定値から目を上げたソレルが言った。
「そのうち、オレンヌの哲学を工房の作業手順書に書きそうですね」
「あなたのノートに書くよりましよ」
「おそらく」
リーズは隣室にいた。内側のガラス窓際に置かれた医療用ベッドに横たわっていた。モローは彼女を作業台に座らせないこと、看護師を二人つけること、常時監視すること、そして自分に中止権を与えることを要求した。ケラフはその権利を文書にした。リーズは異議を唱えず署名した。そのせいで、全員がかえって不安になった。
あまりに従順な同意は、ときに不在とよく似ていた。
「自分を差し出したりはしない」とリーズはケラフに言った。
弁護士はすぐには答えなかった。
「そんなふうに、信じる必要のあることを口にするあなたを、私は決して言葉どおりには信じません」
「それは正しいの、間違っているの?」
「両方です。それが私の仕事です」
共同枠班は工房の隅で、初めての実質的な会合を開いていた。セギュールは誰が何に署名するのか知りたがった。ケラフは誰が拒否できるのか知りたがった。タルデューは湿度、粉塵、横梁の角度を求めた。モローはリーズのベッドしか見ていなかった。遠隔参加のミレイユは、名前を求め続けた。スペイン語の通訳は外交官ほど美しく言い換えなかった。そのぶん、よかった。ソレルは会社が提供した図面だけを読むことを拒み、独立した鉱山技師を呼んでいた。
イヴ・ガレックはフランスの鉱山で十五年間働き、その後は操業そのものより、事故に関わる時間のほうが長かった。口数は少なく、必ず「その図面より前の図面」を求め、まず余白を確認しなければ書類に手を置かなかった。
会社の提出した測量図を広げ、その隣に現地救助隊から送られた映像を置いた。赤土の坑道のなかでカメラが揺れていた。ランプの光が支柱を、曲がった配管を、ほとんど文字の消えた塗装プレートを横切った。
ガレックは三秒戻すように頼んだ。
「そこ」
タルデューが身を乗り出した。
「何?」
「プレートです」
通訳が読める部分を読み上げた。
「第七層。ポンプ坑道」
ガレックは公式図面を指で押さえた。
「この図面では、第七層は八年前から封鎖されています」
彼らの周囲で工房は動き続けていた。電動ドライバー、足音、閉じられる箱、締め付けトルクを訊ねる技術者の声。その日常的な音が、沈黙をいっそう激しいものにした。
「図面の誤りですか?」とセギュールが訊いた。
「かもしれません。未申告のまま維持されていた坑道かもしれない。閉鎖後に再開されたのかもしれない。あるいは、提出された名簿に載っていない人間が使っていた抜け道かもしれません」
列車内の画面から、ミレイユが言った。
「誰か足りない者がいないか、訊いてください」
ロンドンの法律事務所は九分で回答した。その速さが疑わしく思えた。
欠けている者はいない。
恐ろしいほど明快な文言だった。
ケラフが声に出して読んだ。
「『現時点において、影響を受けた操業区域内に追加の人員が存在するとは認定されていない』。ほかに誰もいないとは言っていません。ほかの誰も認めていない、と言っている」
ナデージュはガラス越しにリーズを見た。
「高くつく言葉ね、それは」
労組へかけ直した。回線の状態は悪かった。何人もの声が重なり合う部屋から、ひとりの女性が話した。名はアナ・リバス。行政上の意味では救助隊員ではなかったが、家族、別の坑道から脱出した鉱夫、そして救助隊のあいだで情報をつないでいたのは彼女だった。
最初に、三人の名前を確認した。
マテオ・アルバレス、穿孔作業員。
ロシオ・メナ、地質学者。
ルイス・イバラ、電気技師。
それから、どんな通訳にもこれ以上明瞭には訳せない沈黙を置き、付け加えた。
「マリナも捜しています」
通訳が一瞬止まった。
マリナ・チョケ、二十四歳。現地の下請け会社で測量補助をしている。鉱山会社の社員ではない。法律事務所へ送られた名簿にも載っていなかった。旧ポンプ坑道への出水を調べるため、ロシオと一緒に地下へ降りていた。公式には、そこにいるはずのない人間だった。非公式には、正規職員が署名を拒むような仕事を、会社が彼女にさせていたと誰もが知っていた。
「彼女は下にいるの?」とミレイユが訊いた。
アナ・リバスはすぐには答えなかった。
一秒遅すぎてから、訳が届いた。
「下にいないのなら、どこか別の場所で、もう消されています」
紙に彼女の名前を加えた。
マテオ、五十二歳。成人した息子が二人。
ロシオ、三十四歳。現地当局が母親と連絡を取っている。
ルイス、二十七歳。妊娠中のパートナーがいる。
マリナ、二十四歳。救助本部に姉がいる。認定された契約はない。
「これで」とミレイユが言った。「誰が下にいるのか、少しだけましにわかりました」
ベッドのリーズにも聞こえた。
名前を目で見るまでもなく、それらが部屋へ入ってくるのを感じた。それこそが危険だった。名前のひとつひとつに、掴む場所がある。どの掴み場所も、鎖になりうる。
モローは、彼女がシーツを握り締めるのを見た。
「まだ拒否できます」
「何を?」
「夜を」
「ええ」
「いまの『ええ』は、私の言葉への同意ですか。それとも夜への同意ですか?」
彼女は顔を彼へ向けた。
「拒否できるということに、同意してる」
彼は受け入れた。わずかなものだった。だが、無ではなかった。
作戦は、もはやオレンヌだけのものではなかった。フランスのものでもなかった。だからこそ、政治的に醜かった。外務省は言葉を探していた。当事国は、自国の救助隊を見捨てることも、半ば主権国家になりかけた存在へ支援を求めたと認めることも嫌がった。鉱山会社は秘密保持を要求し、ケラフは署名を拒んだ。家族はただ、彼らを出してほしかった。
ヴォークレールは最後の制限を試みた。低い声で、非の打ちどころのない文章を口にした。
「オレンヌの人員を、現場へは派遣しない」
タルデューは顔も上げずに答えた。
「無理です。部品を確認する技術者が最低一人は必要です」
「ならば、領事当局の指揮下に置かれたフランス人技術者を」
「駄目です」とケラフが言った。
「先生」
「鉤を、仮面をかぶせたフランスの行動にすることを認めれば、共同枠は最初の出動で死にます。作戦の指揮はあくまで現地救助隊が執り、オレンヌが身元を明らかにしたうえで技術支援を行い、当事国が明示的に同意する。フランスにできるのは手配までです。呑み込んではならない」
「会社は?」とセギュールが訊いた。
ケラフはロンドンの法律事務所から来た文面を読み返した。それから、マリナの存在しない一行を見た。
「会社は、私たちが道徳的責任を負う相手ではありません」
そこで、いつもより整っていない文書を作った。
限定的支援、現地救助隊の指揮、所有権の移転なし、事業者による使用の禁止。全員の救出後、あるいは失敗が確認された時点で報告書を公表し、家族へは遅滞なく知らせる。また、オレンヌの支援は鉱山会社の慣行を是認するものではなく、現場にいる者について虚偽または不完全な情報があった場合は、支援を即時中止する、と記した。
ナデージュは、法律用語らしくない一文を加えるよう求めた。
ケラフが彼女を見た。
「どんな文です?」
「名前が名簿にとって都合が悪いという理由で、誰ひとり救助から外されないこと」
マソンが異議を唱えた。
「合意文書の表現ではありません」
「ちょうどいいわ」とベッドからリーズが言った。「これは合意文書でしかないわけじゃない」
その一文は残った。
鉤は、ロゴの見えない灰色の箱に収められ、オレンヌを出発した。仮番号がマーカーで書かれていた。PC-01。
共同枠、第一号。
不格好な名前だった。それがリーズを安心させた。
限られた夜
モローは、その部屋を拒否するための場所として整えた。
大規模なモジュール製造を行う部屋ではなかった。コンソールが何列も並ぶことも、ガラスの向こうに視察団がいることもない。奥に法律家も、黙り込む軍人もいない。ただベッドがひとつ、医療用モニターが二台。手帳を持って座るソレル、工房と回線でつながったタルデュー、扉のそばのケラフ、廊下のドロネ。そして、三十秒ごとに時刻を見ずに済むよう、腕時計を外したモローだけだった。
「規則その一」と彼は言った。
「いまは規則が好きなの?」
「あなたが前ほど嫌わなくなってからは」
「どうぞ」
「私が中止と言えば、中止します」
「ええ」
「規則その二。輪郭が失われる感覚が少しでもあれば、口にしてください」
「輪郭が失われる?」
「何を言っているか、よくわかっているでしょう」
わかっていた。
かつての夜、彼女はときおり、自分の体がただの入口になったように感じた。形、質量、場、支えることと物質とのあいだにある不可解な関係。あらゆるものが彼女を通り抜けた。いつも戻ってはきた。だが、内側の皮膚をすべて取り戻せるわけではなかった。やがてモローは、それを「輪郭」と呼ぶようになった。人がまだ、ここにいると言えるためのもの。
「言うわ」
「規則その三。マテオ、ロシオ、ルイス、マリナの命と、あなたの命を秤にかけない」
彼女は目を閉じた。
四人目の名前が、すべてを変えていた。
ほかの三人より重いからではない。そこにいるはずのない人間だったからだ。電話口の女の声から、スキャンされた書類の下端で切れた一行から、現実を採算の取れるものにしておくためなら企業が正確に作り出せる、あの恥から、余白を通ってやって来た名前だったから。
「わかってる」とリーズは言った。
「いいえ。最初はわかっているでしょう。途中で忘れる。だから、いま置いておきます」
ソレルが付け加えた。
「鉤があなたの代わりに救ってはいけません。現地の動作を可能にするだけでなければ」
「あなたも台詞を用意してきたの?」
「いくつか。いちばんましなのを選びました」
スピーカーからタルデューの声がした。
「箱は現場に到着。現地チームは配置についた。オレンヌの技術者は救助本部に残り、映像回線で支援する。アナ・リバスが家族と救助隊のそばにいる。鉤だけでは支えられないことは、現地隊員にも理解してもらった」
「理解したの、それとも復唱しただけ?」
「両方よ。この仕事に関わる人はみんなそう」
タルデューの背後から、もっと低い別の声が割り込んだ。ガレックだった。
「図面に問題があります」
側面のスクリーンで、坑道の映像が揺れていた。救助隊員がヘルメットに取り付けたカメラで撮っている。横梁、赤い粉塵、現地のジャッキが映り、それから左手に、色の濃い岩盤の曲がり角が見えた。ガレックが映像を安定させるよう求めた。カメラはチョークで描かれた白い印の上で止まった。
二本の線と、ひとつの円。
「図面にはありません」とガレックが言った。
通訳が救助隊員の返事を訳した。
「昔の鉱夫の印です。閉鎖坑道を示しています」
「どう閉鎖された?」
質問が返ってくるまで、時間がかかりすぎた。
「会社に閉ざされたのか、山に閉ざされたのか?」
画面の外でアナ・リバスが答えるのが聞こえた。
「どちらかは、会社が話す日によって変わります」
最後にもう一度連絡を受けたロンドンの法律事務所は、作業区域内に追加の人員は認定されていないとの主張を変えなかった。ヴォークレールは中断すべきかと訊いた。セギュールは、正確には何を中断するのかと訊き返した。支援か、嘘か。それとも、壁の向こうにいる誰かの音を聞き取れるかもしれない機会か。
リーズは息をした。
大きく持ち上げようとはしなかった。
それが最も危険な誘惑だった。横梁の真下へ入り、その質量を感じ、押し潰しているものを取り除き、世界へ新たな証明を差し出す。彼女にはそれができた。疲弊していても、彼女の体はまだ、その暴力を受け入れる準備の仕方を知っていた。正しく使われる力には陶酔がある。命を救えるからこそ、なおさら拒みがたい陶酔が。
彼女は別のものを探した。
欠けた部分を。
開いている場所を。
鉤が、救助隊員の手なしには、現地のジャッキなしには、その岩を知る者たちの読みなしには、坑口で待つ家族の恐怖なしには、土のどこかに閉じ込められた四つの呼吸――あるいは三つ、あるいはひとつもないかもしれない呼吸――なしには、何ものでもなくなる地点を。鉱山がどこまで真実を語っているのか、もう誰にも正確にはわからなかった。
眠りが容赦なく彼女を奪った。
最初に、水があった。
サン=ロルメルへ戻ったのだと思った。しかし水は引き、赤い粉塵とヘッドランプの光、遠くで金属を叩く音を残した。鉱山は彼女の知る場所ではない。それだけ危険であり、だからこそ、単純なものに置き換えることができなかった。彼女の精神は、そこをフランスの風景で代用できなかった。不完全な情報を受け入れるしかなかった。翻訳された図面。震えるカメラ。意味のわからない救助隊員の言葉。画面の外の誰かが、優しく苛立ちながら発音するロシオの名。そして、幾何学のなかに居場所を見つけられない、新しい名。
マリナ。
横梁は、疲労の線となって現れた。
打ち負かすべき物ではない。まだ支えすぎている、あるいは、もう充分には支えきれない何かだった。
古い解決策が、体内にせり上がってくる。横梁を掴む。その重さから切り離す。恐怖から引き剥がす。
脈拍が跳ね上がった。
モローが彼女の名を呼んだ。
はるか遠くから聞こえた。
「輪郭を」と彼は言った。
ここにいる、と答えようとした。
声は出なかった。
するとソレルが、もっとベッドの近くで言った。
「重さを残して」
その指示が、奇妙なほど鮮明に夢を貫いた。
重さを残して。
リーズは退いた。
横梁を持ち上げなかった。荷重が、どこなら分かち合われることを受け入れるのか探した。それは一点ではなかった。梁と支柱、ひび割れた地面、ジャッキ、救助隊員の腕。それらのあいだにある関係だった。配管を叩き、生きていることを知らせ続けるマテオの恐怖。ロシオの怒り。ルイスの若さ。マリナの不在。会社の汚い計算。山が何を守っているのか充分に考えないまま、そこから掘り出そうとした銅。そのすべての関係だった。
鉤が受け止めた。
ほんのわずかに。
実演を重んじた古い世界なら、少なすぎると言っただろう。
それでも、手が働き続けるには充分かもしれなかった。
オレンヌの工房で、タルデューが何か叫んだ。数千キロ離れた鉱山で、黄色い表示灯が点灯したままになった。現地の救助隊員が持ち手に手を置いた。ためらった。画面越しのオレンヌの技術者が、急ごしらえで覚えたスペイン語で言った。
「それ以上は駄目だ。いま、そちらのジャッキを」
横梁は残酷さの一部を失った。存在そのものは失わなかった。ジャッキが引き継いだ。岩盤が呻いた。誰かが待てと言った。別の誰かが、静かに、いや、いまだ、と答えた。粉塵が動物のように身じろぎした。
そのとき、鉤が抵抗した。
故障した機械のようにではない。悪い姿勢を拒む体のように。
タルデューの画面上で、曲線が跳ね上がった。黄色い表示灯が三度点滅した。現場の技術者が、中止すべきかと訊いた。タルデューは「ええ」と答えかけた。ガレックが先に言った。
「待ってください」
「駄目です」とモローが言った。
「荷重を拒んでいるんじゃない。軸を拒んでいる」
夢のなかで、鉤は自分の欠けた部分をどこへ置けばいいのか見つけられなかった。与えられるものは、どれもほとんど正しく、それでも誤っていた。横梁。ジャッキ。主坑道。名前を与えられた三人の体。形は、図面が認めようとしない場所へ向かって開いたままだった。
チョークの円。
はるか遠くで、配管を叩く音が聞こえた。
三回。
沈黙。
二回。
フランス側の部屋では、まだ誰も理解していなかった。
現地のアナ・リバスがあまりに速く話し、通訳は彼女を止めなければならなかった。それから、小さく、恐ろしい一文が届いた。
「マテオじゃありません。旧坑道からです」
ヴォークレールが言った。
「作戦の変更について、同意は得ていない」
ケラフが答えた。
「存在しないことにされた人間を見殺しにする同意も、得ていません」
タルデューは技術者に訊いた。
「鉤を、印のほうへ二十センチ移せる?」
答えは、無理、だった。
次には、できるが横梁が動く、になった。
それからアナ・リバスが、鉤がもう少し保持できるなら、下側にジャッキを一本加えられると言った。
モローは医療モニターの曲線が変わるのを見た。
「二分で中止します」
「まだです」とソレルが言った。
彼は抑え込んだ激しさで彼女を見た。
「やめてください」
「もう同じ局面ではありません」
「彼女だって、さっきと同じではない」
リーズにはもう、彼らの声が人間の声として聞こえなかった。声の縁だけが、自分の周りを囲む形として聞こえた。モローは境界だった。ソレルは精密さ。タルデューは掴み場所。ケラフは、消えることを拒む扉。ドロネは廊下にある気配。はるか遠くのマリアンヌは、スープがまだ冷め続けているかもしれない台所だった。
そこから、リーズは輪郭を取り戻した。
スープ。
馬鹿げていた。
それで充分だった。
目を開けた。
「私じゃない」
モローが近づいた。
「何です?」
彼女は空気を探した。
「最後までやるのは、私じゃない」
最初に理解したのはソレルだった。
「開通する前に切ってほしいんです」
工房からタルデューが叫んだ。
「リーズ!」
「移動させたら、中止」とリーズは言った。
声は乾き、傷ついていた。それでも、そこにあった。
技術者が指示を伝えた。坑道のなかで、何本もの手が鉤をチョークの印へ滑らせた。現地のジャッキが軋んだ。岩盤が低い音を立てた。亀裂の音ではない。喉の奥から漏れる訴えに近かった。アナ・リバスは、自分の命令を聞きたがらない男たちに指示を飛ばした。カメラをつけた救助隊員がマリナの名を呼んだ。
鉤が二度目の荷重を受け止めた。
先ほどより少なく、さらに少なく。だが、別の場所で。
公式図面が、存在を否定してきた坑道に敗れた。
モローが切った。
恐ろしい数秒が過ぎた。画面のなかで、誰も話さなかった。鉱山は彼女抜きで動き続けていた。まさに彼女が望んだことだった。同時に、彼女の体にとって最も耐えがたいことでもあった。もう、わからない。
やがて回線が雑音を吐いた。
最初の通路が開いたと、スペイン語の声が言った。
別の声が、マテオが見えると言った。
三つ目の声が、壁の向こうに確かに誰かいると叫んだ。
タルデューは工房のテーブルに両の拳をついた。
モローはリーズから目を離さなかった。
「ここにいてください」
「ここにいる」
「もう一度言って」
彼をからかおうとした。そんな力は残っていなかった。
「ここにいる」
鉱山は、彼女なしで動き続けた。
それが最も難しいことだった。
最初に出てきたのはマテオだった。肩を脱臼し、顔は灰色の粉塵に覆われていた。ロシオは、ルイスより先に通ることを拒んだ。坑道の状態を最もよく理解しており、その理解が自分に余分な責任を負わせるのだ、と彼女は考えていた。ルイスは、家族でもない救助隊員の腕のなかで泣いた。
マリナは同じ穴から出てこなかった。
旧通路を広げ、配管を切断し、公式図面では壁で塞がれていることになっていた点検扉を外さなければならなかった。それから、鉤を横梁に噛ませたまま残す決断をした。栄光の役にはまるで立たず、それでも二十七分間、欠かすことのできないものとして。粉塵のなかに手が見えたとき、アナ・リバスが最初のメッセージを送った。手が帯を握ったとき、二通目を送った。マリナ・チョケが地上で息をしたとき、三通目を送った。契約もなく、自分の名が書かれたヘルメットもなく、どんな名簿にも分類できない泥で顔を覆われたまま。
四人は誰もオレンヌを見ていなかった。見たのはヘルメット、粉塵、黄色い持ち手、現地の人間の手、そして彼らに代わって仕事を済ませなかった奇妙な道具だった。
鉤は坑道に残された。
五十二分後、応答を止めた。
タルデューは故障だと言った。
ソレルは、構造そのものに組み込まれた限界かもしれないと言った。
モローは、それでまったく構わないと言った。
リーズは、すでに眠っていた。
座金
目を覚ましたとき、何かが消えていた。
すぐにはわからなかった。部屋には平板すぎる白い光が満ちていた。看護師が点滴バッグを交換していた。モローは椅子で眠り、口を半ば開け、顎を落としていた。ついに疲労に打ち負かされた男の無防備な姿には、胸を衝くものがあった。ソレルは窓のそばに座っていた。膝に本を開いていたが、読んではいなかった。
「出られた?」とリーズが訊いた。
ソレルは本を閉じた。
「ええ」
「全員?」
物理学者は、答えるまでに一秒かかりすぎた。
「四人とも、生きて」
情報はすぐには喜びにならなかった。水に浸かった家へ人を招き入れるように、彼女の体はゆっくりとそれを受け入れた。
「鉤は?」
「死んだか、黙ったか。タルデューはどちらの言葉も拒んでいます」
「何て言ってるの?」
「将来的な解明の可能性を残したまま、現在は使用不能」
リーズは笑った。
笑うと痛みが戻った。肋骨へ手を当てた。
モローは即座に目を覚ました。
「痛みますか?」
「眠ってたでしょう」
「横向きに監視していました」
「座ってたけど」
「細かいことを言わないでください」
彼はバイタル、目、手、簡単な質問への応答を確認した。名前、場所、日付。日付までは難なく答えられた。そこで彼女は迷った。
「まだ同じ日?」
モローはその問いを気に入らなかった。
ソレルが目を伏せた。
リーズは、自分のなかにかつての反射を探した。自分自身の眠りから離れた場所にある質量を掴める可能性。自分の意思では一度も開いたことのない、それでもいつもどこかに感じていた暗い扉。禍々しく、いつでも開き、何かを要求する扉。
見つからなかった。
形はまだあった。残滓もあった。かつて支えた物の線、モジュールの記憶、痕跡。だが、あの大きな掴み場所は、もう以前ほど明瞭にはなかった。あるいはまだあり、体がそこまで行くことを拒んでいるのかもしれない。違いはわからなかった。何かを失ったのかもしれない。喪失によって守られたのかもしれない。
「感じ方が違う」と彼女は言った。
モローはカルテをテーブルに置いた。
「説明してください」
「前は、拒んでいるときでも、自分の一部がまた物の下へ戻れるとわかってた。いまは、もっと遠い」
「どんなふうに遠いんです?」
「扉の位置を変えられた部屋みたいに」
ソレルが立ち上がった。
「一時的なものかもしれません」
戻れる可能性を彼女から奪わないための言葉だった。その顔は別のことを語っていた。科学者としての関心、恐怖、敬意、そしてほとんど隠された悲しみ。あの大いなる異常は、年齢をひとつ重ねたのかもしれなかった。
油染みのついた白衣姿で、タルデューが入ってきた。
リーズの具合を訊ねようともせず、最初に届いた鉱山の画像を映したタブレットをベッドに置いた。粉塵のなかの鉤。その周囲に集まる手袋をはめた手。ジャッキに支えられた横梁。それから主坑道から救出されたマテオ、ロシオ、ルイス。家族への配慮から顔にはぼかしが入っていた。
もう一枚、画質の悪い写真では、マリナ・チョケが地面に直接座っていた。肩に毛布を掛け、口には大きすぎる酸素マスクをつけている。画面の外の誰かを、少しも損なわれていない怒りの目で見ていた。
「プレートを撮れって頼んだそうよ」とタルデューが言った。
「どのプレート?」
タルデューが画像を滑らせた。
第七層。ポンプ坑道。
隣にはチョークの円が見えた。
「プレートがなければ、坑道は存在しなかったと言われるから、って」
リーズは思わず、指先で画面に触れた。
「正しかった」
「ええ」
「鉤は?」
タルデューは最後の写真を見せた。黄色い持ち手だけが、粉塵と金属の塊からわずかに突き出していた。PC-01はもう、道具には見えなかった。嘘をつかせまいと拒んだ重さのなかに、自ら捕らえられたもののようだった。
「必要なだけは、もった」とタルデューが言った。
「ええ」
「従来のモジュールみたいには従わなかった」
「ええ」
「ほかの連中に、正しく作業することを強いた」
「そのために考えたの」
タルデューは顎に力を入れた。
「世紀最高の技術的独占を、あなたは歪んだ道具ひとつで壊したのかもしれない」
「腹が立つ?」
「当たり前でしょう」
彼女はタブレットに手を置いた。
「それに、ほっとしてる」
次にケラフが来た。三枚の紙を手にしていた。
「短い報告書です。ほかの誰かが、私たちに代わって書く前に」
すべてを読み上げたわけではなかった。必要な行だけだった。四人の名前、現地救助隊の役割、提出図面から消えていた坑道、この支援を鉱山事業者への是認として扱うことの禁止、名簿についてナデージュが加えた一文。
マリナ・チョケの名は、ほかの三人と同じ位置に記されていた。
鉱山会社は一時間以内に異議を申し立てた。
まず未申告坑道の存在を否定し、次には旧保守区域だったと説明し、その次にはマリナ・チョケが立ち入るべきでない区域へ侵入したと述べた。同じ朝、三つの異なる声明で三つの説明が流れた。ナデージュはそれらを印刷し、工房の壁へ横一列に貼った。
「ほとんど詩ね」と彼女は言った。「汗をかいてる人たちの詩」
九時にヴォークレールから電話があった。
「外交危機を引き起こしたぞ」
ケラフが答えた。
「いいえ。すでに地下にあった危機を、見えるようにしただけです」
今回は、フランスがすべてを取り戻すことはなかった。
ところどころで試みてはいた。いくつもの内部文書が回覧され、広報用の文言は、この出来事を「救助協力」という表現のもとへ連れ戻そうとした。関係当局は、「フランスの手段により支援された作戦」と明記するよう提案した。ケラフは「支援された」を消した。タルデューは「手段」を消した。ついにセギュールが、誰も美しいとは思わない一文を自ら書いた。
「フランスが輸送を可能にした。オレンヌが条件を定めた。現地救助隊が救出した」
「重たい文ですね」とマソンが言った。
「ええ」とセギュールは答えた。「重さが主題ですから」
三週間後、オレンヌはブレストの古い格納庫で、初めての共同枠研修を開いた。
浮かぶ領土でも、ガラス張りの部屋でも、カメラの前でもなかった。
消防士、港湾職員、手術室看護師二人、病院設備の技師一人、そしてオレンヌの技術者三人が、六つの鉤の試作品を囲んだ。どれも、まともには動かなかった。資料の冒頭にそう書かれていた。「救助余力。自律浮揚は行わない」
リーズは椅子に座り、春だというのに膝へ毛布を掛けて研修を見ていた。鉤には触れなかった。彼女自身が要求した規則であり、もうすでに嫌っていた。
消防士のひとりが、地面に残す重さを減らしすぎたまま、試験用のコンクリート板を持ち上げようとした。鉤は振動し、それから停止した。
「純粋すぎる」とタルデューが言った。「自分の手のなかで全部消えてほしいと思ってる。悪い癖よ。まだ重くなきゃ駄目」
「どのくらい?」
「あなたが責任を負い続けられるだけ」
リーズは、あの大きな掴み場所を取り戻していなかった。完全には。彼女は別のやり方で働いていた。図面を読み直し、説明書を直し、試験に立ち会い、モジュールが役に立たないほど高潔になってしまう地点を指摘した。眠る時間は増えた。眠りは浅かったが、それでも増えた。
ときおり、何の役にも立たない欲望が戻ってきた。それは約束でもなければ、ほかのすべてを元どおりにする物語でもなかった。目覚めたときの束の間の熱。港ですれ違った恋人たちへの馬鹿げた嫉妬。肩までせり上がり、消えていくハサンの記憶。彼の番号は残してあった。ある晩、画面に表示し、そのまま電話をかけずに閉じた。彼に救いに来てもらう必要はなかった。ただ、その可能性が可能性のまま、装置の外、グラフや署名済みの合意書の外のどこかに残っていればよかった。
コルディエラ山脈から外交行囊で封筒が届いた。ほかにふさわしい分類を、誰も思いつかなかったからだ。
なかには四つのものが入っていた。第七層のプレートを写した写真。スペイン語の文章が書かれた方眼紙。ビニールに包まれた小さなチョークの欠片。そして汚れた金属製の座金。タルデューはリーズが見る前に、すぐ分析へ回そうとした。
「駄目」とリーズが言った。
タルデューは従った。それだけで、その座金にはすでに相当な権威があるとわかった。
手紙はマリナ・チョケからだった。
通訳が、ごく簡潔なフランス語に訳していた。マリナは救助隊員に感謝し、マテオ、ロシオ、ルイス、アナ・リバスの名を挙げ、最後に、追従の言葉もなくオレンヌの名を書いていた。会社は事故を認めたが、自分の仕事をまだ認めていない、と書いていた。姉が新聞記事を取っておいてくれた、とも。何を送ればいいかわからなかったので、旧坑道の印に使ったチョークと、鉤のあとも支え続けたジャッキから落ちた座金を送ることにした、と。
最後の一文が、いちばん短かった。
「会社の名簿では、私はいまも地下へ降りていません」
リーズは三度読んだ。
工房の誰も、話す気にはなれなかった。
やがてナデージュが言った。
「これでおしまい。奇跡は、ここで終わり」
ケラフは訳文を手に取り、報告書の添付資料として使う許可を求めた。それから、本来まずマリナ自身のものである事柄を、法律家として訊ねたことを詫びた。リーズは、彼女が詫びたことを好ましく思った。それでもなお、問いを口にしたことも。
マリナの手紙は、工房の何かを動かした。体が救われても、公式文書からは消えたままでいられることを思い出させた。その晩、リーズはジャンヌに電話をかけた。実演も戦略も求めない人が必要だった。
二日後、ジャンヌはブレストへ来た。
オレンヌへ上がることは拒んだ。
「あなたの国には待ってもらうわ。私は娘に会いに行くの」
港の近くの、ごく普通の部屋へ案内された。マリアンヌが菓子を持ってきた。ドロネは外に立ち、家族の扉を国境のように守る男の慎み深さを見せていた。試作品のひとつがコンクリートのパレットに噛みついて動かなくなったせいで、リーズは遅れて到着した。
入ってくる娘を、ジャンヌが見た。
一瞬。
それで充分だった。
「痩せたわね」
「こんにちは、お母さん」
「ええ、まあ、こんにちは」
二人は用心深く抱き合った。ジャンヌからは洗剤と、列車の冷気の匂いがした。リーズは母のコート、手、椅子に置かれた鞄の確かな存在感に打たれた。どれにも、誰ひとり取り除こうとは思わない重さがあった。よい重さだった。誰かが来たこと、座ったこと、少しここにいることを告げる重さ。
マリアンヌがコーヒーを淹れた。
ジャンヌは鉤を見たいとは言わなかった。リーズがまだ物を浮かせられるのかとも訊かなかった。眠れているか、食べているか、誰かがきちんとシーツを洗っているか、オレンヌのスープは病院食と同じくらい陰気なのか、と訊いた。リーズは答えた。いつも正直だったわけではない。だが、母親にナプキンで首を絞められずに済む程度には答えた。
それからジャンヌが言った。
「ニュースで鉱山の若い女性を見たわ」
「マリナ」
「ええ。すごく怒っている顔だった」
「当然よ」
「ただ救われた顔をしているより、いいわね」
リーズは笑った。
ジャンヌはコーヒーをかき回した。
「あなたのことは、あまり話していなかった」
「そのほうがいい」
「私もそう思った。そのあと腹が立ったけど」
「怒っていいよ」
「母親って馬鹿ね。娘には構わないでほしいくせに、娘が何をしたかは、みんなに知ってほしい」
「私がしたんじゃない」
「大臣みたいな言い方を始めるんじゃないの」
マリアンヌが天井を仰いだ。
「ありがとう」
ジャンヌは続けた。
「つまりね、あなただけがしたんじゃないことくらい、わかってる。でも、『あなただけじゃない』のなかに消えてしまうのも駄目よ」
その言葉は二人のあいだに残った。
リーズは言い返さず、口のなかに置いておいた。ジャンヌの言葉は、多くの文書より核心に触れていた。共同枠の代償にならないことは、自分が無実になるまで姿を消すことではない。開いたのは彼女だ。その責任を負うことになる。だが、責任を負うことと、自分を差し出すことは違う。
コーヒーのあと、二人は岸壁を歩いた。
泊地は灰色で広く、船、クレーン、低い雲、そして誰かが手入れをすることで保たれているもので満ちていた。遠くにもオレンヌは見えなかった。建物の角に隠れているのか、それとも霧のなかなのか。リーズはそのほうがよかった。
マリナの座金をポケットに入れていた。
なぜかはわからなかった。
貨物船がゆっくり港の出口へ進んでいた。
ジャンヌが訊いた。
「あれは、いまも普通に浮いてるの?」
「ええ」
「よかった。普通のものも残しておかないとね」
二人は急がず歩いた。マリアンヌが少し後ろで電話をしていた。口調からすると、相手はナデージュだろう。ドロネはさらに離れてついてきた。小さな船のそばでは、男が網を繕っていた。女が箱を片づけていた。風に飛ばされた帽子を、子供が追いかけていた。そのどれも、存在するためにオレンヌを必要とはしなかった。そのどれも、オレンヌより劣ってはいなかった。
リーズは錆びた係船柱のそばで立ち止まった。
その上に手を置いた。
金属は冷たかった。重かった。何の謎もなかった。
その下へ耳を澄まそうとはしなかった。
誘惑が訪れた。弱く、ほとんど礼儀正しく。そして通り過ぎた。
ポケットのなかで、歩くたびに座金が腿へ触れた。名簿の上ではいまだ地下へ降りていない女とともに戻ってきた、小さく、汚れた、役に立たない重さ。
ジャンヌが彼女を見た。
「大丈夫?」
リーズは金属に手を置いたまま答えた。
「うん」
初めて、その言葉が嘘だとは思えなかった。
世界を支えているのは、オレンヌでも、フランスでも、ひとりの女でも、条項でも、モジュールでも、夢でも、水の上に置かれた新しい国家でもなかった。
世界は、ところどころで支えられていた。
完全には手を放さないことを選ぶ手によって。
最後の一グラムまで取り除かれずに残された重さによって。
名簿からこぼれ落ちた名前を、文章へ戻すことによって。
帰り方を知る人々によって。
座金がポケットの内側の縫い目に当たった。
リーズはマリナの一文を思った。
会社の名簿では、私はいまも地下へ降りていません。
読み返す必要はなかった。その言葉は座金とともにポケットへ入り、鉤とともに格納庫へ入り、ジャンヌの台所へ入り、やがてミレイユが誤った項目に分類し、あとになって、それでも重要だったと気づくかもしれない未来の要請へ入っていた。浮揚は決して終わりではない、とその一文は告げていた。外で息をしていても、名簿を書く者たちにとっては、まだ地下に残されたままの人間がいるのだと。
リーズはまた歩き始めた。
背後で、係船柱は元の場所に残った。
ポケットのなかで、座金は彼女とともに進んだ。
持ち上げられることを求めてはいなかった。
記されることを求めていた。
原稿終わり
編集上または専門上の読書については、[email protected]までご連絡ください。
Pab Sanが創案した「roman-son」RomanSon — 定義と『Résonance』を見る。
目次
- 第1章 — 鋳鉄塊
- 第2章 — 空き家
- 第3章 — 立会いの火曜日
- 第4章 — 封印
- 第5章 — クレール・タルデュー
- 第6章 — 案件ファイル
- 第7章 — 当面、ブレスト
- 第8章 — 目撃者なき証明
- 第9章 — 道義の契約
- 第10章 最初の逸脱
- 第11章 死んだ複製
- 第12章 組織された眠り
- 第13章 — ゲームの中心に立つフランス
- 第14章 — 世界は形を変える
- 第15章 — リーズの身体
- 第16章 — 不可能な離脱
- 第17章 — 地面のない領土
- 第18章 — ブレスト条約
- 第19章 — 希少な市民権
- 第20章 — 最良の者たちの避難所
- 第21章 — フランスという鏡
- 第22章 — 完璧な不正義
- 第23章 — フランスの試験
- 第24章 — 世界を支えるもの
- 第25章 — 浮揚の代償